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ウォルトが創り出すエンターテイメントは彼の倫理観や美学を表している
2022年02月13日 (日) | 編集 |
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彼は、よくアトラクションの列に並んでいたものです。 順番を待つ間、人々の
会話に耳を傾けていました。 そこからアトラクションへの新たなひらめきが、
得れるかも知れないと、考えていたのです。

あるディナーパーティーで、友人に、君なら大統領になれる、と言われた
ウォルトは、こう答えました。 アメリカの大統領になる必要があるか? 私は
ディズニーランドの王様なのだよ。

1960年頃までに、ウォルト率いる、ウォルト・ディズニー・カンパニーは、世界
屈指の収益を誇る一大エンターテイメント企業となっていました。 ウォルトは
初めて、銀行による干渉から解放されます。

テレビ番組を監修したり年に何本もの映画を製作。大活躍と同時にウォルトは
ディズニーという看板を守って行く方法を、常に考えていました。 彼は、こう
語っています。 ディズニーとは、我々が長年、築き上げて来たものであり、
何かを象徴するものだ。

ブランドという言葉が当時には、まだ無かったため、彼は自らを、シンボルと
表現していました。 シンボルになるというのは、どういう事なのかという問題と
彼は格闘していたのだと思います。

ウォルトは、自分が多くのものを象徴しているという自覚を、次第に強めていき
ました。 ただ、ブランドとして確立するという事は、若い頃のような冒険が
できなくなるという事です。

家族で一緒に、映画アラバマ物語を見た時の事です。 父は、こう言いました。
すごい映画だ。 こんな作品が作れたらなぁ。 いつの間にか、自分の仕事が
小さく、まとまってしまっていると感じていたのでしょう。

ウォルトが創り出すエンターテイメントは、彼の倫理観や美学を表しています。
映画だろうがテーマパークだろうが必ずハッピーエンドなのです。 最後には
希望の心が勝利する。 それが彼の思い、そのものだったのです。

ウォルトは、自分の中に抱える苛立ちを、言い訳にはしませんでした。 彼は、
こう語っています。 私の映画は、ショービジネスであって、芸術ではない。
だが、一般大衆の要求を満たしているのは確かだ。 莫大な興行収入が
その証拠である。

テレビ放送で、ABCが視聴率低下に不満を示すと、彼は、あっさりと、NBCの
日曜、夜の枠に移りました。

彼は、テレビの案内役を楽しんでいました。 自分が生み出した親しみやすい
優しいおじさんというキャラクターを、とても気に入っていたのです。

せっかく台本を作っても、カメラの前に立つとウォルトは台本を無視して即興で
しゃべるのです。 アドリブが大好きだったのですよ。

テレビに映るウォルトには親しみやすさがありました。 彼はお茶の間に欠か
せない存在となっていました。 彼は、大切な人に話しかけるように語ります。
あれが本当の彼なのかどうかは分かりません。 テレビのままであってほしい
と思います。 視聴者も、そう願っているでしょう。

ウォルトは、自ら作り出した表向きの顔と、本当の自分とのギャップを認識して
いました。 彼は友人に、こう語った事があります。

ウォルト・ディズニーはタバコを吸わないが、私自身はタバコを吸う。
ウォルト・ディズニーは酒を飲まないが、私は酒を飲む。

若い頃と変わらない、普通の男だと、自分にい言い聞かせていたウォルトは、
周りと同じように会社の理髪店で髪を切り、自ら運転して出勤しました。しかし
他の人々とは、やはり、決定的に違っていたのです。 そして、その事を彼は
自覚していました。

ウォルトは、廊下を歩いて来る途中で、必ず大きな、せきばらいを1つします。
近くにいるぞ。ボスが近付いて来ているぞ、という事を、私たちに知らせている
のです。

映画バンビの中に、森に人間がいるっていうセリフがあるでしょ。 危ないから
用心しろという意味なんだけど、ウォルトのせきばらいが聞こえると誰ともなく
言ったものだよ。 森に人間がいるぞとね。

彼が部屋に入って来ると皆、静まり返ります。 物音1つしません。 常に独特
のパワーを発する人でした。 無駄口は一切なし。 席に着くなり本題です。

1960年代初め、ウォルト・ディズニー・カンパニーは更に大きく成長し、収益は
ウナギ登りでした。 それでもウォルトは相変わらず、がむしゃらに突き進み、
壁に、ぶつかり続けます。

契約を巡る交渉が、うまく行かず、兄のロイと何カ月も、口をきかない事もあり
ました。

父は忍耐強い人でしたが、誰かが的外れな事を言うと、眉が、つり上がって
指で机をトントン叩きます。 それがサインです。

ウォルトは出来上がりに満足すると、たった1言、これでうまく行くと言います。
決して褒めたりはしません。 彼に、うまく行くと言われたら、仕事は終わり。
自分の役割を果たしたという事です。

ウォルトは、自分のやり方に協力しない相手には、辛く当たる事がありました。
何となくピンと来ないし、気に入らないなんて意見を誰かが言おうものなら、
怒鳴りつけられます。 だったら改善策を考えろ! それが出来ないなら、
黙ってろってね。

ウォルトが怒鳴り散らすのを見たのは、2回だけです。 私は、あそこまで
怒らせないよう、気を付けなくちゃと、肝に銘じました。 でも、怒鳴られるのは
当然なのです。 ウォルトが決断を下せば、賛成であろうとなかろうと、従わ
なければなりません。 何といったって、ボスなのですからね。

優しいおじさんのイメージで、あれほどの大事業を、やってのけた人は、他に
いません。 彼には理想とする人物像が、あったのだと思います。 親しみ
やすい温厚なおじさんと、思われたかったのです。 でも、実際は違いました。
本当の自分と、温厚なイメージとの間で、葛藤していたと思います。

ウォルト・ディズニーには、家族以外に親しい人が、いませんでした。 彼の
人生には、友人は必要なかったのです。 そのくせ人々からの称賛は貪欲に
求めていました。 彼ほどの成功者でなければ、それは哀れな姿に映っていた
でしょう。

ウォルトは、61歳で史上最多のアカデミー賞を受賞した、映画プロデューサー
となりました。 しかし、最も手に入れたかった作品賞には、ノミネートすらされ
ませんでした。

1963年ウォルトが、ある物語を映画にしようとしている、という噂が流れます。
その物語とは、メリー・ポピンズ。 彼の娘たちのお気に入りの児童文学です。

実はウォルトがメリー・ポピンズの構想を練り始めたのは、それより20年も前、
白雪姫で世界的な成功を収めた直後の事でした。 野心あふれた若い頃の
思い出が、ウォルトによみがえったのでしょうか。

最初、メリー・ポピンズにアニメーションを入れる計画は、ありませんでした。
ところが、ある時、父が、こう言ったのです。 昔作った長編映画、南部の唄を
映写機にかけてくれないか。 みんなにも見てもらいたいんだ。

その作品は実写とアニメーションを組み合わせたものなのですが、見終わった
後、父は1言もしゃべらず部屋を出て行ってしまいました。 そして3週間ほど
経った頃、また同じ作品を見たいと頼まれました。

見終わると、父はスタッフに、こう言ったのです。 メリー・ポピンズにアニメー
ションを入れてみないか?

ウォルトは、ストーリー重視。 歌で物語を動かして、展開させようとします。
それが重要なポイントなのです。 メリー・ポピンズは児童文学ですが、子供
向けの話しではありません。 崩壊しかけた家族の絆を取り戻す物語なので
す。 ウォルトは、その事を、ちゃんと見抜いていました。

メリー・ポピンズは大ヒット作となりました。 ウォルトは、この作品の父親像に
冷淡だった自分の父の姿を重ね合わせました。 作品では、父親は心を入れ
替えます。

この映画を見た、有名なプロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンは、
ウォルトに、こう伝えました。 メリー・ポピンズには名作に必要とされる要素が
全て完璧に、そろっている。

彼が作る映画には一貫したテーマがあります。それは家族と家族の癒しです。
その信念が、ウォルトが創り出す、全ての作品に織り込まれているのです。

メリー・ポピンズは、アカデミー賞で13部門にノミネート。 中でも作品賞は、
ウォルトにとって最初で最後でした。

メリー・ポピンズでウォルトは、お墨付きを得ました。 映画人の一員として
ハリウッドで、ようやく認められたのです。

しかしメリー・ポピンズが公開された頃、アメリカは様変わりしつつありました。
若者たちはビートルズやボブ・ディラン、ジェームズ・ブラウンの音楽に夢中に
なる一方で、ベトナムで繰り広げられる戦争に不安を募らせます。

更にその頃のアメリカは公民権運動(1950年代~60年代)で揺れていました。
ニューヨークやロサンゼルスで起こった暴動や、人種差別主義者たちによる
過激な行動が、テレビに映し出されます。

ディズニーの描くアメリカと、この国の現実とのギャップは広がるばかり。
あらゆる亀裂が、あらわになりつつ、あったのです。

ウォルトの支持者は、ディズニー映画はハリウッドの中で品性と健全さを維持
する聖域だ、と主張しました。 これに対し、ウォルトに批判的な評論家は酷評
します。 子供の想像力をたたき潰す、つまらなさだ。

ウォルトが描く、白人中流階級の世界。 さまざまな民族や人種の多様性が
描かれない世界。 そうした世界を創り出すディズニーを、1930・40年代に、
もてはやしていた人々が時代と共にウォルトに反発するようになったのです。
保守的で古臭い考えの持ち主だ、とね。

実際、ディズニーの商業的成功は、時として、人種や性の差別につながる
価値観に依存していました。