2022年01月24日 (月) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「習いごとや部活動、サークル活動はしていますか?」
江戸時代後期、あふれる情熱と飽くなき探求心で、さまざまな科学技術に
挑んだ男がいました。 空気銃に望遠鏡、更には飛行機まで。 その名は、
江戸の知られざる奇才、国友一貫斎(くにとも・いっかんさい/1778-1840)。
近代日本の科学技術のルーツともいうべき業績を、数多く残しました。
“色々なものを発明して、世の中の事を明らかにして行こうと…東洋のレオナ
ルド・ダ・ヴィンチみたいな…”
その本職は、戦国時代から続く鉄砲産地の鍛冶職人。鉄砲作りの技と知識を
生かし、世界最先端の技術に挑戦したのです。 今回、一貫斎のさまざまな
功績について徹底分析。 残された設計図から模型を製作し、調査してみると
現代にも劣らない優れた技術が見えて来ました。
“現代でも通用するように仕上がっていますので、非常にすごいなと…”
“これは立派な実証主義だ。素晴らしい。 日本のテクノロジーの基本形が、
ここに表れている”
ものづくり大国、日本の礎を築いた、国友一貫斎。 200年の時を経ても輝く、
その実像に迫ります。
滋賀県長浜市国友町。 かつて国友村と呼ばれた、日本屈指の鉄砲の産地
です。 戦国時代には、織田信長や徳川家康をはじめ、有力大名が国友の
鉄砲を頼りにしていました。
江戸後期の文化7年(1810)。 国友一貫斎は、若くして鉄砲作りの腕を認めれ
頭角を現していました。 優れた技術と記憶力、そして妥協を許さない性格が
鉄砲作りの腕を支えていたのです。
日本の科学史を研究する神戸大学院の教授。 鉄砲は、日本の科学技術の
原点だったといいます。
“やっぱり鉄砲は、複合的な技術だった。撃鉄(げきてつ)が落ちるカラクリの
部分だったり、火薬・爆発性物質を、どのように調合するのか?物理も化学も
いろいろなものを、まぜこぜにして作っていた。だから精密器具ですよ。すごく
たくさんの技術が集合している”
さまざまな科学技術を精緻に組み合わせた鉄砲。 この知識と経験が、世間を
驚かせた一貫斎の活躍のよりどころとなりました。 しかし、この頃、国友村は
大きな問題を抱えていました。
江戸の太平の世が続き、鉄砲の需要が激減していたのです。 こうした中、
文化13年(1816)。 一貫斎は、村のもめ事を解決するため、江戸に滞在する
こととなります。
当時、江戸には長崎の出島を通じて蘭学(らんがく)と呼ばれる西洋の学問や
技術が広まっていました。 人体の仕組みや、顕微鏡を通して見えるミクロの
世界。 更には、はるかかなたの天体まで。
さまざまな科学知識が、人々の関心を集めていたのです。 町では知識人が
最新の学問を教え、学び合う会を頻繁に開催。 これが一貫斎の人生にとって
大きな転機となりました。 一貫斎は、持ち前の好奇心で新たな知識を次々に
吸収して行きました。 そして、江戸を訪れて3年目(文政元年/1818)。
一貫斎の鉄砲の技と知識が、大きなチャンスを呼び込みます。
一貫斎が製作に取り組んだ風砲(ふうほう)。 後に気砲(きほう)とも呼ばれる
空気銃です。 気砲には、日本で最先端の技術が備わっていたといいます。
一貫斎が製作した実物を見てみます。
“これが空気を、ためるところ…” まず取り出されたのは空気をためるタンク。
銃身につながる仕組みになっています。
“このトリガーを引く事によって、撃鉄が落ちて、中にたまった空気が込めた
弾を発射させる。素晴らしい。こういうシステムになっている”
残されているのは、銃だけではありません。
“これがポンプ。自転車でいう空気入れ。空気をたくさんためる” ポンプを分解
して中を見てみると、中に黒い輪が、いくつも重なっています。一体、これは?
“現代でいうと、ゴムのパッキンに近い。たぶん革製、革に油を含ませてペタッ
と貼って。そうすると密着性が高いから空気が漏れない。全部工夫していた”
更に一貫斎は、空気が持つ、ある性質に気付きます。
“空気の重さを量ったのは、たぶん一貫斎が、日本で初めてだった。何回、
ポンプを押したら、何グラム増えたという事を、記録に残している”
一貫斎の優れた技術の裏には、卓越した科学的観察力と、徹底した検証が
あったのです。 “たぶん、実証主義精神ですよ”
一貫斎が、日本で初めて製作した気砲。 その性能は、オランダ製をはるかに
超えるものでした。 一貫斎は、気砲のウワサを聞きつけた大名の前で性能を
披露する機会にも恵まれます。
こうして、日本全国の大名の間で気砲のウワサは広まり、注文が殺到。
鉄砲が衰退する中、一貫斎は、新たなヒット作を手に入れたのです。
“外国が作ったものを自分のものにして、次のステップに持って行く。日本の
テクノロジーの基本形が、ここに表れている”
気砲の成功によって、全国に名を知らしめた一貫斎。 ここから数々の業績を
残して行く事になります。
滋賀県長浜市に残る、国友一貫斎の邸宅跡です。 2020年3月、新たに驚く
べき史料が見つかりました。 “飛行機の設計図ですね”
見つかったのは、鳥型の飛行機の設計図。 これまで飛行機の全体像を示し
たものは知られていましたが、今回、その詳細な図面が発見されたのです。
“こういう具体的な設計図を考えた人は、恐らく、日本で初めてだろうと思う”
一貫斎は西洋の技術を取り入れるのみならず、他に類を見ない独自の発想を
開花させていたのです。
文政4年(1821)。 6年にわたる江戸滞在を終え、国友村に戻った、一貫斎。
気砲の製作で学んだ空気の力を利用した、飛行機を思い付いたのです。
世界で初めて滑空飛行を行ったのは、ドイツの技術者オットー・リリエンタール
(1848-1896) 一貫斎が飛行機を設計してから、70年ほど後の出来事です。
もし、一貫斎の飛行機が実際に製作されていたら、世界初の滑空飛行が実現
していた可能性があるのです。 そこで今回、航空工学のスペシャリストたちに
一貫斎の飛行機の検証を行ってもらいました。まず注目したのは翼の大きさ。
“全体で13メールもある。やっぱり、大きな翼で空気の力を確保して、揚力を
作って飛ぶという、そういう構想をしていたのではないかなと…”
更に、翼の詳細な図面からは…。
“こういった翼の断面を見ると鳥を真似して軽くしようという努力の跡は見える
これは本当に、飛行機の構造の本質を捉えている”
では、実際の性能は、どれほどのものなのか? 一貫斎の図面をもとに、
10分の1の模型を製作。 翼の断面など、細部も忠実に再現しました。
完成してみると、翼の大きさが、よく分かります。 いざ、飛ばしてみます。
“スリップして、つるんと行ってしまう…”
最初は、まっすぐ飛ぶものの、途中で不安定になり、墜落してしまいました。
実は、一貫斎の飛行機には、大事なパーツが欠けていました。
“滑空している時に何かの拍子で揺れてしまうと、大きく機体が動いてしまう。
垂直尾翼がないと、方向安定性がない”
垂直尾翼とは、機体後部に垂直に取り付けられる翼です。 機体が斜めから
風を受ける時、垂直尾翼がある事で、機体が元の方向に戻ります。 こうして
安定して前進する事ができるのです。
実際に垂直尾翼を取り付けて飛ばしてみると…今度は安定して滑空に成功。
もし、一貫斎が垂直尾翼に気付いていれば、世界初の滑空飛行を成し遂げて
いたかも知れません。
“一貫斎の機体も、主翼に関してはリリエンタールのグライダーと同じぐらいの
面積を持っているので、十分、滑空できる。これを本当に…試行錯誤をして
飛ばしていれば、世界史に残る偉業が達成できたのではないかと思います”
飛行機の図面が示す、一貫斎の驚くべき才能。 それは、やがて、さらなる
偉業につながって行きます。
江戸時代後期、あふれる情熱と飽くなき探求心で、さまざまな科学技術に
挑んだ男がいました。 空気銃に望遠鏡、更には飛行機まで。 その名は、
江戸の知られざる奇才、国友一貫斎(くにとも・いっかんさい/1778-1840)。
近代日本の科学技術のルーツともいうべき業績を、数多く残しました。
“色々なものを発明して、世の中の事を明らかにして行こうと…東洋のレオナ
ルド・ダ・ヴィンチみたいな…”
その本職は、戦国時代から続く鉄砲産地の鍛冶職人。鉄砲作りの技と知識を
生かし、世界最先端の技術に挑戦したのです。 今回、一貫斎のさまざまな
功績について徹底分析。 残された設計図から模型を製作し、調査してみると
現代にも劣らない優れた技術が見えて来ました。
“現代でも通用するように仕上がっていますので、非常にすごいなと…”
“これは立派な実証主義だ。素晴らしい。 日本のテクノロジーの基本形が、
ここに表れている”
ものづくり大国、日本の礎を築いた、国友一貫斎。 200年の時を経ても輝く、
その実像に迫ります。
滋賀県長浜市国友町。 かつて国友村と呼ばれた、日本屈指の鉄砲の産地
です。 戦国時代には、織田信長や徳川家康をはじめ、有力大名が国友の
鉄砲を頼りにしていました。
江戸後期の文化7年(1810)。 国友一貫斎は、若くして鉄砲作りの腕を認めれ
頭角を現していました。 優れた技術と記憶力、そして妥協を許さない性格が
鉄砲作りの腕を支えていたのです。
日本の科学史を研究する神戸大学院の教授。 鉄砲は、日本の科学技術の
原点だったといいます。
“やっぱり鉄砲は、複合的な技術だった。撃鉄(げきてつ)が落ちるカラクリの
部分だったり、火薬・爆発性物質を、どのように調合するのか?物理も化学も
いろいろなものを、まぜこぜにして作っていた。だから精密器具ですよ。すごく
たくさんの技術が集合している”
さまざまな科学技術を精緻に組み合わせた鉄砲。 この知識と経験が、世間を
驚かせた一貫斎の活躍のよりどころとなりました。 しかし、この頃、国友村は
大きな問題を抱えていました。
江戸の太平の世が続き、鉄砲の需要が激減していたのです。 こうした中、
文化13年(1816)。 一貫斎は、村のもめ事を解決するため、江戸に滞在する
こととなります。
当時、江戸には長崎の出島を通じて蘭学(らんがく)と呼ばれる西洋の学問や
技術が広まっていました。 人体の仕組みや、顕微鏡を通して見えるミクロの
世界。 更には、はるかかなたの天体まで。
さまざまな科学知識が、人々の関心を集めていたのです。 町では知識人が
最新の学問を教え、学び合う会を頻繁に開催。 これが一貫斎の人生にとって
大きな転機となりました。 一貫斎は、持ち前の好奇心で新たな知識を次々に
吸収して行きました。 そして、江戸を訪れて3年目(文政元年/1818)。
一貫斎の鉄砲の技と知識が、大きなチャンスを呼び込みます。
一貫斎が製作に取り組んだ風砲(ふうほう)。 後に気砲(きほう)とも呼ばれる
空気銃です。 気砲には、日本で最先端の技術が備わっていたといいます。
一貫斎が製作した実物を見てみます。
“これが空気を、ためるところ…” まず取り出されたのは空気をためるタンク。
銃身につながる仕組みになっています。
“このトリガーを引く事によって、撃鉄が落ちて、中にたまった空気が込めた
弾を発射させる。素晴らしい。こういうシステムになっている”
残されているのは、銃だけではありません。
“これがポンプ。自転車でいう空気入れ。空気をたくさんためる” ポンプを分解
して中を見てみると、中に黒い輪が、いくつも重なっています。一体、これは?
“現代でいうと、ゴムのパッキンに近い。たぶん革製、革に油を含ませてペタッ
と貼って。そうすると密着性が高いから空気が漏れない。全部工夫していた”
更に一貫斎は、空気が持つ、ある性質に気付きます。
“空気の重さを量ったのは、たぶん一貫斎が、日本で初めてだった。何回、
ポンプを押したら、何グラム増えたという事を、記録に残している”
一貫斎の優れた技術の裏には、卓越した科学的観察力と、徹底した検証が
あったのです。 “たぶん、実証主義精神ですよ”
一貫斎が、日本で初めて製作した気砲。 その性能は、オランダ製をはるかに
超えるものでした。 一貫斎は、気砲のウワサを聞きつけた大名の前で性能を
披露する機会にも恵まれます。
こうして、日本全国の大名の間で気砲のウワサは広まり、注文が殺到。
鉄砲が衰退する中、一貫斎は、新たなヒット作を手に入れたのです。
“外国が作ったものを自分のものにして、次のステップに持って行く。日本の
テクノロジーの基本形が、ここに表れている”
気砲の成功によって、全国に名を知らしめた一貫斎。 ここから数々の業績を
残して行く事になります。
滋賀県長浜市に残る、国友一貫斎の邸宅跡です。 2020年3月、新たに驚く
べき史料が見つかりました。 “飛行機の設計図ですね”
見つかったのは、鳥型の飛行機の設計図。 これまで飛行機の全体像を示し
たものは知られていましたが、今回、その詳細な図面が発見されたのです。
“こういう具体的な設計図を考えた人は、恐らく、日本で初めてだろうと思う”
一貫斎は西洋の技術を取り入れるのみならず、他に類を見ない独自の発想を
開花させていたのです。
文政4年(1821)。 6年にわたる江戸滞在を終え、国友村に戻った、一貫斎。
気砲の製作で学んだ空気の力を利用した、飛行機を思い付いたのです。
世界で初めて滑空飛行を行ったのは、ドイツの技術者オットー・リリエンタール
(1848-1896) 一貫斎が飛行機を設計してから、70年ほど後の出来事です。
もし、一貫斎の飛行機が実際に製作されていたら、世界初の滑空飛行が実現
していた可能性があるのです。 そこで今回、航空工学のスペシャリストたちに
一貫斎の飛行機の検証を行ってもらいました。まず注目したのは翼の大きさ。
“全体で13メールもある。やっぱり、大きな翼で空気の力を確保して、揚力を
作って飛ぶという、そういう構想をしていたのではないかなと…”
更に、翼の詳細な図面からは…。
“こういった翼の断面を見ると鳥を真似して軽くしようという努力の跡は見える
これは本当に、飛行機の構造の本質を捉えている”
では、実際の性能は、どれほどのものなのか? 一貫斎の図面をもとに、
10分の1の模型を製作。 翼の断面など、細部も忠実に再現しました。
完成してみると、翼の大きさが、よく分かります。 いざ、飛ばしてみます。
“スリップして、つるんと行ってしまう…”
最初は、まっすぐ飛ぶものの、途中で不安定になり、墜落してしまいました。
実は、一貫斎の飛行機には、大事なパーツが欠けていました。
“滑空している時に何かの拍子で揺れてしまうと、大きく機体が動いてしまう。
垂直尾翼がないと、方向安定性がない”
垂直尾翼とは、機体後部に垂直に取り付けられる翼です。 機体が斜めから
風を受ける時、垂直尾翼がある事で、機体が元の方向に戻ります。 こうして
安定して前進する事ができるのです。
実際に垂直尾翼を取り付けて飛ばしてみると…今度は安定して滑空に成功。
もし、一貫斎が垂直尾翼に気付いていれば、世界初の滑空飛行を成し遂げて
いたかも知れません。
“一貫斎の機体も、主翼に関してはリリエンタールのグライダーと同じぐらいの
面積を持っているので、十分、滑空できる。これを本当に…試行錯誤をして
飛ばしていれば、世界史に残る偉業が達成できたのではないかと思います”
飛行機の図面が示す、一貫斎の驚くべき才能。 それは、やがて、さらなる
偉業につながって行きます。
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