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自分のルーツが常に心の中にあり働く事の大切さをよく分かっていた?
2022年02月06日 (日) | 編集 |
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カリフォルニアに引っ越してからウォルトは両親とは、たまにしか連絡を取って
いませんでした。 しかしディズニー・スタジオが商業的に成功を収めたため、
ウォルトと兄のロイは、両親をロサンゼルスに呼び寄せます。

そして結婚50周年のお祝いに、家をプレゼントしました。 2人の金婚式を祝う
パーティーも開きました。 ウォルトは時折、昔の自分について話したいという
強い思いに駆られる事がありました。

名声が高まっても、彼の家族が、かつて味わった苦労を忘れる事はなかった
のです。 自分が、アメリカ中西部の貧困の中で形づくられた人間だという
意識を、ずっと持ち続けていました。

自分のルーツである中西部の事が常に心の中にあった彼は、自分の体験を
作品を通して伝えなくてはならないと感じていました。 彼は働く事の大切さを
誰に教えられたわけでもないのに、よく分かっていました。

ウォルトが映画の世界に入って15年、有名になってからも、既に10年近く
経っていました。 それでも彼は、自分はハリウッドでは、よそ者だと感じて
いました。

そして、アニメーション映画を、まともな映画だと認めない映画プロデューサー
たちに、不満を抱いていました。 それは、思い込みではありませんでした。

白雪姫は、1938年のアカデミー賞に、ノミネートされなかったのです。 しかし
長編アニメーション映画における先駆的な取り組みが評価され、ウォルトには
特別賞が贈られました。

ウォルトには、半年に1本、新作の長編アニメーション映画を作るという、夢が
ありました。 彼が題材に選ぶのは、観客が既に知っている童話や民話、人気
小説でした。 白雪姫に続いて、2つの企画が立ち上げられました。

子鹿の成長を描いた小説を原作とした、バンビ。 もう1つは、人間の子供に
なりたい人形を主人公にした、19世紀末のイタリアの人気童話ピノキオです。

バンビの制作は、すぐに行き詰まります。 ストーリーが複雑なので、時間を
かける必要があると判断され、ピノキオが先に制作される事になりました。
しかし、こちらも壁にぶつかります。

ピノキオの大きな問題は、主人公のピノキオの性格でした。 ウォルト自身も
述べているように、原作のピノキオは、あまり性格が良くなく、物言いも生意気
です。 そこでまず対処しなければいけない問題は、この主人公をどうやって
観客に好かれるキャラクターにするかという事でした。

1938年の秋、ピノキオのストーリーで頭を悩ませているウォルトのもとに、
1本の電話が掛かって来ます。 ウォルトとロイが、両親のために買った家の
暖房装置が不具合を起こし、両親が一酸化炭素中毒になったというのです。

父イライアスは助かりましたが、母フローラは亡くなります。 ウォルトは葬儀に
参列した後、仕事に戻りました。 それ以後、彼が母の死について語ることは
2度とありませんでした。

ウォルトは、母親に対する思いを、誰とも分かち合いませんでした。 妻に話す
事も、ほとんどなかったと思います。 彼は、表に出す事のできない自分の
感情を、映画の中で表現しようとしたのでょう。

ウォルト・ディズニーは、ピノキオのストーリーについて話し合っていた会議で
激しく感情を高ぶらせた事がありました。 テーブルを強くたたいて、我々は、
短編作品を作ってるんじゃないんだぞ!と、言ったのです。

彼はピノキオは、それまでに作った短編シリーズの作品とは、全くの別物だと
考えていました。 今、我々が作っているのは、芸術作品だ。 芸術には、より
高い質が求められる。 観客に、深い感動を与えられるかどうかが肝心なのだ
と言ったのです、

白雪姫でアニメーションが、さまざまな人間のありようや、現実世界の光と影を
描き出せる事を証明したウォルトは、ピノキオの制作にも野心的に取り組んで
いました。 どんな物語なら、観客を、とりこにできるのか?

ウォルトは考え続け、ついに、ひらめきます。 社会に受け入れられようとする
よそ者や、権威に立ち向かって成長するヒーローの物語。 これはディズニー
映画の一貫したトレードマークになります。

ピノキオは人間である事の意味を問いかけています。 自分で努力しなければ
人間らしさを手に入れる事はできないのだと。 ウォルトは、原作のタイトルと
木の人形は、そのままに、物語の内容を大胆に書きかえさせました。

ウォルトは、ピノキオとバンビの制作だけに、専念していた訳ではありません
でした。 もう1つ、実験的な作品の制作にも取りかかっていたのです。

そのプロジェクトは魔法使いの弟子というシンフォニーをもとに短編作品として
スタートしました。 主役はミッキーマウス。 オーケストラの指揮はレオポルド
ストコフスキーです。

この短編の出来栄えに気を良くしたウォルトは、長編映画に拡大する事を
決めます。 それが、ファンタジアです。

ウォルトとストコフスキーが、クラシック音楽を8曲選び、その音楽に合う映像を
ウォルトとスタジオのチームで検討します。ディズニー・スタジオには、ミュージ
シャンやダンサーだけでなく、有名な科学者まで出入りするようになりました。

スタジオには、作曲者のストラヴィンスキーや、バレエの振付師、ジョージ・
バランシン、天文学者のエドウィン・ハッブルなど、さまざまな方面の専門家が
集められました。 恐竜の研究者までいました。

ウォルトは、白雪姫を作る時にこだわっていた、リアルな感情の表現や映像
づくりから、一旦、距離を置きます。 抽象的な表現を取り入れた映像でも、
観客の感情を揺さぶる事ができるのではないかと、考えたのです。

彼は、こう言っていました。 現代の偉大な芸術家たちが、何をやってのける
のか見てみたい。 彼らと共に、いつまでも魅力を失わない芸術を創りたいん
だと。

3つの大作を同時進行させるため、ウォルトは、フルタイムの従業員の数を
ほぼ2倍に増やしました。 ディズニー・スタジオは、1000人を超えるスタッフを
収容する場所が必要になりました。

敷地内に建物を建てるだけでは間に合いません。ウォルトは当時、ヨーロッパ
にいたロイに相談する事なく、ハリウッドの丘の反対側、バーバンクにある、
およそ20万平方メートルの広大な敷地を購入しました。 そこに、理想のスタ
ジオを建設しようと考えたのです。

バーバンクの新しいスタジオは、高い効率性を追求した設計でしたが、従業員
たちの間に、強い連帯感を生もうという意図もありました。 ウォルトは、こう
言っていました。 スタジオの敷地内に従業員用のアパートを建てれば、通勤
の手間を省ける。最高だろ?と。

スタジオの従業員全員が、素晴らしい長編アニメーション映画を作るという、
目標に向かって一丸となって突き進む。 それこそが、この新しいスタジオを
建設する目的でした。 完璧な映画を作るために、完璧なスタジオを作る事が
重要だったのです。

ピノキオは、1940年2月、ニューヨークで封切られる事になりました。 ウォルト
ディズニーは、懸命に売り込みます。 彼は登場人物の1人ジミニー・クリケット
の歌を歌って聞かせました。

そして、ディズニー・スタジオの優れたカメラ技術や特殊効果を宣伝しました。
ウォルトは、こう触れ込みました。 これまでのアニメーションでは見られな
かった、まるで本物の水中映像のような場面を、お見せします、と。

観客は、映画を観ているうちに、それが作り物の世界だという事を忘れて、
全てが本物のように感じてしまいます。 これこそがアニメーターが作り上げた
究極の芸術なのです。 ピノキオには、他のアニメーション映画にはない、
豊かさと奥行きがあります。

ピノキオは幾度となく危険にさらされます。 その中で魅力的なキャラクターの
ジミニー・クリケットの存在が、この映画のトゲトゲしさを和らげています。
とはいえ、基本的には、かなり暗い作品です。

ピノキオは、人間になりたがっている、木の人形です。 つまり彼は、間違いを
犯して当然で、欠点があっても、それが許されるわけです。

最後の場面でピノキオは、自分が生きている事を実感します。 自分の生命
力を感じられれば、私たちの生命を支えている大きな力も、感じ取る事ができ
るのです。

ピノキオは、批評家たちに絶賛されます。 ある映画評論家は、新聞に、こう
書きました。 ウォルト・ディズニーは、我々の世代が後世に称えられるような
素晴らしい作品を創った。 白雪姫とピノキオを生み出した時代の人々が、
無能であったはずがないと、彼らは言うであろう、と。

しかし、ウォルトが撮影技術の革新にこだわったため、ピノキオの製作費は、
白雪姫の2倍近くに膨れ上がっていました。 アメリカ国内の興行成績は芳しく
なく、また第2次世界大戦が始まっていたヨーロッパでは、チケットはほとんど
売れなかったため、赤字となります。

ディズニー・スタジオは、白雪姫の純利益200万ドル以上を使い果たした上に
新しいスタジオの建設費用を、銀行から借りなければなりませんでした。

ウォルト・ディズニーは切羽詰まっていました。ファンタジアとピノキオの製作費
それに、まだ作り始めたばかりのバンビの製作費を合わせると莫大な金額に
なっていました。 しかも、戦争が行われているヨーロッパの市場は、当てに
できません。 巨大なマーケットを失ったのです。

半年に1本のペースで長編アニメーション映画を作りたいと考えていたウォルト
は、その資金を、どう調達すればいいか悩んでいました。

兄のロイ・ディズニーが、一計を案じます。 株式を公開し、株券を発行しようと
いうのです。 ウォルトは、株主が映画作りに口を挟んでくる事を恐れ、嫌がり
ますが、選択の余地はありませんでした。

1940年4月バーバンクの新しいスタジオへの引っ越しが完了する頃、ウォルト
ディズニー・プロダクションは、優先株15万5000株を発行し、400万ドル近い
資金を調達しました。

株式公開の際の取り決めとして、ロイは、週給1000ドル、ウォルトは、週給
2000ドルで、スタジオと7年契約を結びました。 更に投資家を安心させるため
ウォルトには150万ドルの生命保険がかけられました。 会社の大事な資産と
見なされたのです。

バッハのトッカータとフーガ ニ短調で幕を開けるファンタジアは、極めて抽象的で
興味深い表現スタイルの作品です。 キャラクターは登場せず、自然界に見ら
れるものは、ほとんど現れません。