2022年01月16日 (日) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「おやじギャグをどうぞ!」
屈折ピラミッドと呼ばれる、奇妙な形のピラミッド。 謎に満ちた古代エジプトの
巨大建造物の1つです。
当時、エジプトでは、史上最大の建設プロジェクトだったでしょう。
なぜ、斜面の傾斜が変わっているのか? 残された手がかりから謎を解いて
行くしかありません。
考古学者たちは砂を掘り、崩れかけたトンネルをたどり、その秘密に迫ろうと
しています。 上から石が落ちて来るのではないかと、怖かったですよ。
屈折ピラミッドの奇妙な傾斜は意図的なのか、あるいは失敗の結果なのか?
内部に大きなズレが生じている事が、見てとれます。
この謎を解くためにピラミッド内部の構造を徹底調査。 秘められた埋葬室や
ピラミッドにまつわる巨大神殿を探ります。 後世のピラミッド時代を切り開いた
といわれる、屈折ピラミッド。 その誕生の謎に迫ります。
彼は階段ピラミッドよりも大きいダメージがあるのではないかと考えています。
屈折ピラミッドのひび割れた外壁の中を、のぞいてみると、埋葬室の天井が
崩れている以外にも、深刻な問題が見えて来ました。
北側の通廊の内部には割れ目があり上からの重みによってピラミッドの一部
にズレが生じた事を示しています。 そして西側の通廊でも、同様の問題が。
この結果、建築家たちは、西側の入り口と通廊を閉じざるをえませんでした。
このダメージは、どれほど深刻だったのでしょうか?
土木地質学者は、まず、屈折ピラミッドの表面を調査する事にしました。
外側を覆う石に亀裂が走っていますが、異常とまではいえません。 地盤が
沈下して、その影響で建造物に影響が出る事もあります。
しかし、より深刻なダメージが見つかりました。
入り口の扉です。 外側の石材の継ぎ目が、入り口の辺りで落ち込んでいる
ように見えます。 向こうは水平に続いています。 ここの入り口で一旦、沈み
入り口を過ぎると、再び、もとの高さに戻ります。
この現象が表面だけのものなのか? 内部にまで及んでいるのか?
見てみましょう。 彼は、北側の入り口から、狭い通廊を下りて行きます。
すると、いくつかの石が、下にズレているのを発見。
入り口から10メートルほどの場所です。 ブロックが、かなり大きく動いた形跡
があります。 20センチから25センチほど、下にズレています。 割れ目は、
通廊を横切るように走っています。
入り口の外壁部分で見られたズレは、表面的なものではないという事です。
ズレは通廊に沿って、およそ10メートルもの長さにわたって生じています。
これは建設中に生じた、大規模な崩落の証拠といえます。
彼はピラミッドの一部が、崩れたのだと考えています。 厚さ10メートル、重さ
何千トンもの塊が割れて、崩落したのです。 原因は、ピラミッドが2段階に
分けて建設された事にありました。
屈折ピラミッドは、最初は階段状だったものの、後に、より整った形を目指し、
階段を覆う2つ目の層が加えられました。 しかし、平たんな外壁と階段とを
つなぐものがないため亀裂が生じ、一部がズリ落ちたのです。
それでは、この崩落がピラミッドが屈折する事になった原因なのでしょうか?
ズレは局所的な現象だと思います。 ズレが生じたのは、この通廊の部分だけ
だからです。 全体的に見ると、壊滅的な崩壊は起きていません。
建設中に、この問題が起きた時、当時の建築家たちは、どう対処したのでしょ
うか? 屈折ピラミッドから50キロ南に位置する、メイドゥーム。 ここには、
スネフェルが最初に建てた、崩れピラミッドがあります。
一部が崩落した崩れピラミッドは、建設中に異変の兆候を見逃すと、どうなる
のかヒントを与えてくれます。 このピラミッドは、屈折ピラミッドの少し前に同じ
ような技術を用いて、つくられ始めたと考古学者たちは考えています。
2つのピラミッドの建設作業員たちが、描いた落書きを集めて調べたところ、
とてもよく似ていたのです。 あまりに似ているので、2つは同時につくられたと
いう人もいます。
彼は、ここで起きた事が、屈折ピラミッドの建造に生かされたのではないかと
考えています。 現在の崩れピラミッドは、階段状の中心部だけが残った状態
です。 周りに積み上がったガレキの山は、崩れ落ちた外壁です。
スネフェルは、ここでもピラミッドの表面を、平たんに仕上げるつもりでした。
しかし、急な傾斜と頂上部分の重さで、外壁が崩れ落ちてしまったのです。
階段状の構造を積み上げたあと仕上げの時に崩れました。まさに建設の最終
段階です。外壁の崩壊に屈折ピラミッドの建築家たちも衝撃を受けたでしょう。
屈折ピラミッドも、外側が平たんになるよう建設が進められていました。 しかし
この失敗で建設方法を見直した可能性があります。 屈折ピラミッドのデザイン
は、メイドゥームでの大惨事を受けて変更されたかも知れないという事です。
ひび割れた状態で建設が進められていた屈折ピラミッド。しかしメイドゥームの
ピラミッドが崩壊し安全策としてピラミッドの頂点を低く変更した結果、途中から
傾斜の角度が変わるピラミッドが誕生したのです。
頂点部分の傾斜を緩くすれば構造物全体は、より安定し、崩壊する可能性を
減少させられます。 建設開始から10年以上、途中から緩い傾斜で石を積む
事で、無事ピラミッドを完成させる事ができました。
しかし、なぜ下半分も、やり直さなかったのでしょうか? 彼が屈折ピラミッドの
中心部に向かいます。 埋葬室に、その答えがあると考えるからです。
屈折ピラミッドには、入り口が2つあります。 1つは低層部につくられた、下の
埋葬室に通じています。 下の埋葬室は、トンネルでより重要な上の埋葬室に
つながっています。
高さ16メートル以上、天井に行くにつれ細くなる巨大な空間を、階段状の石が
支えています。 しかし、この埋葬室は、空のまま閉じられました。 一体なぜ
埋葬室は、打ち捨てられたのでしょうか?
そこに謎を解く鍵は、あるのでしょうか? 彼は、まず下の埋葬室を調べます。
これがつくられた紀元前2500年頃、これほど大きな空間を覆う天井をつくる
事は、技術的に不可能でした。 そこで、石の段を階段のように連ねて行った
のです。 そうやってつくったのが、この天井でした。
持ち送りと呼ばれる建築構造です。 最初につくられた階段ピラミッドでは、
埋葬室の天井は木製で、ピラミッドの石の重さに耐えるには、あまりにも脆弱
でした。 持ち送りの天井なら、上からの重さを分散して支える事で埋葬室が
潰される事を防げます。 下の埋葬室の天井は、完璧な状態です。
段のへりが、きちんと削られています。 極めて精密につくられた持ち送り構造
の天井です。 彼が狭いトンネルを通り抜けピラミッドの中で最も重要な部屋、
上の埋葬室に向かうと、その天井は美しく整えられた下の埋葬室とは異なり、
ギザギザで粗削りです。
持ち送りの部分が、かなり削り取られており、表面がデコボコしています。
なぜでしょうか? 彼は埋葬室の空間を広げようとして持ち送りの石が削られ
たのだと考えます。 しかし計画はうまく行かず、天井は壊れてしまいました。
持ち送りの部分を削って行ったのですが、いったん削ってしまったら、もとに
戻す事はできません。 髪を短く切り過ぎてしまった時と同じです。
ここは、スネフェルの埋葬室となるはずでした。 しかし、埋葬室の天井が
失われてしまった以上、もはやファラオの墓としては、ふさわしくありません。
スネフェルは、ここに埋葬されたと思われて来ました。 しかし、石棺はありま
せんでした。 墓だった形跡は、どこにもありません。
10年以上、費やした事業は放棄されました。 しかしスネフェルには、新たな
目標がありました。 また別のピラミッドの建設を始めたのです。
屈折ピラミッドの2キロ北には、スネフェルがつくった3つ目の、そして最後の
ピラミッドがあります。 赤ピラミッドです。 四角すいの世界初の真正ピラミッド
です。 埋葬室の天井も完璧です。
屈折ピラミッドでは、建造中に埋葬室を拡張しようとしたところ、天井が壊れ、
修復不可能になりました。 赤ピラミッドでは、埋葬室の天井は初めから、より
急勾配で、より高くつくられました。
過去の失敗から学びスネフェルは、ついに中も外も完璧なピラミッドをつくり上
げたのです。 屈折ピラミッドの建設で学んだ事の全てが赤ピラミッドの建設で
生かされました。スネフェルは、赤ピラミッドに埋葬されたと考えられています。
しかし謎が残ります。失敗作であるにもかかわらずスネフェルは屈折ピラミッドを
最上質の石灰岩で覆わせました。なぜ、更なる資金と労力を屈折ピラミッドにつ
ぎ込んだのか。その答えは当時の死生観に関係しているのかも知れません。
古代エジプトでは、死後の世界は、極めて重要でした。 人々は墓を持ち、
いつまでも思い出される事を望みました。 もちろん、ピラミッドのような大きな
墓をつくれたのは、ファラオだけです。
スネフェルは、完璧な墓をつくる事を目指しました。 その結果が、赤ピラミッド
です。 しかしスネフェルには、更に大きな計画があったのかも知れません。
屈折ピラミッドから延びる参道は、ナイル川のほとりの緑地の側まで続き、
参道の途中には、謎めいた神殿の遺構があります。 考古学者の彼女は、
これこそが、スネフェルが屈折ピラミッドを完成させた理由だと考えます。
この河岸(かがん)神殿と呼ばれる建築物は、王を崇拝の対象として、南北に
向いて建てられました。 それは、亡きファラオを祀る場所。 入り口の横には
4つの部屋があり、その先には中庭がありました。
庭の奥には柱が並び、最も奥の6つのくぼみにはファラオを表す大きな彫像が
置かれました。 これだけ見事な神殿を建てるには、膨大な労力が費やされた
はずです。 河岸神殿の役割については、ほとんど分かっていません。
およそ70年前、この神殿は崩れた状態で、砂の中から見つかりました。
石材は時とともに風化し、残ったものも盗賊たちによって破壊されていました。
しかし発掘調査から、思いがけない事が明らかになりました。
屈折ピラミッドと呼ばれる、奇妙な形のピラミッド。 謎に満ちた古代エジプトの
巨大建造物の1つです。
当時、エジプトでは、史上最大の建設プロジェクトだったでしょう。
なぜ、斜面の傾斜が変わっているのか? 残された手がかりから謎を解いて
行くしかありません。
考古学者たちは砂を掘り、崩れかけたトンネルをたどり、その秘密に迫ろうと
しています。 上から石が落ちて来るのではないかと、怖かったですよ。
屈折ピラミッドの奇妙な傾斜は意図的なのか、あるいは失敗の結果なのか?
内部に大きなズレが生じている事が、見てとれます。
この謎を解くためにピラミッド内部の構造を徹底調査。 秘められた埋葬室や
ピラミッドにまつわる巨大神殿を探ります。 後世のピラミッド時代を切り開いた
といわれる、屈折ピラミッド。 その誕生の謎に迫ります。
彼は階段ピラミッドよりも大きいダメージがあるのではないかと考えています。
屈折ピラミッドのひび割れた外壁の中を、のぞいてみると、埋葬室の天井が
崩れている以外にも、深刻な問題が見えて来ました。
北側の通廊の内部には割れ目があり上からの重みによってピラミッドの一部
にズレが生じた事を示しています。 そして西側の通廊でも、同様の問題が。
この結果、建築家たちは、西側の入り口と通廊を閉じざるをえませんでした。
このダメージは、どれほど深刻だったのでしょうか?
土木地質学者は、まず、屈折ピラミッドの表面を調査する事にしました。
外側を覆う石に亀裂が走っていますが、異常とまではいえません。 地盤が
沈下して、その影響で建造物に影響が出る事もあります。
しかし、より深刻なダメージが見つかりました。
入り口の扉です。 外側の石材の継ぎ目が、入り口の辺りで落ち込んでいる
ように見えます。 向こうは水平に続いています。 ここの入り口で一旦、沈み
入り口を過ぎると、再び、もとの高さに戻ります。
この現象が表面だけのものなのか? 内部にまで及んでいるのか?
見てみましょう。 彼は、北側の入り口から、狭い通廊を下りて行きます。
すると、いくつかの石が、下にズレているのを発見。
入り口から10メートルほどの場所です。 ブロックが、かなり大きく動いた形跡
があります。 20センチから25センチほど、下にズレています。 割れ目は、
通廊を横切るように走っています。
入り口の外壁部分で見られたズレは、表面的なものではないという事です。
ズレは通廊に沿って、およそ10メートルもの長さにわたって生じています。
これは建設中に生じた、大規模な崩落の証拠といえます。
彼はピラミッドの一部が、崩れたのだと考えています。 厚さ10メートル、重さ
何千トンもの塊が割れて、崩落したのです。 原因は、ピラミッドが2段階に
分けて建設された事にありました。
屈折ピラミッドは、最初は階段状だったものの、後に、より整った形を目指し、
階段を覆う2つ目の層が加えられました。 しかし、平たんな外壁と階段とを
つなぐものがないため亀裂が生じ、一部がズリ落ちたのです。
それでは、この崩落がピラミッドが屈折する事になった原因なのでしょうか?
ズレは局所的な現象だと思います。 ズレが生じたのは、この通廊の部分だけ
だからです。 全体的に見ると、壊滅的な崩壊は起きていません。
建設中に、この問題が起きた時、当時の建築家たちは、どう対処したのでしょ
うか? 屈折ピラミッドから50キロ南に位置する、メイドゥーム。 ここには、
スネフェルが最初に建てた、崩れピラミッドがあります。
一部が崩落した崩れピラミッドは、建設中に異変の兆候を見逃すと、どうなる
のかヒントを与えてくれます。 このピラミッドは、屈折ピラミッドの少し前に同じ
ような技術を用いて、つくられ始めたと考古学者たちは考えています。
2つのピラミッドの建設作業員たちが、描いた落書きを集めて調べたところ、
とてもよく似ていたのです。 あまりに似ているので、2つは同時につくられたと
いう人もいます。
彼は、ここで起きた事が、屈折ピラミッドの建造に生かされたのではないかと
考えています。 現在の崩れピラミッドは、階段状の中心部だけが残った状態
です。 周りに積み上がったガレキの山は、崩れ落ちた外壁です。
スネフェルは、ここでもピラミッドの表面を、平たんに仕上げるつもりでした。
しかし、急な傾斜と頂上部分の重さで、外壁が崩れ落ちてしまったのです。
階段状の構造を積み上げたあと仕上げの時に崩れました。まさに建設の最終
段階です。外壁の崩壊に屈折ピラミッドの建築家たちも衝撃を受けたでしょう。
屈折ピラミッドも、外側が平たんになるよう建設が進められていました。 しかし
この失敗で建設方法を見直した可能性があります。 屈折ピラミッドのデザイン
は、メイドゥームでの大惨事を受けて変更されたかも知れないという事です。
ひび割れた状態で建設が進められていた屈折ピラミッド。しかしメイドゥームの
ピラミッドが崩壊し安全策としてピラミッドの頂点を低く変更した結果、途中から
傾斜の角度が変わるピラミッドが誕生したのです。
頂点部分の傾斜を緩くすれば構造物全体は、より安定し、崩壊する可能性を
減少させられます。 建設開始から10年以上、途中から緩い傾斜で石を積む
事で、無事ピラミッドを完成させる事ができました。
しかし、なぜ下半分も、やり直さなかったのでしょうか? 彼が屈折ピラミッドの
中心部に向かいます。 埋葬室に、その答えがあると考えるからです。
屈折ピラミッドには、入り口が2つあります。 1つは低層部につくられた、下の
埋葬室に通じています。 下の埋葬室は、トンネルでより重要な上の埋葬室に
つながっています。
高さ16メートル以上、天井に行くにつれ細くなる巨大な空間を、階段状の石が
支えています。 しかし、この埋葬室は、空のまま閉じられました。 一体なぜ
埋葬室は、打ち捨てられたのでしょうか?
そこに謎を解く鍵は、あるのでしょうか? 彼は、まず下の埋葬室を調べます。
これがつくられた紀元前2500年頃、これほど大きな空間を覆う天井をつくる
事は、技術的に不可能でした。 そこで、石の段を階段のように連ねて行った
のです。 そうやってつくったのが、この天井でした。
持ち送りと呼ばれる建築構造です。 最初につくられた階段ピラミッドでは、
埋葬室の天井は木製で、ピラミッドの石の重さに耐えるには、あまりにも脆弱
でした。 持ち送りの天井なら、上からの重さを分散して支える事で埋葬室が
潰される事を防げます。 下の埋葬室の天井は、完璧な状態です。
段のへりが、きちんと削られています。 極めて精密につくられた持ち送り構造
の天井です。 彼が狭いトンネルを通り抜けピラミッドの中で最も重要な部屋、
上の埋葬室に向かうと、その天井は美しく整えられた下の埋葬室とは異なり、
ギザギザで粗削りです。
持ち送りの部分が、かなり削り取られており、表面がデコボコしています。
なぜでしょうか? 彼は埋葬室の空間を広げようとして持ち送りの石が削られ
たのだと考えます。 しかし計画はうまく行かず、天井は壊れてしまいました。
持ち送りの部分を削って行ったのですが、いったん削ってしまったら、もとに
戻す事はできません。 髪を短く切り過ぎてしまった時と同じです。
ここは、スネフェルの埋葬室となるはずでした。 しかし、埋葬室の天井が
失われてしまった以上、もはやファラオの墓としては、ふさわしくありません。
スネフェルは、ここに埋葬されたと思われて来ました。 しかし、石棺はありま
せんでした。 墓だった形跡は、どこにもありません。
10年以上、費やした事業は放棄されました。 しかしスネフェルには、新たな
目標がありました。 また別のピラミッドの建設を始めたのです。
屈折ピラミッドの2キロ北には、スネフェルがつくった3つ目の、そして最後の
ピラミッドがあります。 赤ピラミッドです。 四角すいの世界初の真正ピラミッド
です。 埋葬室の天井も完璧です。
屈折ピラミッドでは、建造中に埋葬室を拡張しようとしたところ、天井が壊れ、
修復不可能になりました。 赤ピラミッドでは、埋葬室の天井は初めから、より
急勾配で、より高くつくられました。
過去の失敗から学びスネフェルは、ついに中も外も完璧なピラミッドをつくり上
げたのです。 屈折ピラミッドの建設で学んだ事の全てが赤ピラミッドの建設で
生かされました。スネフェルは、赤ピラミッドに埋葬されたと考えられています。
しかし謎が残ります。失敗作であるにもかかわらずスネフェルは屈折ピラミッドを
最上質の石灰岩で覆わせました。なぜ、更なる資金と労力を屈折ピラミッドにつ
ぎ込んだのか。その答えは当時の死生観に関係しているのかも知れません。
古代エジプトでは、死後の世界は、極めて重要でした。 人々は墓を持ち、
いつまでも思い出される事を望みました。 もちろん、ピラミッドのような大きな
墓をつくれたのは、ファラオだけです。
スネフェルは、完璧な墓をつくる事を目指しました。 その結果が、赤ピラミッド
です。 しかしスネフェルには、更に大きな計画があったのかも知れません。
屈折ピラミッドから延びる参道は、ナイル川のほとりの緑地の側まで続き、
参道の途中には、謎めいた神殿の遺構があります。 考古学者の彼女は、
これこそが、スネフェルが屈折ピラミッドを完成させた理由だと考えます。
この河岸(かがん)神殿と呼ばれる建築物は、王を崇拝の対象として、南北に
向いて建てられました。 それは、亡きファラオを祀る場所。 入り口の横には
4つの部屋があり、その先には中庭がありました。
庭の奥には柱が並び、最も奥の6つのくぼみにはファラオを表す大きな彫像が
置かれました。 これだけ見事な神殿を建てるには、膨大な労力が費やされた
はずです。 河岸神殿の役割については、ほとんど分かっていません。
およそ70年前、この神殿は崩れた状態で、砂の中から見つかりました。
石材は時とともに風化し、残ったものも盗賊たちによって破壊されていました。
しかし発掘調査から、思いがけない事が明らかになりました。
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