2022年01月07日 (金) | 編集 |
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旅行の概念を変えた豪華列車オリエント急行。特別な乗客を乗せた走る宮殿
です。 その客室は重要な外交の場となり、歴史的な調印式も行われました。
数々の事件も起きました。
オリエント急行の最大の功績は、西洋と東洋を鉄道でつないだ事です。 当時
の贅沢で優雅な旅は今も私たちを魅了します。オリエント急行は、ある若者が
パリからコンスタンチノープルまでの汽車の旅を夢見た事から生まれました。
ベルギー出身のジョルジュ・ナゲルマケールスは、政治家や銀行・家族とも
衝突しながら、何十年もの歳月をかけて夢を実現させたのです。
オリエント急行は、今もヨーロッパの主要都市を、つないでいます。 ナゲルマ
ケールスは、これほどの大事業を、どうやって成功させたのでしょうか?
その秘密はオリエント急行ができた当時の画期的な車両に隠されています。
各国のナショナリズムが渦巻く、19世紀のヨーロッパ。 鉄道で国境を越える
のが困難な時代に、ナゲルマケールスは、優れた外交手腕を発揮しました。
オリエント急行を走らせた男。 その波乱の人生を、たどります。
オリエント急行の客車は、1両あたり55トンもの重量がありました。 これを、
けん引するには、強力な機関車が必要です。
ウィーン郊外にある鉄道博物館です。14万平方メートルを超える広大な敷地を誇り
400両以上の車両を保存しています。310形23号機蒸気機関車は、オリエント
急行のウィーン、ブダペスト間を走りました。 重量138トン、およそ1600馬力。
310形23号機蒸気機関車は、オーストリアの国有鉄道会社が、技術の粋を集
めて設計した傑作です。1番の特徴は、直径2メートルを超える大きな動輪です。
とても目を引くためパレードなど、さまざまな行事でも披露されました。 速度が
非常に速かったので、オリエント急行のような豪華列車のけん引にも使われ
ていました。
オリエント急行は、当時としては、信じられないほどのスピードで走行し、最高
時速は、100キロに達しました。 他の高速鉄道の2倍の速さです。
‘ナゲルマケールスの列車は、実に滑らかに走る。時速80キロでも、ヒゲが
剃れるほどだ。ケガの心配は…ほとんどない’
建築家の彼は、同僚たちと、歴史的に価値のある鉄道車両を探して、駅から
駅へと訪ね歩いていました。 そして、オリエント急行のチーク材の車両を探し
当てました。 いつか、この車両を修復したいと願っています。
1番、興味深い発見は10分の1の縮尺で描かれた車両の平面図です。これが
あれば、客車の内部が、どのようなレイアウトだったか正確に知る事ができ、
客室など、内部の寸法を割り出す事が可能です。
当時の車両の写真も参考にして復元する事ができます。 私たちは、こうした
車両を博物館まで運んでいます。 将来、元の姿に修復する事ができるかも
知れません。
さまざまな有名人が乗車したオリエント急行には、逸話も多く残されています。
ある時、ブカレストの近くで、オリエント急行の歴史に残る事件が起きます。
何の前触れもなく列車が停止。 最初、乗客たちは列車強盗だと思いました。
この地方では、珍しい事ではありません。
しかしこの時、列車を運転していたのは予想外の人物でした。そこにいたのは
鉄道マニアのブルガリア国王だったのです。
‘陛下、この辺りの走行は、時速40キロが限界かと…急なカーブで危険です’
国王は、自分の運転技術を信じ切っているようでした。
‘陛下、減速して下さい!お願いですブレーキをかけて下さい!どうか減速を
食堂車にフランス産のシャンパンを用意しております’
ヨーロッパの国々を鉄道でつなぐという、ナゲルマケールスの壮大な計画。
彼が掲げた目標は、余りにも高すぎて現実的ではなかったかも知れません。
それでも彼は、努力を続けました。 実現不可能な目標だという事は、恐らく
本人も分かっていたでしょう。 人間は完璧ではありませんから。
ナゲルマケールスは従業員全員に、行き届いたサービスを要請した就業規則
を作りました。 マナーやルールを徹底したのです。
また、当時の最も優れたデザイナーや、食器メーカーに仕事を委託しました。
インテリアは貴重な工芸品で、あふれていました。 ほとんど全て彼の指示に
従って作られた特注品だったのです。
開通記念の旅では、細部まで、自ら、目を配りました。 ジャーナリストの
エドモン・アブーも、当初の評価を覆していました。
‘この列車のトイレの欠点は、快適すぎて離れがたい事だ。つい長居をして
他の乗客を焦らせる事も…。使用後は毎回、乗務員がキレイに掃除する’
ナゲルマケールスは、あらゆる手を尽くしましたが、開通記念の列車を終点の
コンスタンチノープルまで走らせる事は、叶いませんでした。 最後は、質素な
ローカル線とフェリーを乗り継ぎます。
著名人や貴族たちは、船で旅を締めくくると知らされ、失望します。
ナゲルマケールスは、最上級のワインを、乗客に差し入れしました。 81時間
40分の長旅を、最後の僅かな道のりを楽しんでもらうための、心遣いでした。
フェリーは、オリエント急行のゲストをボスポラス海峡の先、金角湾へと送り
届けます。 永遠の都コンスタンチノープルが、ついに、その姿を現しました。
朝日に照らされる、アヤソフィア大聖堂です。
18世紀までオーストリアは、オスマン帝国と敵対していました。 しかし19世紀
になると交流が始まり、人々はコンスタンチノープルを訪れて、アヤソフィアや
街の暮らしを、その目で確かめられるようになりました。 オリエント急行は、
ヨーロッパに東洋の文化を伝える役割を担ったのかも知れません。
オリエント急行が、終着駅コンスタンチノープルのシルケジまで直通になった
のは、運行開始から6年後の事です。
オスマン帝国の皇帝アブデュルハミト2世は、ドイツ人建築家アウグスト・ヤス
ムントに、豪華な駅舎を建設させました。 駅長室は、今も、オリエント急行
初期の面影を残しています。
ナゲルマケールスは、観光ツアーを最初に発案した経営者かも知れません。
列車を降りた乗客たちを迎えるのは、イスラム教の神秘主義者たちのダンス
です。 オリエント急行の乗客たちは、この光景に息をのみました。
エドモン・アブーは、新たな発見を書き記し、旅行記を締めくくっています。
‘私は間違っていた。もはや旅は試練ではない。これは全長17.5メートルの
宮殿で過ごす旅だ。どの車両も暖かく快適で、照明も換気も申し分ない。座席
はパリの一流ホテル並みだ’
国際寝台車会社は一大企業に発展し、路線網は、北アフリカやウラジオストク
にまで広がりました。1900年当時の従業員は、6000人以上。およそ1000台の
寝台車両で、年間56万人以上の旅行者を運びました。
しかし、その後は、世界情勢の変化に翻弄されます。 1919年に運行を開始
したシンプロン・オリエント急行は、パリからベオグラードまで、ドイツを経由
せずに走りました。
ベルサイユ条約により、第1次世界大戦の敗戦国ドイツは、国際路線から外さ
れたのです。 1918年11月には、国際寝台車会社の食堂車2419Dで、ドイツ
帝国と連合国の休戦協定が調印されました。ドイツにとっては降伏を意味する
屈辱的な出来事です。
のちに、ドイツでは、国家社会主義を掲げたナチスが台頭します。 彼らは、
1940年にフランスに侵攻すると、かつての雪辱を果たそうと、休戦交渉を、
1918年と同じ場所、同じ車両で行いました。
かつては国境を越えて、相互理解を深めるために活躍した車両が、屈辱と
憎しみの象徴に変わってしまったというのは、実に皮肉な事です。
しかし、オリエント急行の名が、傷つく事はありませんでした。 1人のパイオ
ニアが伝説の車両を造り、鉄道の歴史を変えた事に、変わりはないのです。
彼はヨーロッパでは誰も成し遂げていなかった事を、やってのけました。 戦争
以外の目的で、国境を越えたのです。
タイムズ紙の記者アンリ・ブローウィッツは、旅での発見について、こう書いて
います。
‘私が実際に目にしたものは、想像とは比較にならなかった。現実に見たもの
は、はるかに美しかったのだ。人間の想像力では、あの無限な美は生み出せ
ない。この旅行記の読者は、ボスポラス海峡を思い描くだろう。しかし、想像の
中の光景は、本物とは全く別物である’
ジョルジュ・ナゲルマケールスが、国境のないヨーロッパのビジョンを描いたか
どうかは分かりません。 しかし彼は、人々に快適な旅を楽しんでもらうことに
全力を尽くしました。
そして彼のオリエント急行は、西洋と東洋の境界線を越え、文化をつなぐ
懸け橋となったのです。
旅行の概念を変えた豪華列車オリエント急行。特別な乗客を乗せた走る宮殿
です。 その客室は重要な外交の場となり、歴史的な調印式も行われました。
数々の事件も起きました。
オリエント急行の最大の功績は、西洋と東洋を鉄道でつないだ事です。 当時
の贅沢で優雅な旅は今も私たちを魅了します。オリエント急行は、ある若者が
パリからコンスタンチノープルまでの汽車の旅を夢見た事から生まれました。
ベルギー出身のジョルジュ・ナゲルマケールスは、政治家や銀行・家族とも
衝突しながら、何十年もの歳月をかけて夢を実現させたのです。
オリエント急行は、今もヨーロッパの主要都市を、つないでいます。 ナゲルマ
ケールスは、これほどの大事業を、どうやって成功させたのでしょうか?
その秘密はオリエント急行ができた当時の画期的な車両に隠されています。
各国のナショナリズムが渦巻く、19世紀のヨーロッパ。 鉄道で国境を越える
のが困難な時代に、ナゲルマケールスは、優れた外交手腕を発揮しました。
オリエント急行を走らせた男。 その波乱の人生を、たどります。
オリエント急行の客車は、1両あたり55トンもの重量がありました。 これを、
けん引するには、強力な機関車が必要です。
ウィーン郊外にある鉄道博物館です。14万平方メートルを超える広大な敷地を誇り
400両以上の車両を保存しています。310形23号機蒸気機関車は、オリエント
急行のウィーン、ブダペスト間を走りました。 重量138トン、およそ1600馬力。
310形23号機蒸気機関車は、オーストリアの国有鉄道会社が、技術の粋を集
めて設計した傑作です。1番の特徴は、直径2メートルを超える大きな動輪です。
とても目を引くためパレードなど、さまざまな行事でも披露されました。 速度が
非常に速かったので、オリエント急行のような豪華列車のけん引にも使われ
ていました。
オリエント急行は、当時としては、信じられないほどのスピードで走行し、最高
時速は、100キロに達しました。 他の高速鉄道の2倍の速さです。
‘ナゲルマケールスの列車は、実に滑らかに走る。時速80キロでも、ヒゲが
剃れるほどだ。ケガの心配は…ほとんどない’
建築家の彼は、同僚たちと、歴史的に価値のある鉄道車両を探して、駅から
駅へと訪ね歩いていました。 そして、オリエント急行のチーク材の車両を探し
当てました。 いつか、この車両を修復したいと願っています。
1番、興味深い発見は10分の1の縮尺で描かれた車両の平面図です。これが
あれば、客車の内部が、どのようなレイアウトだったか正確に知る事ができ、
客室など、内部の寸法を割り出す事が可能です。
当時の車両の写真も参考にして復元する事ができます。 私たちは、こうした
車両を博物館まで運んでいます。 将来、元の姿に修復する事ができるかも
知れません。
さまざまな有名人が乗車したオリエント急行には、逸話も多く残されています。
ある時、ブカレストの近くで、オリエント急行の歴史に残る事件が起きます。
何の前触れもなく列車が停止。 最初、乗客たちは列車強盗だと思いました。
この地方では、珍しい事ではありません。
しかしこの時、列車を運転していたのは予想外の人物でした。そこにいたのは
鉄道マニアのブルガリア国王だったのです。
‘陛下、この辺りの走行は、時速40キロが限界かと…急なカーブで危険です’
国王は、自分の運転技術を信じ切っているようでした。
‘陛下、減速して下さい!お願いですブレーキをかけて下さい!どうか減速を
食堂車にフランス産のシャンパンを用意しております’
ヨーロッパの国々を鉄道でつなぐという、ナゲルマケールスの壮大な計画。
彼が掲げた目標は、余りにも高すぎて現実的ではなかったかも知れません。
それでも彼は、努力を続けました。 実現不可能な目標だという事は、恐らく
本人も分かっていたでしょう。 人間は完璧ではありませんから。
ナゲルマケールスは従業員全員に、行き届いたサービスを要請した就業規則
を作りました。 マナーやルールを徹底したのです。
また、当時の最も優れたデザイナーや、食器メーカーに仕事を委託しました。
インテリアは貴重な工芸品で、あふれていました。 ほとんど全て彼の指示に
従って作られた特注品だったのです。
開通記念の旅では、細部まで、自ら、目を配りました。 ジャーナリストの
エドモン・アブーも、当初の評価を覆していました。
‘この列車のトイレの欠点は、快適すぎて離れがたい事だ。つい長居をして
他の乗客を焦らせる事も…。使用後は毎回、乗務員がキレイに掃除する’
ナゲルマケールスは、あらゆる手を尽くしましたが、開通記念の列車を終点の
コンスタンチノープルまで走らせる事は、叶いませんでした。 最後は、質素な
ローカル線とフェリーを乗り継ぎます。
著名人や貴族たちは、船で旅を締めくくると知らされ、失望します。
ナゲルマケールスは、最上級のワインを、乗客に差し入れしました。 81時間
40分の長旅を、最後の僅かな道のりを楽しんでもらうための、心遣いでした。
フェリーは、オリエント急行のゲストをボスポラス海峡の先、金角湾へと送り
届けます。 永遠の都コンスタンチノープルが、ついに、その姿を現しました。
朝日に照らされる、アヤソフィア大聖堂です。
18世紀までオーストリアは、オスマン帝国と敵対していました。 しかし19世紀
になると交流が始まり、人々はコンスタンチノープルを訪れて、アヤソフィアや
街の暮らしを、その目で確かめられるようになりました。 オリエント急行は、
ヨーロッパに東洋の文化を伝える役割を担ったのかも知れません。
オリエント急行が、終着駅コンスタンチノープルのシルケジまで直通になった
のは、運行開始から6年後の事です。
オスマン帝国の皇帝アブデュルハミト2世は、ドイツ人建築家アウグスト・ヤス
ムントに、豪華な駅舎を建設させました。 駅長室は、今も、オリエント急行
初期の面影を残しています。
ナゲルマケールスは、観光ツアーを最初に発案した経営者かも知れません。
列車を降りた乗客たちを迎えるのは、イスラム教の神秘主義者たちのダンス
です。 オリエント急行の乗客たちは、この光景に息をのみました。
エドモン・アブーは、新たな発見を書き記し、旅行記を締めくくっています。
‘私は間違っていた。もはや旅は試練ではない。これは全長17.5メートルの
宮殿で過ごす旅だ。どの車両も暖かく快適で、照明も換気も申し分ない。座席
はパリの一流ホテル並みだ’
国際寝台車会社は一大企業に発展し、路線網は、北アフリカやウラジオストク
にまで広がりました。1900年当時の従業員は、6000人以上。およそ1000台の
寝台車両で、年間56万人以上の旅行者を運びました。
しかし、その後は、世界情勢の変化に翻弄されます。 1919年に運行を開始
したシンプロン・オリエント急行は、パリからベオグラードまで、ドイツを経由
せずに走りました。
ベルサイユ条約により、第1次世界大戦の敗戦国ドイツは、国際路線から外さ
れたのです。 1918年11月には、国際寝台車会社の食堂車2419Dで、ドイツ
帝国と連合国の休戦協定が調印されました。ドイツにとっては降伏を意味する
屈辱的な出来事です。
のちに、ドイツでは、国家社会主義を掲げたナチスが台頭します。 彼らは、
1940年にフランスに侵攻すると、かつての雪辱を果たそうと、休戦交渉を、
1918年と同じ場所、同じ車両で行いました。
かつては国境を越えて、相互理解を深めるために活躍した車両が、屈辱と
憎しみの象徴に変わってしまったというのは、実に皮肉な事です。
しかし、オリエント急行の名が、傷つく事はありませんでした。 1人のパイオ
ニアが伝説の車両を造り、鉄道の歴史を変えた事に、変わりはないのです。
彼はヨーロッパでは誰も成し遂げていなかった事を、やってのけました。 戦争
以外の目的で、国境を越えたのです。
タイムズ紙の記者アンリ・ブローウィッツは、旅での発見について、こう書いて
います。
‘私が実際に目にしたものは、想像とは比較にならなかった。現実に見たもの
は、はるかに美しかったのだ。人間の想像力では、あの無限な美は生み出せ
ない。この旅行記の読者は、ボスポラス海峡を思い描くだろう。しかし、想像の
中の光景は、本物とは全く別物である’
ジョルジュ・ナゲルマケールスが、国境のないヨーロッパのビジョンを描いたか
どうかは分かりません。 しかし彼は、人々に快適な旅を楽しんでもらうことに
全力を尽くしました。
そして彼のオリエント急行は、西洋と東洋の境界線を越え、文化をつなぐ
懸け橋となったのです。
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