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一起業家が国境を越えて列車を走らせようと考えるのは驚くべき発想?
2022年01月05日 (水) | 編集 |
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旅行の概念を変えた豪華列車オリエント急行。特別な乗客を乗せた走る宮殿
です。 その客室は重要な外交の場となり、歴史的な調印式も行われました。
数々の事件も起きました。

オリエント急行の最大の功績は、西洋と東洋を鉄道でつないだ事です。 当時
の贅沢で優雅な旅は今も私たちを魅了します。オリエント急行は、ある若者が
パリからコンスタンチノープルまでの汽車の旅を夢見た事から生まれました。

ベルギー出身のジョルジュ・ナゲルマケールスは、政治家や銀行・家族とも
衝突しながら、何十年もの歳月をかけて夢を実現させたのです。

オリエント急行は、今もヨーロッパの主要都市を、つないでいます。 ナゲルマ
ケールスは、これほどの大事業を、どうやって成功させたのでしょうか?

その秘密はオリエント急行ができた当時の画期的な車両に隠されています。

各国のナショナリズムが渦巻く、19世紀のヨーロッパ。 鉄道で国境を越える
のが困難な時代に、ナゲルマケールスは、優れた外交手腕を発揮しました。

オリエント急行を走らせた男。 その波乱の人生を、たどります。

1883年10月4日。 ジョルジュ・ナゲルマケールスは、正念場に立たされてい
ました。 オリエント急行開通を記念する第1号列車が、出発時刻を迎えます。

招待客の中には、本当に列車が動くのか、半信半疑の人もいました。 3カ月
前の開通予定が、出発直前になって中止されたからです。 今回も、オリエント
急行の運行を危ぶむ声がありました。

ヨーロッパでは、1870年頃から帝国主義時代が始まったと言えます。 列強は
軍事力によって勢力の拡大を図るようになり、孤立主義に向かったのです。

彼は、ニュルンベルクのドイツ鉄道博物館で、鉄道の歴史を研究しています。

当時、ヨーロッパの鉄道網は、継ぎはぎでした。 国によって、鉄道の規格や
信号などの安全対策が、まちまちで、線路の幅が異なる事さえありました。
各国の対立が強まる中で、ベルギーの一起業家が国境を越えて、中東まで
列車を走らせようと考えるのは、実に驚くべき発想と言えるでしょう。

ナゲルマケールスが、私財をなげうって始めた鉄道事業を、招待客の1人で
ジャーナリストのエドモン・アブーは、夢物語だと考えていました。 この事業に
投資した銀行家も、不安を抱えながら乗り込みます。

オスマン帝国の大使も乗客でした。 しかし、1番重要な招待客が、まだ現れ
ません。 タイムズ紙のパリ支局長アンリ・ブローウィッツ。 オリエント急行の
成功は、彼の評価にかかっています。 危険をはらむ旅の始まりです。

オリエント急行は、敵対するドイツとフランス両国の線路を、走らなくてはなり
ません。 パリからコンスタンチノープル、現在のイスタンブールまで、鉄道で
乗客を運ぶのは、史上初の試みです。エドモン・アブーは、こう書いています。

‘最初の試験列車は、全くの期待外れだった。今回も、客車がムダに大きくて
ススだらけになるのを覚悟した。乗り心地も最悪だろう’

各国の鉄道会社が、運行契約を守ってくれるのか? ナゲルマケールスには
確信がありませんでした。

オリエント急行を走らせるには、各地の鉄道会社と個別に契約を結ぶ必要が
ありました。 パリが出発地点なので、まずはフランスの東部鉄道と、次に、
エルザス・ロートリンゲン鉄道と、更には、ヴュルテンベルク王国、バイエルン
王国、オーストリア・ハンガリー帝国、そしてルーマニア王国という具合です。
全てをやり遂げたのは、前代未聞の快挙です。

アブーは初日に、こう記しています。  ‘どの車両も狭くて混雑している。ガタ
ガタという音で一睡もできない。暖房はきかないし、食事も二流。トイレも汚い
若いナゲルマケールスに、何かできるというのか’

ニュルンベルクのドイツ鉄道博物館。 歴史学者の彼女は、ナゲルマケールス
について研究しています。 博物館に展示されている S2/6型蒸気機関車は、
オリエント急行の、けん引機でした。

当時、ヨーロッパでは、長距離の移動には、主に馬車を利用していました。
快適とは言い難く、道はデコボコで、ぬかるみだらけ。 それに、しょっちゅう
馬を替える必要がありました。

馬車の旅は過酷なうえ、パリからウィーンへ行くには、およそ2週間もかかった
のです。

ナゲルマケールスは、旅を単なる移動ではなく、快適にするには、どうすれば
よいのかを考えました。

ジョルジュ・ナゲルマケールスは、若い頃から、型破りな発想の持ち主でした。
彼は、1845年、ベルギーのリエージュで生まれました。 父親は、由緒ある
銀行を経営。 将来は、父親の後を継ぐはずでしたが、19歳の時、大学で
土木工学を学ぶと決め、家族の不興を買います。 問題は、それだけではあり
ませんでした。

オリエント急行の誕生は、禁断の恋が、そもそもの発端でした。 ジョルジュは
銀行で働いていた頃、父親に、年上のいとこと結婚したいと打ち明け、認めて
ほしいと迫りました。

カトリック教徒の家では、いとこ同士の結婚は許されません。 父親は、この
禁じられた恋を諦めさせるため、息子をアメリカ旅行に行かせます。

1869年、アメリカ東部と西部は鉄道でつながり、人々は大陸を僅か1週間で
横断できるようになりました。 ナゲルマケールスは西部開拓時代のアメリカで
プルマン式寝台車を初めて体験します。

そして、寝台車に感銘を受けたのですが、食事する場所も、トイレもない事に
うんざりしました。

プルマン式寝台車は、オリエント急行の寝台車を設計する時の参考になりまし
た。 寝台は、列車の進行方向と平行に並べられていて、大部屋で寝る感じ
でした。 寝心地が悪く、ヨーロッパと違ってプライバシーもありませんでした。

帰国後、ナゲルマケールスは、ヨーロッパにふさわしい寝台車の構想に着手
します。 リエージュに戻って、事業計画を書き上げたのは、23歳の時でした。

彼は、全く新しい寝台車を設計し、鉄道会社が運行する列車に連結させようと
考えました。 そしてヨーロッパの鉄道への寝台車の導入計画というタイトルで
発表します。 ナゲルマケールスは、父親から資金を援助してもらい、国際
寝台車会社を設立。 車両を造る資金もない会社が、30年後に、世界で最も
成功を収める鉄道会社になるとは、誰1人、想像だにしませんでした。

25歳になったナゲルマケールスは、ベルギーをはじめ、ドイツやフランスの
銀行と交渉を始めます。 彼は成功は間違いないと売り込みましたが、反応は
冷ややかでした。

私も銀行家でしたから、なぜ銀行が彼への投資に及び腰だったか、理解でき
ます。 彼の計画の実現には、莫大な投資が必要でした。 誰かが、それを
負担しなくてはなりません。 銀行にとって、リスクが高すぎたのです。

ナゲルマケールスは、父親の口利きでベルギー国王レオポルド2世の協力を
得る事に成功します。 国王の後ろ盾は、駆け出しの事業家にとって、鉄道
会社と契約を結ぶうえで大きな力になりました。

やがて、彼の設計による寝台車両が完成。 1872年10月22日。 ついに、
運行に、こぎ着けます。 最初は、ベルギーのオーステンデから、ドイツの
ケルンへ。 続いてオーステンデからベルリンまで。 パリとウィーンの間でも
運行を開始しました。 初めての国境を越える寝台列車。

この時代、列車強盗に襲われる危険が、絶えず付きまといました。 この頃は
切符よりも、銃の方が重要だったようです。

歴史学者の彼は、ナゲルマケールスの足跡をたどっています。 オーストリア
国立公文書館の延べ240キロメートルの棚は、膨大な量の図面や書類で
埋め尽くされています。

ナゲルマケールスが結んだ契約は、今も、国際輸送に関わる鉄道会社間の
交渉の基礎になっています。

ナゲルマケールスが交わした契約書は、素晴らしいものでした。 ヨーロッパの
路線に、自分の車両を導入させるために、各鉄道会社をまとめたのです。

オリエント急行の契約書で1番感心したのは、全てがきちんと決められていた
点です。 車両の重量制限、車両の外観、食堂車のメニューに至るまで、正確
に書かれていました。

列車の出発から終点まで、何もかもが、戦略的に計画されていたのです。

最初の寝台車を完成させると、ナゲルマケールスは、新たなアイデアを思い
付きました。 車内での食事のレベルを引き上げようと、考えたのです。

厨房を設け、食事する場所を、喫煙と非喫煙に分けました。 ヨーロッパ初の
本格的な食堂車です。 オリエント急行の初運行まで、ナゲルマケールスは、
更に改良を続けます。

車内のスペースには限界がありますので、厨房の造りは複雑になります。
どのタイミングで、どう動くべきか、全員が把握していないと、足を踏んでしまう
のです。 コンロの熱源は、石炭と薪でした。