2022年02月04日 (金) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「習いごとや部活動、サークル活動はしていますか?」
しかし、ついにブロードウェイにあるコロニー・シアターと、2週間の上映契約に
こぎ着けたのです。 蒸気船ウィリーは、1928年11月18日に初上映。
ミッキーマウスのスクリーンデビューです。 観客は、とりこになりました。
これまでも、音声つきの映画はありましたが、これは別物でした。 音楽や
効果音が、ギャグの一部になっているのです。 あるニューヨークの記者は、
座席から転げ落ちそうになったと、書いています。
長編映画の開始時間を遅らせて、蒸気船ウィリーを、もう1度、見せてほしいと
言い出す人までいました。
蒸気船ウィリーの爆発的な大ヒットのお陰で、ディズニー・スタジオは、一躍
有名になりました。 会社は瞬く間に、業界トップクラスに躍り出たのです。
西海岸の新興企業は、この驚くべきキャラクターと共に、誰もが知る存在に
なりました。
ミッキーは歌って踊れるコメディアン。 多才な人気者でした。 アニメーションの
主人公でありながら、数カ月も経たないうちに、ミッキーマウスはハリウッドの
スターになったのです。
1930年、国が大恐慌へ向けて傾き始める中、ネズミの名声は急上昇。
アメリカの、成せば成るの精神の典型として、ミッキーの人気は高まるばかり
でした。
ミッキーマウスは負けん気が強くて、何があってもヘコたれません。大恐慌の
時代にあって、例え、大した技能や財産がなくても、最後は、いつも勝てる
のだというところを、人々に見せてくれたのです。
ミッキーは、挑戦的なところがあり、こんな風に言います。 僕は賢いんだ。
何でも出来る。 面倒を起こしても、うまく切り抜ける。 ちよっと反抗的で、
好き勝手に生きるのが好きなんだ。 まさに、思春期の夢、そのものです。
反抗しても憎まれない。 それが、ミッキーです。
ウォルト・ディズニーは、間違っても、社会を論じる人間ではありませんでした。
大恐慌の問題を、じっくり考えたりは決してしません。 しかし、そうした問題や
一般市民の希望を、本能的に、直感的に捉えていたのです。
成功を邪魔され災難に遭い、ドタバタ喜劇的な展開を迎えます。でも最後には
彼が勝ち、大抵は恋人も手に入れます。
そしてミッキーマウス・クラブが、各地の映画館に次々と誕生。 100万人以上
の子供が入会しました。 クラブを後押ししたロイは、高まるミッキーの人気に
新たな収益の可能性を見い出します。 ライセンス・ビジネスです。
フィリックス・ザ・キャットなど、他の人気キャラクターの例に倣って、子供の
おもちゃにミッキーの肖像を使用する許可を与えるのです。 しかし、当初の
契約は場当たり的なもので、ほとんど儲けになりませんでした。
それが、ケイ・ケイメンの参入で変わります。
広告業を営むケイメンは、マーケティングの専門家で、ブランド戦略に、たけて
いました。 全米にはディズニー・スタジオの成功を、自社の製品と結び付けた
いと考える会社が数多くあり彼は、こうしたライセンスビジネスの天才でした。
そこでディズニー兄弟は、ミッキーマウス、恋人のミニー、愛犬のプルート、
後にドナルド・ダックを含めた4つのキャラクターについて、ケイメンと独占的な
ライセンス契約を結びます。
そして出来上がった製作物、とりわけミッキーの使用には、厳しく目を光らせ、
収益の取り分も大幅に要求。 しかし、ミッキーを使えば商品がよく売れるため
喜んで提携する会社は、いくらでもありました。
1930年代初め、街には、商品化されたミッキーマウスのグッズが、あふれて
いました。 中でも腕時計は、アメリカで1番人気のある時計になりました。
ハイペリオン通りのスタジオには、ミッキーマウスへのファンレターが殺到。
全米はもとより、イギリス・スペイン・フィリピンからも届きました。 一部は、
ミッキー宛て、一部は、ウォルト宛てでした。
ミッキーはディズニーの作ったもので、ウォルトはミッキーの生みの親だと、
思われています。 そのイメージが広まって、私たちが今まで見た事のない
ような、世界的スターとなったのです。
ウォルト・ディズニーにとってミッキーは、もう1人の自分です。 私が1番、
ミッキーと仲良しなんだと、言っていたものです。
ミッキーとウォルトは、通じ合っていました。彼がミッキーの吹き替えをしたのは
当然だったのです。 だってミッキーは、自分自身なのですから。
30歳を前にして、ウォルト・ディズニーは、アニメーション業界から出た、最初の
有名人になりました。 世の中は、ミッキーシリーズの新作を求め、ディズニー
スタジオは業界の頂点に立った上で、更なる成長を目指します。
そしてミッキーの成功で、ハイペリオンには才能豊かなアニメーターが数多く
集まって来ました。 しかしウォルトは進行中の作品全部において、1コマ1コマ
全ての最終的決定権は自分にあると主張します。
朝から晩まで、時には夜中の1時、2時まで働いても、追いつかないほどの
忙しさでした。 彼は、不安や強迫観念に取りつかれ、1日中、タバコを吸って
いました。 スタッフ会議では、苛立ちもあらわに、指で机を叩き続けます。
スタジオの中での彼の役割は、変わりつつありました。 自分で絵を描き、
作品作りに積極的に関わる、かつての姿は鳴りを潜め、作品を評価し批判し、
編集する、監督的な立場になって行きました。 そして、現場での作業から
遠ざかった事で、ひどく悩み、居心地の悪さを感じたのだと思います。
ウォルトは、昔から大家族に憧れていました。 子供は、10人欲しい。 甘や
かして育てるんだと、妹に語った事があります。 リリアンは不安でした。
夫は職場に入り浸りで、その事を考えると、何人であれ、子供を育てる自信は
ありませんでした。 しか、ウォルトは妻を説得します。 ロイとエドナには既に
1人目の子供がいました。
そして1931年の春、リリアンの妊娠が分かると、ウォルトは大喜びし、家族が
増えた時のために、大きな家を、早くも用意し始めました。
ところがリリアンは流産し、ウォルトは、心配して見舞いにやって来る人たちを
追い返しました。 仕事へ戻り、自分は平気だと言い張りますが、そうではあり
ませんでした。
ウォルト ‘私は、ひどい神経衰弱に陥り、自分を抑えられなくなりました。ひた
すら仕事に打ち込み、制作費は増えるばかり。映画の予想収益より、経費が
上回っていました。心がボロボロで、ひどく怒りっぽくなって電話で話している
と、泣き出してしまうほどでした。ほんの些細な事でも、泣いてしまうのです’
1931年10月。 ウォルト・ディズニーは医師の助言に従って、生まれて初めて
本格的な休暇を取ります。 ディズニー夫妻は大陸を横断して首都ワシントンを
訪れ、フロリダを経由してキューバへ渡り、1週間滞在。
帰りは蒸気船でパナマ運河を抜け、ロサンゼルスへ戻りました。 帰宅した
ウォルトは、神経衰弱は神からの贈り物だったと言いました。 人生は楽しい。
仕事だけが人生ではないと。
そして、健康のため運動を始め、リリアンと一緒に長距離の乗馬にも挑戦。
ポロ競技を習って、クラブにも入りました。
神経衰弱から回復したウォルトは、ライフスタイルを変えました。でも、ウォルト
ディズニーが引退? 仕事を人に任せて、周りの期待通りに動いたりするで
しょうか? そんな事は、しません。
ウォルトは例えスタジオの資金繰りが厳しい時でも作品作りを優先させます。
ミッキーで稼いだ収益は、1929年の骸骨の踊りから始まる短編シリーズ、
シリー・シンフォニーに、全部つぎ込まれていました。
シリー・シンフォニーは、芸術性の高いアニメーションです。 骸骨の踊りを
はじめとする一連の作品は、音楽と踊りを融合させた前衛芸術に近い、素晴ら
しい映画と評価されています。 自然界のものなどをキャラクター化して、それ
まで、誰も見た事がなかったような映像を作り出しました。
シリー・シンフォニーは、ウォルトを、漫画家やアニメーターの間で、神話的な
地位にまで押し上げました。 世界中のアーティストが、偉大なるウォルト・
ディズニーの下で働くを夢見て、カバン1つで、カリフォルニアを目指します。
ハイペリオンのスタッフは、200人近くにまで増えました。 1930年代は、どこの
撮影所も、男性中心の社会。 ディズニー・スタジオも例外ではなく、女性の
持ち場は、色塗り担当のスタッフに限られていました。
低賃金でしたが大恐慌の中、安定した収入が得られる仕事に文句を言う人は
いませんでした。
アニメーターたちの憧れの職場でした。 ここでは、私が面倒を見る。 才能が
あるやつには、よい給料を払うと。 ディズニーがアニメーション製作を立派な
職業として確立したからです。
アニメーション産業の開花期と言えるでしょう。 前代未聞の事が、行われて
いたのです。 ふざけた漫画などではなく、芸術でした。
シリー・シンフォニーは、技術開発のオンパレードでした。 音響技術・色彩・
そしてマルチプレーンカメラと、新しい試みが満載だったのです。 このカメラは
アニメーション作品では、初の3次元効果を生み出しました。
ウォルトには、自分のスタジオを、芸術を作り出す場にするのだという信念が
ありました。 ウォルトの考えるスタジオとは、まさに、その形だったのでしょう。
そして、実際に従業員を動かす上でも、いろいろな意味で、その思いが強く
後押ししました。
彼は、とても陽気で、そして、とても気さくでした。 名字でなく、名前で呼んで
ほしいと、最初に言い出したのは、彼自身でした。
ボスですか? 彼は、ボスではありませんでした。 友達でした。 みんなが
彼をウォルトと呼んだのです。 ウォルトと呼ばないと、その人は終わりです。
昼休みには通りを隔てた別館の庭で、よくバレーボールをしました。ウォルトも
見に来ましたね。 それで、あまり手荒にやるなと言いました。 私たちの手、
特に絵を描く方の手のケガを心配したのです。 試合に勝つと拍手喝采で…。
父親のように目配りをしていました。
ウォルトはスタジオ内で美術教室を開き、シュイナード・アート・インスティテュート
から講師を呼んで、指導をしてもらいしまた。 また、専門家を招いて、印象
主義、表現主義、キュービズムなどの講義も行いました。
ウォルト・ディズニーは、アーティストを雇うだけでなく、彼らが安心して働ける
場所を心掛けていました。 安心というのは、解雇を恐れずに失敗したりできる
こと。 評価され、そして学ぶ事ができるという意味です。
ウォルトはスタッフたちを家族と思い、皆で1つのコミュニティー、自分たちだけ
の場所を作ろうとしていました。 すなわち、境界線に守られた小さな世界、
私の望みを実現した場所。 ディズニーの印がついたコミュニティーです。
まだ35歳にもならないウォルトは、ジャックの魔法の豆を持っているかのよう
でした。 彼のスタジオは、暗く色あせた大恐慌時代のアメリカで際立つ、
色鮮やかな虹でした。 一方、家庭生活も充実していました。
リリアンは、娘を出産。 その後、間もなく、次女のシャロンを養子に迎えます。
しかしウォルト・ディズニーは、満足していませんでした。 求めたのは、新しい
冒険。彼いわく、インスピレーションや情熱を揺さぶるような強烈な刺激でした。
しかし、ついにブロードウェイにあるコロニー・シアターと、2週間の上映契約に
こぎ着けたのです。 蒸気船ウィリーは、1928年11月18日に初上映。
ミッキーマウスのスクリーンデビューです。 観客は、とりこになりました。
これまでも、音声つきの映画はありましたが、これは別物でした。 音楽や
効果音が、ギャグの一部になっているのです。 あるニューヨークの記者は、
座席から転げ落ちそうになったと、書いています。
長編映画の開始時間を遅らせて、蒸気船ウィリーを、もう1度、見せてほしいと
言い出す人までいました。
蒸気船ウィリーの爆発的な大ヒットのお陰で、ディズニー・スタジオは、一躍
有名になりました。 会社は瞬く間に、業界トップクラスに躍り出たのです。
西海岸の新興企業は、この驚くべきキャラクターと共に、誰もが知る存在に
なりました。
ミッキーは歌って踊れるコメディアン。 多才な人気者でした。 アニメーションの
主人公でありながら、数カ月も経たないうちに、ミッキーマウスはハリウッドの
スターになったのです。
1930年、国が大恐慌へ向けて傾き始める中、ネズミの名声は急上昇。
アメリカの、成せば成るの精神の典型として、ミッキーの人気は高まるばかり
でした。
ミッキーマウスは負けん気が強くて、何があってもヘコたれません。大恐慌の
時代にあって、例え、大した技能や財産がなくても、最後は、いつも勝てる
のだというところを、人々に見せてくれたのです。
ミッキーは、挑戦的なところがあり、こんな風に言います。 僕は賢いんだ。
何でも出来る。 面倒を起こしても、うまく切り抜ける。 ちよっと反抗的で、
好き勝手に生きるのが好きなんだ。 まさに、思春期の夢、そのものです。
反抗しても憎まれない。 それが、ミッキーです。
ウォルト・ディズニーは、間違っても、社会を論じる人間ではありませんでした。
大恐慌の問題を、じっくり考えたりは決してしません。 しかし、そうした問題や
一般市民の希望を、本能的に、直感的に捉えていたのです。
成功を邪魔され災難に遭い、ドタバタ喜劇的な展開を迎えます。でも最後には
彼が勝ち、大抵は恋人も手に入れます。
そしてミッキーマウス・クラブが、各地の映画館に次々と誕生。 100万人以上
の子供が入会しました。 クラブを後押ししたロイは、高まるミッキーの人気に
新たな収益の可能性を見い出します。 ライセンス・ビジネスです。
フィリックス・ザ・キャットなど、他の人気キャラクターの例に倣って、子供の
おもちゃにミッキーの肖像を使用する許可を与えるのです。 しかし、当初の
契約は場当たり的なもので、ほとんど儲けになりませんでした。
それが、ケイ・ケイメンの参入で変わります。
広告業を営むケイメンは、マーケティングの専門家で、ブランド戦略に、たけて
いました。 全米にはディズニー・スタジオの成功を、自社の製品と結び付けた
いと考える会社が数多くあり彼は、こうしたライセンスビジネスの天才でした。
そこでディズニー兄弟は、ミッキーマウス、恋人のミニー、愛犬のプルート、
後にドナルド・ダックを含めた4つのキャラクターについて、ケイメンと独占的な
ライセンス契約を結びます。
そして出来上がった製作物、とりわけミッキーの使用には、厳しく目を光らせ、
収益の取り分も大幅に要求。 しかし、ミッキーを使えば商品がよく売れるため
喜んで提携する会社は、いくらでもありました。
1930年代初め、街には、商品化されたミッキーマウスのグッズが、あふれて
いました。 中でも腕時計は、アメリカで1番人気のある時計になりました。
ハイペリオン通りのスタジオには、ミッキーマウスへのファンレターが殺到。
全米はもとより、イギリス・スペイン・フィリピンからも届きました。 一部は、
ミッキー宛て、一部は、ウォルト宛てでした。
ミッキーはディズニーの作ったもので、ウォルトはミッキーの生みの親だと、
思われています。 そのイメージが広まって、私たちが今まで見た事のない
ような、世界的スターとなったのです。
ウォルト・ディズニーにとってミッキーは、もう1人の自分です。 私が1番、
ミッキーと仲良しなんだと、言っていたものです。
ミッキーとウォルトは、通じ合っていました。彼がミッキーの吹き替えをしたのは
当然だったのです。 だってミッキーは、自分自身なのですから。
30歳を前にして、ウォルト・ディズニーは、アニメーション業界から出た、最初の
有名人になりました。 世の中は、ミッキーシリーズの新作を求め、ディズニー
スタジオは業界の頂点に立った上で、更なる成長を目指します。
そしてミッキーの成功で、ハイペリオンには才能豊かなアニメーターが数多く
集まって来ました。 しかしウォルトは進行中の作品全部において、1コマ1コマ
全ての最終的決定権は自分にあると主張します。
朝から晩まで、時には夜中の1時、2時まで働いても、追いつかないほどの
忙しさでした。 彼は、不安や強迫観念に取りつかれ、1日中、タバコを吸って
いました。 スタッフ会議では、苛立ちもあらわに、指で机を叩き続けます。
スタジオの中での彼の役割は、変わりつつありました。 自分で絵を描き、
作品作りに積極的に関わる、かつての姿は鳴りを潜め、作品を評価し批判し、
編集する、監督的な立場になって行きました。 そして、現場での作業から
遠ざかった事で、ひどく悩み、居心地の悪さを感じたのだと思います。
ウォルトは、昔から大家族に憧れていました。 子供は、10人欲しい。 甘や
かして育てるんだと、妹に語った事があります。 リリアンは不安でした。
夫は職場に入り浸りで、その事を考えると、何人であれ、子供を育てる自信は
ありませんでした。 しか、ウォルトは妻を説得します。 ロイとエドナには既に
1人目の子供がいました。
そして1931年の春、リリアンの妊娠が分かると、ウォルトは大喜びし、家族が
増えた時のために、大きな家を、早くも用意し始めました。
ところがリリアンは流産し、ウォルトは、心配して見舞いにやって来る人たちを
追い返しました。 仕事へ戻り、自分は平気だと言い張りますが、そうではあり
ませんでした。
ウォルト ‘私は、ひどい神経衰弱に陥り、自分を抑えられなくなりました。ひた
すら仕事に打ち込み、制作費は増えるばかり。映画の予想収益より、経費が
上回っていました。心がボロボロで、ひどく怒りっぽくなって電話で話している
と、泣き出してしまうほどでした。ほんの些細な事でも、泣いてしまうのです’
1931年10月。 ウォルト・ディズニーは医師の助言に従って、生まれて初めて
本格的な休暇を取ります。 ディズニー夫妻は大陸を横断して首都ワシントンを
訪れ、フロリダを経由してキューバへ渡り、1週間滞在。
帰りは蒸気船でパナマ運河を抜け、ロサンゼルスへ戻りました。 帰宅した
ウォルトは、神経衰弱は神からの贈り物だったと言いました。 人生は楽しい。
仕事だけが人生ではないと。
そして、健康のため運動を始め、リリアンと一緒に長距離の乗馬にも挑戦。
ポロ競技を習って、クラブにも入りました。
神経衰弱から回復したウォルトは、ライフスタイルを変えました。でも、ウォルト
ディズニーが引退? 仕事を人に任せて、周りの期待通りに動いたりするで
しょうか? そんな事は、しません。
ウォルトは例えスタジオの資金繰りが厳しい時でも作品作りを優先させます。
ミッキーで稼いだ収益は、1929年の骸骨の踊りから始まる短編シリーズ、
シリー・シンフォニーに、全部つぎ込まれていました。
シリー・シンフォニーは、芸術性の高いアニメーションです。 骸骨の踊りを
はじめとする一連の作品は、音楽と踊りを融合させた前衛芸術に近い、素晴ら
しい映画と評価されています。 自然界のものなどをキャラクター化して、それ
まで、誰も見た事がなかったような映像を作り出しました。
シリー・シンフォニーは、ウォルトを、漫画家やアニメーターの間で、神話的な
地位にまで押し上げました。 世界中のアーティストが、偉大なるウォルト・
ディズニーの下で働くを夢見て、カバン1つで、カリフォルニアを目指します。
ハイペリオンのスタッフは、200人近くにまで増えました。 1930年代は、どこの
撮影所も、男性中心の社会。 ディズニー・スタジオも例外ではなく、女性の
持ち場は、色塗り担当のスタッフに限られていました。
低賃金でしたが大恐慌の中、安定した収入が得られる仕事に文句を言う人は
いませんでした。
アニメーターたちの憧れの職場でした。 ここでは、私が面倒を見る。 才能が
あるやつには、よい給料を払うと。 ディズニーがアニメーション製作を立派な
職業として確立したからです。
アニメーション産業の開花期と言えるでしょう。 前代未聞の事が、行われて
いたのです。 ふざけた漫画などではなく、芸術でした。
シリー・シンフォニーは、技術開発のオンパレードでした。 音響技術・色彩・
そしてマルチプレーンカメラと、新しい試みが満載だったのです。 このカメラは
アニメーション作品では、初の3次元効果を生み出しました。
ウォルトには、自分のスタジオを、芸術を作り出す場にするのだという信念が
ありました。 ウォルトの考えるスタジオとは、まさに、その形だったのでしょう。
そして、実際に従業員を動かす上でも、いろいろな意味で、その思いが強く
後押ししました。
彼は、とても陽気で、そして、とても気さくでした。 名字でなく、名前で呼んで
ほしいと、最初に言い出したのは、彼自身でした。
ボスですか? 彼は、ボスではありませんでした。 友達でした。 みんなが
彼をウォルトと呼んだのです。 ウォルトと呼ばないと、その人は終わりです。
昼休みには通りを隔てた別館の庭で、よくバレーボールをしました。ウォルトも
見に来ましたね。 それで、あまり手荒にやるなと言いました。 私たちの手、
特に絵を描く方の手のケガを心配したのです。 試合に勝つと拍手喝采で…。
父親のように目配りをしていました。
ウォルトはスタジオ内で美術教室を開き、シュイナード・アート・インスティテュート
から講師を呼んで、指導をしてもらいしまた。 また、専門家を招いて、印象
主義、表現主義、キュービズムなどの講義も行いました。
ウォルト・ディズニーは、アーティストを雇うだけでなく、彼らが安心して働ける
場所を心掛けていました。 安心というのは、解雇を恐れずに失敗したりできる
こと。 評価され、そして学ぶ事ができるという意味です。
ウォルトはスタッフたちを家族と思い、皆で1つのコミュニティー、自分たちだけ
の場所を作ろうとしていました。 すなわち、境界線に守られた小さな世界、
私の望みを実現した場所。 ディズニーの印がついたコミュニティーです。
まだ35歳にもならないウォルトは、ジャックの魔法の豆を持っているかのよう
でした。 彼のスタジオは、暗く色あせた大恐慌時代のアメリカで際立つ、
色鮮やかな虹でした。 一方、家庭生活も充実していました。
リリアンは、娘を出産。 その後、間もなく、次女のシャロンを養子に迎えます。
しかしウォルト・ディズニーは、満足していませんでした。 求めたのは、新しい
冒険。彼いわく、インスピレーションや情熱を揺さぶるような強烈な刺激でした。
| ホーム |