2022年01月18日 (火) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「習いごとや部活動、サークル活動はしていますか?」
西洋文明の起源とされるギリシャ。 首都アテネには、アクロポリスの丘が
そびえ立っています。 古代に建てられた、いくつもの建造物が頂上から街を
見守ります。 壮麗なパルテノン神殿。 入り口の門プロピュライア。
アテナ・ニケ神殿。 そしてエレクテイオン神殿。 全て2000年以上前、高さ157
メートルの丘に、10万トンもの大理石を運んで造られました。
アテネのアクロポリスは、建造当時から人々を魅了しました。 一体、古代に
どうやって、こんな建物を造り上げたのか?と思わずにはいられません。
古代ギリシャを象徴する巨大建造物は、なぜ、どのように生み出されたので
しょうか? 研究者たちは200年ほど前から、その建造の秘密を解き明かそう
として来ました。
1つ1つの石材が使用する場所に応じて加工されています。 明らかに最高の
技術を持つ職人たちが手掛けていた証拠です。
CGによる再現と詳細な分析によって解明される、高度な建築技術。 古代
ギリシャ人は、いかにして10万トンもの石を切り出し、僅か15年で神殿を完成
させたのでしょうか?
アクロポリスに導入された、さまざまな装置は、当時の人々にとって最先端の
ものばかりでした。 考古学史上、特筆すべき遺跡です。
類いまれな技術によって生まれた、古代ギリシャのシンボル、アテネのアクロ
ポリスの秘密に迫ります。
ヨーロッパ南東部に位置する、ギリシャ。 地中海沿岸に広がる首都アテネは
起伏に富んだ地形で、周辺地域も含め300万以上の人々が暮らしています。
街の中心には世界遺産として知られるアクロポリスの丘があります。 海抜は
157メートル。頂上には市街地を見守るように古代の建造物がそびえています。
その面積は、およそ4万5000平方メートル。 サッカー場が4つ入る広さです。
パルテノン神殿をはじめ、世界に名だたる遺跡が並んでいます。 全て、古代
ギリシャの1000年に及ぶ文明の産物です。
世界最古の都市の1つアテネ。その歴史は6000年以上前に遡ります。新石器
時代の紀元前4000年頃。 現在のアクロポリスの岩山では人々が麓の洞窟
で暮らしていました。 やがて、岩山の周辺に住居を構えて住み始めます。
青銅器時代の紀元前1600年頃には、ギリシャ本土で最初の文明を築いた
ミケーネ人が進出して来ました。ミケーネ人は岩山の頂上に城壁を築きます。
高さ3メートル、厚さ4メートルを超える城壁は、岩山に造られた初めての建造
物でした。 城壁の一部は、アクロポリスに残る最古の遺跡として今でも見る
事ができます。 頑丈な壁は、敵の攻撃を防ぐ役割を担っていたはずです。
城壁の内側には宮殿が造られ王や貴族など上流階級の人々が暮らしていた
と考えられます。 紀元前1100年頃まで、ミケーネ人の勢力はギリシャの広い
地域に及んでいました。 ところが突如、その文明は消滅してしまいます。
ミケーネ文明が突然、崩壊した原因は、いくつか考えられます。 1つは、外部
から来た侵略者に襲撃されたとする説です。 壊滅的な自然災害が起こった
可能性もあります。
地震や火山の爆発などが続き、環境が激変したのかも知れません。 とにかく
まだハッキリとは分かっていないのです。 研究が続いています。
ミケーネ文明の衰退後も、岩山の周囲には、いくつもの集落が残りました。
そして紀元前800年頃には、共同のルールと神々を信奉する都市国家が誕生
します。 ギリシャ神話によれば、その都市国家を2人の神が欲しがりました。
知恵と戦術の女神アテナと、海の神ポセイドンです。
2人の神は、都市国家を手に入れようと競いました。 人々の気を引くため
ポセイドンは三つまたの矛を振るって、塩水を与えたといいます。 一方、女神
アテナは、オリーブの木を授けました。 そしてアテナが勝利を収め、その都市
国家は女神の名前から、アテナイと呼ばれるようになったのです。
アテナイの人々は岩山の頂上に女神の栄光をたたえて神殿を建設しました。
残念ながら、その神殿は、もう残っていません。 しかし研究者たちは、発掘を
続けた末、神殿の痕跡を探り当てました。
現在のパルテノン神殿の下に、石灰岩の石材が並んでいる事を発見したので
す。 19世紀末に行った遺跡調査で、古代に岩山で、大がかりな建設工事が
行われていた事実が明らかとなりました。
紀元前490年頃、岩山の北側を削って平らな地面を造り、南の崖には、1個
数百キロもある石灰岩が、何層も積み上げられました。
石積みの高さは、およそ11メートル。 完成したのは、長さ77メートル、幅31
メートルにも及ぶ、巨大な岩の土台でした。 建設に使われた石灰岩の量は、
およそ8000立方メートル。 現代のオリンピック用プール3杯分に相当します。
岩の土台は建物の基礎となり、その上に女神アテナを祭る神殿が築かれまし
た。 古パルテノンと呼ばれる、最初のパルテノン神殿です。 古パルテノンの
石灰岩の基礎部分は、今でもハッキリと残っています。
これが、最初の神殿を支えていた基礎部分です。 ここは、南西の角にあたり
ます。 こちらが最上部です。 反対側の角では、最大で22段、石灰岩が積み
上げられています。 石の接合部分を見ると、とてもうまく重ねられている事が
分かります。 見事な技術です。
発掘調査が進むにつれ、最初の神殿の全貌が徐々に明らかになって行きま
した。 建物は細長い長方形で正面に6本、側面に16本の円柱が並んでいま
した。広間は2つあり幅が23メートル、長さは67メートルあったと推定されます。
高さは、およそ14メートルありました。 女神アテナの偉大な力をたたえた壮大
な建造物だったのです。神殿本体に用いられた大理石も見つかっています。
最初のパルテノン神殿は、アクロポリスの建築の歴史で極めて重要な転換点
でした。 全体が全て大理石で造られた、初めての神殿だったからです。
古代ギリシャの歴史において、それまで大理石だけで神殿が造られたことは
ありませんでした。 大理石は彫刻だけに使用される高級品だったからです。
船で何日もかけて運搬される、極めて貴重な材料でした。
では、最初のパルテノン神殿を築くために必要となった大量の大理石は、どの
ように調達されたのでしょうか? 最初の神殿が建造される十数年前、アテネ
から北東へ17キロ離れたペンテリコン山で、大きな発見がありました。
標高1000メートルほどの山に、良質な大理石が、大量に眠っていたのです。
アテネの人々にって、ありがたい恵みでしたが、問題もありました。
大理石は非常に採掘が難しいとされています。 石自体に小さなヒビが入って
いるからです。 塊を切り出す際に、より大きな亀裂が入ると、もう、どうにも
できません。 極めて硬いので、山から切り出す作業も長時間かかります。
大理石の切り出しは、まず必要な大きさごとに岩肌に細かな切れ目を入れて
行きます。 そこに、鉄のくさびを差し込み、一斉に槌(つち)で打ちつけます。
数百回、数千回と繰り返すうち、徐々に一部が切り離されて行きます。最後に
重い木の棒を使って、岩から分離すると石材が出来上がります。テコの原理を
使えば、1人で30人分の力をかける事も可能でした。
切り出された大理石は、その場で加工されました。 神殿の円柱に使うタン
ブールという石材は、円筒形に近い形に整えられます。 しかし建設現場まで
運んで行かなければ、使う事はできません。
ペンテリコン山の採石場から、アクロポリスまでは、およそ17キロ。 古代の
人々は、大理石を木製の荷車に載せ、ラバ(ロバ)に引かせました。 石材1つを
運搬するのに、丸1日かかっていたのです。
ようやくアクロポリスの麓に着いても、最後の難関が待っていました。 巨大な
石を丘の上に持ち上げなくてはなりません。 頂上まで急な傾斜が続きます。
研究者たちは、石の運搬に使われた、古代のルートを発見しました。
石材を、アクロポリスの頂上まで運ぶために使われたのが、向こうに見える
スロープです。
古代ギリシャの人々は、長さ80メートル、幅10メートルの緩やかなスロープを
造りました。 坂の勾配率は、10%。 重い石を運び上げるには十分です。
石材は荷車に積まれ、スロープの頂上に固定した滑車を利用して、引き上げ
られる仕組みでした。 荷車の先に付けたロープを、滑車を通して、もう1台の
空の荷車に、つなぎます。
その荷車を、15頭ほどのラバを使って、スロープの下まで引いて行きます。
下に着くと、空の荷車に新たな石材を積み、ラバはスロープの上まで連れて
行かれ、次は反対側の荷車を引っ張るのです。
この見事なシステムによって、1個の石材を、僅か数時間で運び上げることが
できました。 大理石の運搬作業が進む中、アクロポリスの頂上では、最初の
パルテノン神殿の建造が始まります。
神殿の円柱を組み立てるには、石材を1つ1つ積み重ねて行く必要がありまし
た。 遺跡には、特徴的な突起の付いた円筒形のタンブールが残っています。
古代ギリシャで用いられた建造技術を知るための、貴重な手がかりです。
巨大な石を積み上げるため当時、最新式の巻き上げ装置が導入されました。
木製のクレーンが、重さ10トンの石材を、およそ8メートルの高さまで持ち上げ
ます。 突起部分にロープを掛ける事で、大理石が外れずに引き上げられ、
正確に積み重ねる事ができました。
突起は円柱に彫刻を施す際に削り取られました。 ところが円柱の組み立てが
始まった直後、神殿の建設は中止されてしまいます。 かつてギリシャに敗れ
復讐に燃えるペルシャ帝国が、アテネへの攻撃を開始したのです。
西洋文明の起源とされるギリシャ。 首都アテネには、アクロポリスの丘が
そびえ立っています。 古代に建てられた、いくつもの建造物が頂上から街を
見守ります。 壮麗なパルテノン神殿。 入り口の門プロピュライア。
アテナ・ニケ神殿。 そしてエレクテイオン神殿。 全て2000年以上前、高さ157
メートルの丘に、10万トンもの大理石を運んで造られました。
アテネのアクロポリスは、建造当時から人々を魅了しました。 一体、古代に
どうやって、こんな建物を造り上げたのか?と思わずにはいられません。
古代ギリシャを象徴する巨大建造物は、なぜ、どのように生み出されたので
しょうか? 研究者たちは200年ほど前から、その建造の秘密を解き明かそう
として来ました。
1つ1つの石材が使用する場所に応じて加工されています。 明らかに最高の
技術を持つ職人たちが手掛けていた証拠です。
CGによる再現と詳細な分析によって解明される、高度な建築技術。 古代
ギリシャ人は、いかにして10万トンもの石を切り出し、僅か15年で神殿を完成
させたのでしょうか?
アクロポリスに導入された、さまざまな装置は、当時の人々にとって最先端の
ものばかりでした。 考古学史上、特筆すべき遺跡です。
類いまれな技術によって生まれた、古代ギリシャのシンボル、アテネのアクロ
ポリスの秘密に迫ります。
ヨーロッパ南東部に位置する、ギリシャ。 地中海沿岸に広がる首都アテネは
起伏に富んだ地形で、周辺地域も含め300万以上の人々が暮らしています。
街の中心には世界遺産として知られるアクロポリスの丘があります。 海抜は
157メートル。頂上には市街地を見守るように古代の建造物がそびえています。
その面積は、およそ4万5000平方メートル。 サッカー場が4つ入る広さです。
パルテノン神殿をはじめ、世界に名だたる遺跡が並んでいます。 全て、古代
ギリシャの1000年に及ぶ文明の産物です。
世界最古の都市の1つアテネ。その歴史は6000年以上前に遡ります。新石器
時代の紀元前4000年頃。 現在のアクロポリスの岩山では人々が麓の洞窟
で暮らしていました。 やがて、岩山の周辺に住居を構えて住み始めます。
青銅器時代の紀元前1600年頃には、ギリシャ本土で最初の文明を築いた
ミケーネ人が進出して来ました。ミケーネ人は岩山の頂上に城壁を築きます。
高さ3メートル、厚さ4メートルを超える城壁は、岩山に造られた初めての建造
物でした。 城壁の一部は、アクロポリスに残る最古の遺跡として今でも見る
事ができます。 頑丈な壁は、敵の攻撃を防ぐ役割を担っていたはずです。
城壁の内側には宮殿が造られ王や貴族など上流階級の人々が暮らしていた
と考えられます。 紀元前1100年頃まで、ミケーネ人の勢力はギリシャの広い
地域に及んでいました。 ところが突如、その文明は消滅してしまいます。
ミケーネ文明が突然、崩壊した原因は、いくつか考えられます。 1つは、外部
から来た侵略者に襲撃されたとする説です。 壊滅的な自然災害が起こった
可能性もあります。
地震や火山の爆発などが続き、環境が激変したのかも知れません。 とにかく
まだハッキリとは分かっていないのです。 研究が続いています。
ミケーネ文明の衰退後も、岩山の周囲には、いくつもの集落が残りました。
そして紀元前800年頃には、共同のルールと神々を信奉する都市国家が誕生
します。 ギリシャ神話によれば、その都市国家を2人の神が欲しがりました。
知恵と戦術の女神アテナと、海の神ポセイドンです。
2人の神は、都市国家を手に入れようと競いました。 人々の気を引くため
ポセイドンは三つまたの矛を振るって、塩水を与えたといいます。 一方、女神
アテナは、オリーブの木を授けました。 そしてアテナが勝利を収め、その都市
国家は女神の名前から、アテナイと呼ばれるようになったのです。
アテナイの人々は岩山の頂上に女神の栄光をたたえて神殿を建設しました。
残念ながら、その神殿は、もう残っていません。 しかし研究者たちは、発掘を
続けた末、神殿の痕跡を探り当てました。
現在のパルテノン神殿の下に、石灰岩の石材が並んでいる事を発見したので
す。 19世紀末に行った遺跡調査で、古代に岩山で、大がかりな建設工事が
行われていた事実が明らかとなりました。
紀元前490年頃、岩山の北側を削って平らな地面を造り、南の崖には、1個
数百キロもある石灰岩が、何層も積み上げられました。
石積みの高さは、およそ11メートル。 完成したのは、長さ77メートル、幅31
メートルにも及ぶ、巨大な岩の土台でした。 建設に使われた石灰岩の量は、
およそ8000立方メートル。 現代のオリンピック用プール3杯分に相当します。
岩の土台は建物の基礎となり、その上に女神アテナを祭る神殿が築かれまし
た。 古パルテノンと呼ばれる、最初のパルテノン神殿です。 古パルテノンの
石灰岩の基礎部分は、今でもハッキリと残っています。
これが、最初の神殿を支えていた基礎部分です。 ここは、南西の角にあたり
ます。 こちらが最上部です。 反対側の角では、最大で22段、石灰岩が積み
上げられています。 石の接合部分を見ると、とてもうまく重ねられている事が
分かります。 見事な技術です。
発掘調査が進むにつれ、最初の神殿の全貌が徐々に明らかになって行きま
した。 建物は細長い長方形で正面に6本、側面に16本の円柱が並んでいま
した。広間は2つあり幅が23メートル、長さは67メートルあったと推定されます。
高さは、およそ14メートルありました。 女神アテナの偉大な力をたたえた壮大
な建造物だったのです。神殿本体に用いられた大理石も見つかっています。
最初のパルテノン神殿は、アクロポリスの建築の歴史で極めて重要な転換点
でした。 全体が全て大理石で造られた、初めての神殿だったからです。
古代ギリシャの歴史において、それまで大理石だけで神殿が造られたことは
ありませんでした。 大理石は彫刻だけに使用される高級品だったからです。
船で何日もかけて運搬される、極めて貴重な材料でした。
では、最初のパルテノン神殿を築くために必要となった大量の大理石は、どの
ように調達されたのでしょうか? 最初の神殿が建造される十数年前、アテネ
から北東へ17キロ離れたペンテリコン山で、大きな発見がありました。
標高1000メートルほどの山に、良質な大理石が、大量に眠っていたのです。
アテネの人々にって、ありがたい恵みでしたが、問題もありました。
大理石は非常に採掘が難しいとされています。 石自体に小さなヒビが入って
いるからです。 塊を切り出す際に、より大きな亀裂が入ると、もう、どうにも
できません。 極めて硬いので、山から切り出す作業も長時間かかります。
大理石の切り出しは、まず必要な大きさごとに岩肌に細かな切れ目を入れて
行きます。 そこに、鉄のくさびを差し込み、一斉に槌(つち)で打ちつけます。
数百回、数千回と繰り返すうち、徐々に一部が切り離されて行きます。最後に
重い木の棒を使って、岩から分離すると石材が出来上がります。テコの原理を
使えば、1人で30人分の力をかける事も可能でした。
切り出された大理石は、その場で加工されました。 神殿の円柱に使うタン
ブールという石材は、円筒形に近い形に整えられます。 しかし建設現場まで
運んで行かなければ、使う事はできません。
ペンテリコン山の採石場から、アクロポリスまでは、およそ17キロ。 古代の
人々は、大理石を木製の荷車に載せ、ラバ(ロバ)に引かせました。 石材1つを
運搬するのに、丸1日かかっていたのです。
ようやくアクロポリスの麓に着いても、最後の難関が待っていました。 巨大な
石を丘の上に持ち上げなくてはなりません。 頂上まで急な傾斜が続きます。
研究者たちは、石の運搬に使われた、古代のルートを発見しました。
石材を、アクロポリスの頂上まで運ぶために使われたのが、向こうに見える
スロープです。
古代ギリシャの人々は、長さ80メートル、幅10メートルの緩やかなスロープを
造りました。 坂の勾配率は、10%。 重い石を運び上げるには十分です。
石材は荷車に積まれ、スロープの頂上に固定した滑車を利用して、引き上げ
られる仕組みでした。 荷車の先に付けたロープを、滑車を通して、もう1台の
空の荷車に、つなぎます。
その荷車を、15頭ほどのラバを使って、スロープの下まで引いて行きます。
下に着くと、空の荷車に新たな石材を積み、ラバはスロープの上まで連れて
行かれ、次は反対側の荷車を引っ張るのです。
この見事なシステムによって、1個の石材を、僅か数時間で運び上げることが
できました。 大理石の運搬作業が進む中、アクロポリスの頂上では、最初の
パルテノン神殿の建造が始まります。
神殿の円柱を組み立てるには、石材を1つ1つ積み重ねて行く必要がありまし
た。 遺跡には、特徴的な突起の付いた円筒形のタンブールが残っています。
古代ギリシャで用いられた建造技術を知るための、貴重な手がかりです。
巨大な石を積み上げるため当時、最新式の巻き上げ装置が導入されました。
木製のクレーンが、重さ10トンの石材を、およそ8メートルの高さまで持ち上げ
ます。 突起部分にロープを掛ける事で、大理石が外れずに引き上げられ、
正確に積み重ねる事ができました。
突起は円柱に彫刻を施す際に削り取られました。 ところが円柱の組み立てが
始まった直後、神殿の建設は中止されてしまいます。 かつてギリシャに敗れ
復讐に燃えるペルシャ帝国が、アテネへの攻撃を開始したのです。
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