2022年02月09日 (水) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「ゲームセンターで定番のゲームは?」
ウォルト・ディズニーは、クリエーティブな事には力を注ぎました。 しかし、この
騒動には、関わりたくありませんでした。 彼には、理解不能だったのです。
ディズニー・スタジオの従業員は、以前から、昇給や時間外手当の支払い、
エンドクレジットに名前を載せる事などを要求していました。 ウォルトは、労働
組合のいつものやり方だとして、これを無視していました。
しかし1941年5月29日、アニメーション制作部門の、ほぼ半数の従業員が、
ストライキに加わりました。 ストライキは数週間で拡大し、既に揺らいでいた
経営に、更なる脅威を与えます。
新作の長編アニメーション映画ピノキオとファンタジアは、共に赤字を出し、
会社の株式は、1株25ドルから4ドルに下落しました。 ウォルトは、ヒット作を
求めていました。
しかし従業員の方は、新作のダンボとバンビを、失敗させたがっているように
見えました。 ストライキが長引くうちに雰囲気が険悪になって行き、従業員
側とウォルトは、互いに憎み合っていました。
ストライキに突入してから1カ月経っても、ウォルトは漫画映画家組合を、
従業員を代表する組合として認める事を拒否。 組合の代表ハーバート・ソレル
との交渉も拒みました。
更に、解雇したベテランアニメーターのアート・バビットへの謝罪も拒否します。
ウォルトは、多くの従業員が組合側につき、自分に刃向かった事が信じられま
せんでした。 彼は、この裏には陰謀があると考えました。
そして、ハリウッドの業界専門誌バラエティーに、全面広告を出します。
‘ストライキ中の従業員へ。私には、こうして呼びかける以外に方法がない’
ウォルトは、全ての責任を押し付ける悪者を求めていました。 そして、当時の
ハリウッドでは、共産主義という亡霊を悪者にするのが流行りだったのです。
ウォルトは、今の状況は大惨事だと、友人への手紙に書いています。
アニメーションという映像分野を築き上げるうえで、重要な役割を果たして来た
精神が崩壊されてしまった。 私は幻滅し、落胆している。
翌日、ウォルトは南米へ10週間に及ぶ旅に出ました。 頭痛の種は、兄であり
長年の共同経営者でもある、ロイに残して行きました。
南米はウォルトを、ホッとさせました。 どこに行っても熱烈な歓迎を受け、
要人たちがディナーに招待してくれました。 みんな、彼の事が好きでした。
南米で受けた温かな愛情。 その一方、ロサンゼルスで自分に向けられた、
あからさまな敵意。 両極端な反応を、ウォルトは肌で感じ取ったと思います。
父のイライアスが急死した時、ウォルトは、まだ南米を旅行中でした。 ずっと
対立し続けて来た父の葬儀のために、彼が旅行を切り上げて帰国する事は
ありませんでした。
兄のロイにしてみれば、漫画映画家組合と和解を試みている間、かんしゃく
持ちのウォルトが、遠くにいる方が好都合でした。
10月末、ウォルトが帰国した時にはロイは既にストライキを解決していました。
社員の要求は、ほぼ全てが通りました。 ディズニーのアニメーションの制作
部門は、再び軌道に乗ります。 しかし、ウォルトにとってスタジオが家族の
ように思える事は、2度とありませんでした。
ストライキの数カ月後、ディズニー・スタジオの大部分が、高射砲部隊の基地
として接収されます。 第2次世界大戦が始まっていました。
ウォルトの2人の娘は、幸せな日々を過ごしていました。 しかし、スタジオは
火の車で、1942年の夏には、映画製作のための資金が底をつきます。
会社は、政府のプロパガンダや軍の仕事で、何とか持ちこたえていました。
ウォルトは、映画バンビが、ぐらついているスタジオを、復活させるための
大ヒット作になると信じていました。
彼は、この映画の製作を5年近く続け、ストライキの間も中断しませんでした。
1942年8月に公開されたバンビは、ディズニー作品の中で最も野心的な長編
映画として注目を浴びました。 アニメーターは、美しさの中に危険が潜む
自然界を描き出したのです。
バンビは、当時としては最高レベルのリアリズムを追求しています。 その点に
ついては成功を収めました。 しかし僅か数年の間でディズニー映画は、すっ
かり古臭くなってしまったと、人々に感じさせてしまう作品でもあったのです。
バンビは、最初の公開で製作費を回収できませんでした。 ウォルトは、自分
自身にも投資家に対しても、赤字は戦争のせいだと言い訳しました。 しかし
ストライキ直後の、この失敗によって、明白な事実を否定できなくなりました。
ウォルトは、あまりにも多くの資金やエネルギー、自らの心を、アニメーション
映画に注ぎ込んでいたのです。 その結果、彼が手にしたのは、自分に逆らう
従業員ばかりの傾いた会社、山のような負債、政治記者、美術・映画評論家
からの酷評でした。
偉大な実験の時代は、失われました。 初期のディズニー映画は、ビッグ5と
呼ばれています。 つまり白雪姫・ピノキオ・ファンタジア・バンビ・ダンボです。
これらは、全く違う個性を持った作品です。
ディズニースタイルは、当時、存在しませんでした。 ピノキオとバンビは少しも
似ていません。 バンビとダンボも、そうです。
ハイペリオンと初期のバーバンク、2つのスタジオにあったディズニーの楽園は
失われてしまいました。 楽園が失われるとともに、アニメーションのセンスと
偉大さも、また失われてしまいました。 2度と元に戻る事は無かったのです。
ジョニー・マーサー‘南部の唄の元ネタは、リーマスじいやの物語だね’
ウォルト‘ミズーリ州の子供時代に物語を知って以来、ずっとお気に入りでね’
第2次大戦後、ウォルトはアメリカの民話集、リーマスじいやの物語に興味を
持ちました。 これを題材にすれば、これまでヨーロッパのお伽話に頼っていた
物語を、土台から変える事ができます。 自分の少年時代に、つながる物語
でもありました。
ウォルトは南部の唄の製作費を抑えるため、コストの低い実写をアニメーション
と組み合わせました。 銀行家は、戦争が終わっても、ディズニー・スタジオに
長編アニメーション映画を作れるだけの資金を貸さなかったのです。
ディズニーの初代アニメーターの多くがバーバンクスタジオを去っていました。
かつての最先端の装置は、錆びついていました。
しかしウォルトは、戦前の全盛期から衰えない唯一、頼れる資産を持っている
と考えていました。 ストーリー選びと表現方法に関する、彼自身の直感です。
これは疎外された人々、アウトサイダーの物語です。 非常に不幸な白人の
少年と、仲良しの黒人の少年。 語り手の賢い黒人の老人。 アニメーション
部分では、ウサギがそうです。
弱者が強敵を出し抜き、うまく立ち回り、最後には勝利を収める。 つまり大衆
受けする典型的なディズニー・スタイルのストーリーです。
物語の内容は単純ですが、政治的な問題は別でした。 原作の舞台は、南北
戦争直後の最南部の農園。 映画化するには、アメリカが抱える人種問題と
折り合いをつける必要があります。
第2次大戦後も、南部の白人至上主義者は、人種隔離政策を維持しようと、
躍起になっていました。 果たして、アフリカ系アメリカ人の主人公が歴史の
汚点とされる時代について楽しげに語っていいのか?
公民権運動は、まだ盛んではありませんでしたが、全米黒人地位向上協会や
戦争からの帰還兵が、声を上げるようになっていました。 私は、アメリカの
ために戦った。 歴史の苦痛は、皆が分かち合わなねばならない。 まるで、
陽気な物語であるかのように、ごまかす事は望まない、と。
ウォルトはそれまで、社会問題に向き合った事はありませんでした。 彼が
表現したいと望む非常にステレオタイプな人物像を南部の黒人に受け入れて
もらうには、しかるべきアドバイスを受ける必要がありました。
ウォルトは、有名なアフリカ系アメリカ人の知識人や活動家に、意見を求めま
した。 1人の学者は、こう言いました。
これは世論を変える事が、できるかも知れない。 ただし、元奴隷が南部の
農園について、楽しげな歌を歌うといった紋切り型をやめる必要がある。
意見は聞いたものの、ウォルトは、自分の直感を信じました。
ウォルトは、アドバイスを受けても大して注意を払わず、自分が心に描いた
通りに進めました。 いつもと同じように。
南部の唄の封切りイベントは、ジョージア州アトランタで行われる事になりまし
た。 7年前に南北戦争当時を描いた、風と共に去りぬが、プレミア上映された
所です。 南部の唄に出演した、主な白人俳優は勢揃い。
しかしジョージア州の法律では、リーマスじいやを演じたジェームズ・バスケット
が、白人専用の映画館に入る事は、許されませんでした。
ウォルトは、社会の状況とは無関係な場所にいるかのようでした。 完全に。
評論家の意見は分かれました。 ある人は、こう書いています。
美しい映画だ。 伝統的な南部の農園。 マグノリアの花が咲き、黒人が
1日中、歌っている夢のような場所である。 子供たちに、ぜひ見せたい。
しかし、ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、他の人々は酷評しました。
主人と奴隷の関係が、ありまにも愛情深く描かれている。 リンカーンは、
間違いを犯したと、ウォルトは思っているのだろうか。
全米黒人地位向上協会は、南部の唄を、奴隷制を美化しているとして非難。
多くの地方で、ボイコットが呼びかけられました。
ウォルトは、南部の唄に対する否定的な反応に、気落ちしていました。 彼は
この映画の題材に自信がありましたし、ついにアメリカ独自の物語が、長編
映画となって上映されるのだと考えていました。 そのため映画を見た人々の
反応にショックを受け、落胆したのです。
ウォルトは、こうした批判はストライキ以来、もう1度、彼を攻撃するチャンスを
うかがっていた、共産主義者によるものだと決めつけました。 ウォルトは、よく
言っていました。 私が、これで終わりになればいいと大勢の人が願っている。
ウォルト・ディズニーは、クリエーティブな事には力を注ぎました。 しかし、この
騒動には、関わりたくありませんでした。 彼には、理解不能だったのです。
ディズニー・スタジオの従業員は、以前から、昇給や時間外手当の支払い、
エンドクレジットに名前を載せる事などを要求していました。 ウォルトは、労働
組合のいつものやり方だとして、これを無視していました。
しかし1941年5月29日、アニメーション制作部門の、ほぼ半数の従業員が、
ストライキに加わりました。 ストライキは数週間で拡大し、既に揺らいでいた
経営に、更なる脅威を与えます。
新作の長編アニメーション映画ピノキオとファンタジアは、共に赤字を出し、
会社の株式は、1株25ドルから4ドルに下落しました。 ウォルトは、ヒット作を
求めていました。
しかし従業員の方は、新作のダンボとバンビを、失敗させたがっているように
見えました。 ストライキが長引くうちに雰囲気が険悪になって行き、従業員
側とウォルトは、互いに憎み合っていました。
ストライキに突入してから1カ月経っても、ウォルトは漫画映画家組合を、
従業員を代表する組合として認める事を拒否。 組合の代表ハーバート・ソレル
との交渉も拒みました。
更に、解雇したベテランアニメーターのアート・バビットへの謝罪も拒否します。
ウォルトは、多くの従業員が組合側につき、自分に刃向かった事が信じられま
せんでした。 彼は、この裏には陰謀があると考えました。
そして、ハリウッドの業界専門誌バラエティーに、全面広告を出します。
‘ストライキ中の従業員へ。私には、こうして呼びかける以外に方法がない’
ウォルトは、全ての責任を押し付ける悪者を求めていました。 そして、当時の
ハリウッドでは、共産主義という亡霊を悪者にするのが流行りだったのです。
ウォルトは、今の状況は大惨事だと、友人への手紙に書いています。
アニメーションという映像分野を築き上げるうえで、重要な役割を果たして来た
精神が崩壊されてしまった。 私は幻滅し、落胆している。
翌日、ウォルトは南米へ10週間に及ぶ旅に出ました。 頭痛の種は、兄であり
長年の共同経営者でもある、ロイに残して行きました。
南米はウォルトを、ホッとさせました。 どこに行っても熱烈な歓迎を受け、
要人たちがディナーに招待してくれました。 みんな、彼の事が好きでした。
南米で受けた温かな愛情。 その一方、ロサンゼルスで自分に向けられた、
あからさまな敵意。 両極端な反応を、ウォルトは肌で感じ取ったと思います。
父のイライアスが急死した時、ウォルトは、まだ南米を旅行中でした。 ずっと
対立し続けて来た父の葬儀のために、彼が旅行を切り上げて帰国する事は
ありませんでした。
兄のロイにしてみれば、漫画映画家組合と和解を試みている間、かんしゃく
持ちのウォルトが、遠くにいる方が好都合でした。
10月末、ウォルトが帰国した時にはロイは既にストライキを解決していました。
社員の要求は、ほぼ全てが通りました。 ディズニーのアニメーションの制作
部門は、再び軌道に乗ります。 しかし、ウォルトにとってスタジオが家族の
ように思える事は、2度とありませんでした。
ストライキの数カ月後、ディズニー・スタジオの大部分が、高射砲部隊の基地
として接収されます。 第2次世界大戦が始まっていました。
ウォルトの2人の娘は、幸せな日々を過ごしていました。 しかし、スタジオは
火の車で、1942年の夏には、映画製作のための資金が底をつきます。
会社は、政府のプロパガンダや軍の仕事で、何とか持ちこたえていました。
ウォルトは、映画バンビが、ぐらついているスタジオを、復活させるための
大ヒット作になると信じていました。
彼は、この映画の製作を5年近く続け、ストライキの間も中断しませんでした。
1942年8月に公開されたバンビは、ディズニー作品の中で最も野心的な長編
映画として注目を浴びました。 アニメーターは、美しさの中に危険が潜む
自然界を描き出したのです。
バンビは、当時としては最高レベルのリアリズムを追求しています。 その点に
ついては成功を収めました。 しかし僅か数年の間でディズニー映画は、すっ
かり古臭くなってしまったと、人々に感じさせてしまう作品でもあったのです。
バンビは、最初の公開で製作費を回収できませんでした。 ウォルトは、自分
自身にも投資家に対しても、赤字は戦争のせいだと言い訳しました。 しかし
ストライキ直後の、この失敗によって、明白な事実を否定できなくなりました。
ウォルトは、あまりにも多くの資金やエネルギー、自らの心を、アニメーション
映画に注ぎ込んでいたのです。 その結果、彼が手にしたのは、自分に逆らう
従業員ばかりの傾いた会社、山のような負債、政治記者、美術・映画評論家
からの酷評でした。
偉大な実験の時代は、失われました。 初期のディズニー映画は、ビッグ5と
呼ばれています。 つまり白雪姫・ピノキオ・ファンタジア・バンビ・ダンボです。
これらは、全く違う個性を持った作品です。
ディズニースタイルは、当時、存在しませんでした。 ピノキオとバンビは少しも
似ていません。 バンビとダンボも、そうです。
ハイペリオンと初期のバーバンク、2つのスタジオにあったディズニーの楽園は
失われてしまいました。 楽園が失われるとともに、アニメーションのセンスと
偉大さも、また失われてしまいました。 2度と元に戻る事は無かったのです。
ジョニー・マーサー‘南部の唄の元ネタは、リーマスじいやの物語だね’
ウォルト‘ミズーリ州の子供時代に物語を知って以来、ずっとお気に入りでね’
第2次大戦後、ウォルトはアメリカの民話集、リーマスじいやの物語に興味を
持ちました。 これを題材にすれば、これまでヨーロッパのお伽話に頼っていた
物語を、土台から変える事ができます。 自分の少年時代に、つながる物語
でもありました。
ウォルトは南部の唄の製作費を抑えるため、コストの低い実写をアニメーション
と組み合わせました。 銀行家は、戦争が終わっても、ディズニー・スタジオに
長編アニメーション映画を作れるだけの資金を貸さなかったのです。
ディズニーの初代アニメーターの多くがバーバンクスタジオを去っていました。
かつての最先端の装置は、錆びついていました。
しかしウォルトは、戦前の全盛期から衰えない唯一、頼れる資産を持っている
と考えていました。 ストーリー選びと表現方法に関する、彼自身の直感です。
これは疎外された人々、アウトサイダーの物語です。 非常に不幸な白人の
少年と、仲良しの黒人の少年。 語り手の賢い黒人の老人。 アニメーション
部分では、ウサギがそうです。
弱者が強敵を出し抜き、うまく立ち回り、最後には勝利を収める。 つまり大衆
受けする典型的なディズニー・スタイルのストーリーです。
物語の内容は単純ですが、政治的な問題は別でした。 原作の舞台は、南北
戦争直後の最南部の農園。 映画化するには、アメリカが抱える人種問題と
折り合いをつける必要があります。
第2次大戦後も、南部の白人至上主義者は、人種隔離政策を維持しようと、
躍起になっていました。 果たして、アフリカ系アメリカ人の主人公が歴史の
汚点とされる時代について楽しげに語っていいのか?
公民権運動は、まだ盛んではありませんでしたが、全米黒人地位向上協会や
戦争からの帰還兵が、声を上げるようになっていました。 私は、アメリカの
ために戦った。 歴史の苦痛は、皆が分かち合わなねばならない。 まるで、
陽気な物語であるかのように、ごまかす事は望まない、と。
ウォルトはそれまで、社会問題に向き合った事はありませんでした。 彼が
表現したいと望む非常にステレオタイプな人物像を南部の黒人に受け入れて
もらうには、しかるべきアドバイスを受ける必要がありました。
ウォルトは、有名なアフリカ系アメリカ人の知識人や活動家に、意見を求めま
した。 1人の学者は、こう言いました。
これは世論を変える事が、できるかも知れない。 ただし、元奴隷が南部の
農園について、楽しげな歌を歌うといった紋切り型をやめる必要がある。
意見は聞いたものの、ウォルトは、自分の直感を信じました。
ウォルトは、アドバイスを受けても大して注意を払わず、自分が心に描いた
通りに進めました。 いつもと同じように。
南部の唄の封切りイベントは、ジョージア州アトランタで行われる事になりまし
た。 7年前に南北戦争当時を描いた、風と共に去りぬが、プレミア上映された
所です。 南部の唄に出演した、主な白人俳優は勢揃い。
しかしジョージア州の法律では、リーマスじいやを演じたジェームズ・バスケット
が、白人専用の映画館に入る事は、許されませんでした。
ウォルトは、社会の状況とは無関係な場所にいるかのようでした。 完全に。
評論家の意見は分かれました。 ある人は、こう書いています。
美しい映画だ。 伝統的な南部の農園。 マグノリアの花が咲き、黒人が
1日中、歌っている夢のような場所である。 子供たちに、ぜひ見せたい。
しかし、ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、他の人々は酷評しました。
主人と奴隷の関係が、ありまにも愛情深く描かれている。 リンカーンは、
間違いを犯したと、ウォルトは思っているのだろうか。
全米黒人地位向上協会は、南部の唄を、奴隷制を美化しているとして非難。
多くの地方で、ボイコットが呼びかけられました。
ウォルトは、南部の唄に対する否定的な反応に、気落ちしていました。 彼は
この映画の題材に自信がありましたし、ついにアメリカ独自の物語が、長編
映画となって上映されるのだと考えていました。 そのため映画を見た人々の
反応にショックを受け、落胆したのです。
ウォルトは、こうした批判はストライキ以来、もう1度、彼を攻撃するチャンスを
うかがっていた、共産主義者によるものだと決めつけました。 ウォルトは、よく
言っていました。 私が、これで終わりになればいいと大勢の人が願っている。
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