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ウォルトは社会の状況とは完全に無関係な場所にいるかのようだった
2022年02月10日 (木) | 編集 |
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南部の唄の封切りイベントは、ジョージア州アトランタで行われる事になりまし
た。 7年前に南北戦争当時を描いた、風と共に去りぬが、プレミア上映された
所です。 南部の唄に出演した、主な白人俳優は勢揃い。

しかしジョージア州の法律では、リーマスじいやを演じたジェームズ・バスケット
が、白人専用の映画館に入る事は、許されませんでした。

ウォルトは、社会の状況とは無関係な場所にいるかのようでした。 完全に。

評論家の意見は分かれました。 ある人は、こう書いています。
美しい映画だ。 伝統的な南部の農園。  マグノリアの花が咲き、黒人が
1日中、歌っている夢のような場所である。 子供たちに、ぜひ見せたい。

しかし、ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、他の人々は酷評しました。
主人と奴隷の関係が、ありまにも愛情深く描かれている。 リンカーンは、
間違いを犯したと、ウォルトは思っているのだろうか。

全米黒人地位向上協会は、南部の唄を、奴隷制を美化しているとして非難。
多くの地方で、ボイコットが呼びかけられました。

ウォルトは、南部の唄に対する否定的な反応に、気落ちしていました。 彼は
この映画の題材に自信がありましたし、ついにアメリカ独自の物語が、長編
映画となって上映されるのだと考えていました。 そのため映画を見た人々の
反応にショックを受け、落胆したのです。

ウォルトは、こうした批判はストライキ以来、もう1度、彼を攻撃するチャンスを
うかがっていた、共産主義者によるものだと決めつけました。 ウォルトは、よく
言っていました。 私が、これで終わりになればいいと大勢の人が願っている。

‘映画界の労働争議です。カリフォルニアでストライキが起きています’

ハリウッドは、戦後数年間、またしても、ストライキの波に見舞われました。
スタジオの経営者たちは、組合を弱体化させようと決心します。 ウォルト・
ディズニーも、その1人でした。

彼は、アメリカの理想を守るための映画同盟の役員になりました。この同盟の
設立目的は、共産主義者や急進主義者から映画界を守る事でした。

1947年10月。 ウォルトは、下院非米活動委員会の聴聞会で、証言する事に
なります。 この聴聞会の趣旨は映画界の赤狩り。 ハリウッドでのストライキ
の背後には、共産主義者がいると見なされていました。

最初にウォルトは、自分が共産主義者に汚染されていない、クリーンな会社を
経営していると主張しました。 それから、1941年に、ディズニー・スタジオに
対してストライキを組織した、指導者の名前を挙げ始めます。

‘ソレル氏が共産主義者だと信じていました。共産党関連の出版物で名前を
見ました。私を中傷した人たちは全員、共産党に関わる団体のメンバーでした。
従業員たちが私のところに来てハーバート・ソレルが…彼が私を笑い、考えが
甘いと言ったと。その気になれば、スタジオを潰す事ができるとも’

彼の証言は誰が共産主義者であるかではなく、全て組合の指導者に焦点を
当てたものでした。 ストライキがあったのは、1941年。 この証言の6年も前
の事です。 これは、ウォルトが長年、恨みを抱いていた事の証しでしょう。

ウォルトは、ソレルが共産主義者だと証明できませんでした。
‘答えられるのは、あくまで見聞きした事です’ 裁判なら不十分な証言です。

聴聞会に出席したウォルト、ロナルド・レーガン、ゲイリー・クーパーの証言は
絶賛されました。 そして労働組合の活動家を潰そうとするスタジオの経営者
たちを後押ししたのです。

業界から左翼を追放するためのブラックリストが作成されました。要するにスタ
ジオでは、共産主義者と目される人物は誰も雇わないという協定です。 リスト
の作成に直接、関わっていませんが、ウォルトも、一役買ってはいたのです。

ウォルトは聴聞会での証言の後、政争の場から慌てて逃げ出しました。
彼は、政治思想を巡る争いに興味はなく、ただただ仕事に復帰したいと願って
いました。 ウォルトが注目していたのは、テレビでした。

ホテルに閉じこもり、新たなメディアの可能性を探りました。 そして、最初の
自然ドキュメンタリー、あざらしの島を撮影するため、娘のシャロンを連れて
アラスカへ向かいます。

例え自然映画であっても、ウォルトの手法は変わりません。 まず、膨大な
あざらしのフィルムを見て、こう言います。 母親のあざらしに、娘のあざらし、
悪者のあざらしも、いる。 後で両者は、戦わなければならない。 そういう
フィルムがないなら、撮って来い。 そして物語を作るのです。

それが記録映像を映画作品に変える方法だったのです。 自然ものの撮影は
安上がりでした。 あざらしは、ストライキをしないからです。

あざらしの島はアカデミー賞を受賞し収益を期待できる新たなドキュメンタリー
自然と冒険シリーズにつながりました。

しかし1949年になると、彼は、アニメーション作りの興奮が恋しくなります。
ロイは、製作費の高さに尻込みしました。 兄弟は、怒鳴り合いの大喧嘩を
します。

ウォルトはロイに、アニメーション映画の製作費を捻出するか、事業を売却する
かを迫ります。 ロイは、お前といると頭がおかしくなりそうになる。 一緒には
いられないと言って、部屋を出て行きました。

しかし、結局はロイが折れて、新作のアニメーション映画、シンデレラに必要な
200万ドルを用意する事に同意しました。

ところが、いざシンデレラの製作が始まるとウォルトは、かつて白雪姫の時に
感じた興奮と新たな可能性を、感じられなくなっていました。 映画作りに没頭
する事を意識して避け、大変な作業のほとんどを、スタッフに任せました。

50歳を前に、ウォルトは、急速に体力が衰え始めました。 そして、看護師を
スタジオの従業員に加えます。 看護師のヘイゼルは、毎日、午後5時に
オフィスに来て、背中に温熱療法を施し、親身に彼の話しを聞きました。

1948年秋、ほぼ20年前と同じように、ウォルトは医師の指示に従い、休暇を
取って旅行に出ました。

ウォルトのオフィスには、巨大なおもちゃの汽車がありました。 それを見て、
看護師のヘイゼルは、シカゴで開催される鉄道博覧会を見に行ったら?と
勧めたのです。

ウォルトは鉄道ファンのアニメーター、ウォード・キンボールを旅行に誘います。
ウォルトいわく、君は他の誰よりも楽しんでいるようだな。 シカゴに到着した
時には、ウォルトは有頂天になっていました。

ウォルトは、この旅行をキッカケに大型の鉄道模型が欲しくなり、バーバンクの
スタジオに建設させます。 そして、模型製作の進行状況を確認するのが、
彼の日課となります。

間もなく3~む4時間、工作所で過ごすようになり、だんだん時間が延びていき
ついには土曜になると、1日中、入り浸るようになりました。 作業の責任者は
ウォルトに道具一式を用意し、仕事を手伝わせました。

彼は自分で汽車を作っていました。手作業です。偉大なるウォルト・ディズニー
が、今や自分のエネルギーを、おもちゃの汽車を作る事に捧げていたのです。

シンデレラの製作中、スタジオを訪れたニューヨーク・タイムズ紙の映画評論家は、
ウォルトの様子を、こう書いています。

ミニチュアの汽車に、異様なほど関心を抱いている。 ファンタジーを生み出し
てきた熱意は、おもちゃへ注がれているようだ。

映画シンデレラが1950年の初め、ようやく封切られた時、評論家は古典的な
ディズニー作品が、ようやく帰って来た。 必見の映画だと称賛しました。

ロイは、シンデレラの収益を600万ドルと予測しましたが、実際には800万ドル
もの収益を上げました。

ウォルトは、この映画のおかげで、スタジオが資金面で救われた事を喜びまし
た。 しかし彼は、この映画には、手抜きがある事を見抜いていました。

ウォルトにしてみれば、白雪姫とは、比べものにならなかったのです。 彼の
関心は、他の場所にありました。

ウォルトは、幼少期を過ごしたマーセリンにあった納屋と同じものを、自宅の
裏に建設しました。 そして機関士の帽子にフランネルシャツという出で立ちで
何時間も線路を設計したり、エンジンを組み立てたりしていました。

汽車で遊ぶ彼の姿を映像で見るのは愉快でしたね。家の周りを汽車が走って
いました。 彼にとっては喜びだったでしょう。 幼い頃には決して持てなかった
おもちゃです。 ウォルトは、あれで遊ぶ事が、楽しくて仕方なかったのです。

ウォルトにとって汽車は気晴らし以上のものでした。 画家のダリはウォルトの
家を訪問した時、ウォルトが本物の以上を求めていると感じたと言います。

シュールレアリストのダリは、ウォルトの完璧主義に面食らい、これは模型の
域を超えている、と言ったのです。

人生のあの時期、失望と混乱に悩まされていたウォルトにとって、汽車は慰め
であり、救済であり、仕事場でもありました。 彼は言っています。

私は自分の会社も社員も完全には支配できない。 だが、この世界は細部に
至るまで、自分の思い通りにできる。 妻の花壇の下にトンネルを通す事も。
あれは私の世界だ。 命を吹き込まれた完璧で安全な世界だ。

1952年の初めに、妻のリリアンは、夫が何か大きな企画を温めている事を
感じ取りました。 それは、まさに、リリアンが、よく言っていた瞬間でした。
ウォルトの想像力が、空のかなたへ飛び立つと、全てが爆発するのよ。

ウォルトは、長年、所有してきた家族の資産の整理を始めます。 パームスプ
リングスの別荘を売却し、自分の生命保険を担保に、10万ドルを借りました。

ウォルト・ディズニー・プロダクションに、自分の名前の権利さえ売却しました。
それから、全く新しい事業のための、全く新しい会社を立ち上げます。

彼はスタジオ構内の裏手に、小さな建物を手に入れ、WED(ウォルター・イライ
アス・ディズニー) という組織を作りました。 これは、自分の名前の頭文字を
取ったものです。

ミッキーマウスを考え出した頃のように、少数の従業員でアイデアを出し合う。
古き良き時代の再現でした。