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思わぬ形で世間の注目を集める事になった球団合併騒動の舞台裏
2021年12月01日 (水) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「実はなんてことなかった!ことはありますか?」
2004年9月17日。 その日、衝撃のニュースが日本を駆け巡った。

‘9月18日19日に行われる予定でした千葉ロッテ戦は…選手会によるストラ
イキのため、中止となりました’

“本当に心苦しく思いますが、おわび申し上げます。申し訳ありません…”

日本のプロ野球史上初めて、選手によるストライキが決行されたのだ。

日本が誇る国民的スポーツ・プロ野球。ここ数年、観客動員数は右肩上がり。
史上最多記録を更新し続けるなど、熱い盛り上がりを見せています。

しかし、今から16年前。 大きな危機を迎えていた事を、ご存知でしょうか?

2004年。 サッカーJ リーグが盛り上がる一方、プロ野球の人気は落ち込み、
テレビ中継の視聴率も下がるばかりでした。 そして、この年の秋。

日本中を巻き込む、大騒動が起こるのです。

それはプロ野球70年の歴史で初めての大事件だった。 一方的に球団の削減
を決めた経営陣に対する決死のストライキ。 だがそれは、ファンへの裏切り。

選手たちにとって苦渋決断だった。 しかし、この涙をキッカケに運命は大きく
変わって行く。 実は生き残りのために、球団削減を決めた経営陣も決して、
一枚岩ではなかった。 あの時、密室で何が話されていたのか?

“ふざけるな!と。表出ろ!みたいな、そんな場面もありましたね…”

そして、楽天の新規参入という突然の結末。 ライブドアとの争いは、どう決着
したのか? そこには、ある男に託された、極秘ミッションがあった。

“できるだけ、しっかりした人に参入してほしい…何とか解決方法がないか?
っていう風な相談があってですね”

ファンに衝撃を与え、多くの人生を動かした、プロ野球ストライキ。

今、当事者たちが明かす舞台裏に迫る。

選手とファンが起こした奇跡の逆転劇。 その中で大きな役割を果たしたのが
インターネットでした。 誰もが声を発信し連携する事ができる。 新たな情報
発信が、想定外のうねりを生んだのです。

しかし、逆転を生んだ要因は、それだけではありませんでした。 第2の視点は
経営陣の代表として、あの日、選手会会長の隣に座っていた人物です。

交渉の矢面に立つ一方、舞台裏では、個性の強いオーナーたちに翻弄され、
大混乱に陥ったといいます。

悪役に仕立てられた男が明かす、後悔のアナザーストーリー。

16年前、思わぬ形で世間の注目を集める事になった元千葉ロッテマリーンズ
球団代表。 彼の名を、一躍有名にしたシーンがある。

ストをめぐる交渉のさなか、差し出した手を、選手会会長に拒絶された。

“まぁ、笑うしかなかったですよね。引き続きヨロシクねというつもりで握手を
求めたんだけど、彼の方は当然、ある意味じゃ当たり前の事ですけど、イヤイヤ
まだ何も解決していませんねと…”

この事件によって彼は、プロ野球ファンから、憎むべき経営側の顔と見なされ
猛攻撃を受けた。

“脅迫状が来たり、色々な事がありましたよ。当時は、家内と娘と住んでいた。
それを調べている。だから、何があっても驚くな…みたいな”

インターネット上にも、心ない言葉があふれた。 日本中から憎まれた男が
明かす、騒動の舞台裏とは?時計の針を球界再編騒動の始まりへと戻そう。

2004年6月13日。 選手たちとファンを驚かせた近鉄とオリックスの球団合併。

それは、この年、千葉ロッテの球団代表に就任した彼にとっても、青天の霹靂
だったという。  “突然、出ました。オリックスと近鉄が一緒になる”

Q: その報道を見た時、どう思いましたか?

“全く何も思わなかった。そうなの?どうするんだろう?自分の事とは思わな
かった。僕には優先順位としてロッテの球団経営の立て直しと、ロッテを元気
のあるチームに変える。これが私の責務だと思っていましたから”

ところが翌日、オーナー代行から、驚くべき計画を聞かされた。

“オリックスは近鉄を救いに走った。もうひとつ救わないといけない。福岡ダイ
エーホークス。それ、球団合併は、我々ロッテが自らの意志ではなくて球界の
ために、白馬の騎士となって、それをやるんだと”

2度の日本一にも輝いた福岡ダイエーホークス。 しかし親会社のダイエーは
経営危機に瀕していた。

ロッテとダイエーも合併させて、1リーグ制を実現しようという、球界再編計画。
それは、一部のオーナーたちによって、ひそかに温められたプランだった。

同じ経営側でも、オーナーと球団代表では立場が違う。 経営に関わる重要
事項を決めるのは、あくまでオーナー。 球団代表は表の顔にすぎなかった。

彼らが水面下で話し合われている事の全てを知るはずもなかったのだ。 実は
彼は、もともと福岡ダイエーホークスにいた。

王監督の招へいにも成功しチームを強豪に育てた球団経営のスペシャリスト。
そんな彼に声を掛けたのが千葉ロッテ。

古巣との合併に面食らった彼を尻目に、計画は淡々と語られたという。

“新チームの監督は、どうされますか?バレンタインさんと王さん。それはこれ
からあなたが考えてくれたらいいですと。それは勘弁して下さいと、こっちは、
そんなね…で、私は、そこで、結局そのために、私はロッテに呼ばれたんです
ねと。だったら帰らせて下さいという風に申し上げた。そしたら、いやいや、そう
じゃないんだと。そうじゃないから、ちょっと冷静になって話しを聞いてくれと”

突如、彼の身にも降りかかった、球界再編。 だが、なぜ、オーナーたちは、
強引に計画を進めようとしたのか?

それは、球団経営のビジネスモデルが行き詰まっていたからだ。 庶民の
娯楽の花形として、日本に根付いたプロ野球。 さまざまなスター選手が時代を
彩り、人々の熱狂は、時に社会現象を巻き起こした。

親会社にとって、球団は大切な広告塔。 それゆえ、球団経営は利益度外視。
近鉄バファローズの球団代表を務めた男性は、経営の実情を、こう明かす。

“毎年、毎年、赤字。40億円前後。30から40億円という赤字を出していたのが
現実です。それを近鉄という親会社が、シッカリしてくれていたおかげで宣伝費
という形で補って来たんですけども…”

球団の赤字は親会社の広告宣伝費として補填する。 これこそが球界のビジ
ネスモデルだった。 それでも宣伝効果を考えれば、赤字は安いものと見なさ
れて来た。 だが、1990年代のバブル崩壊とともに日本経済は急速に悪化。

近鉄グループも、2003年、1兆円を超す負債を計上。 もはやプロ野球どころ
ではない。 球団は文字通り、お荷物と化してしまっていた。

当時の西武ライオンズのオーナーは、言う。 “好きで減らすんじゃなくて、パ・
リーグそのものが、運営が難しくなって来ていますから、それを、ご理解いた
だかないとね…経営が苦しくなって、全部赤字なんですよ、パ・リーグは”

当時のパ・リーグは深刻な不人気。 観客は入らず、球場には空席が目立って
いた。 一方でセ・リーグには、圧倒的人気を誇る、あの球団がいた。

“キャンプが終わって、巨人さんが東京に帰る途中の関西でのオープン戦
1試合していただく事が我々としては大切だったし、お客さんも入るし、マスコミ
にも取り上げてもらえるし、巨人というチームの大きさを感じていた時代ですね”

経営陣の代表は、言う。 “テレビの放映権料が、1試合巨人戦をやると1億円
入って来る。1億円以上、入って来る。でもパ・リーグには、それがない。この
苦しさっていうのを、パ・リーグの球団、みんな持っていた”

巨人戦の放映権収入で経営を改善できる1リーグ制は、パ・リーグたっての
願いだったのだ。 そんな思いに応えたのが、この男。 (ジャイアンツのオーナー)

当時のインタビューで、展望を、こう語っている。

“本当に結束できる1リーグ体制が、仮にできればね。セ・リーグの球団は少し
損しますよ。しかし将来は良くなって来る。パ・リーグは、かなり救済される”

こうして始まった、1リーグ構想。 経営側を代表して、彼は選手会との交渉に
あたった。 選手会会長からは、厳しい言葉が飛んだ。

“1リーグ制で、具体的に発展する予想値とか数字とか持ってないんですか?
と聞いたら、何も持っていないと。適当に言っているだけじゃないですか。
例えば、こう減ったら、こんだけ人が増えます。来年には、こうなって、球場が
だから潤うんですっていうとかね。シミュレーションしたような数字とか、ないん
ですか?一切ないって言うんですよ”

安易な球団削減には反対と、一貫して主張する選手会。 それに対し、歯切れ
の悪い対応に終始する経営陣の代表たち。 次第に世間の標的となっていく。

“我々が悪役になるというか、批判されますよね。それでも会社のこれからの
長い維持継続や発展のためには、何でもかんでも周りや選手に対して、いい
顔していたら済むという事でもないでしょうし、だからその辺は、損というか、
そういう役回りですよね。オーナーに、そんな事、させられませんからね”

批判を浴びてもオーナーたちの代わりに悪役となり続ける。 これが企業人、
彼の矜持(きょうじ)だった。 だが、思わぬところから計画に、ほころびが生じ
始める。

近鉄バファローズの球団代表を務めた男性は、言う。 “1リーグ制という事に
対して違和感を持っていた連中は、おられたと思います。特にセ・リーグの方”

巨人戦というドル箱を減らしたくないセ・リーグ5球団が、1リーグ制に反対の
声を上げ始めたのだ。 ダイエーとロッテの合併も、一向に進まない。

更に8月、巨人のオーナーが、ドラフトでの選手獲得をめぐる不祥事の責任を
取り辞任。 キーマンを失った事で、事態は更に混沌として行く。

9月、オーナー会議は、近鉄とオリックスの合併を承認。 しかし、その内容は
到底、一枚岩ではなかったという。

元千葉ロッテマリーンズ球団代表は言う。 “プロ野球を、こんな形でぶち壊し
にするのか?何、考えているんだ!みたいな事を、本音として思っている代表
も、半分ぐらいおったはずですよ。ふざけるな!表出ろ!みたいな場面もあり
ました。やっぱり相当、経営者側は疲弊していた。もう立場がなくなってた”

だが、今更、1リーグ構想を頓挫させるわけにはいかない。

新規参入の受け入れ時期について、来季ではなく、来季以降という表現に、
最後までこだわり続けた。

“オリックスと近鉄が一緒になりました。もうひとつ合併するって言ってたのに
話しが違うじゃないか。どないしてくれんねん!みたいな事をね…ならば別に
我々も、そこまでリスクを冒す必要はなかったと。だからギリギリまで、まだ、
何とかなるんじゃないの?と。ダイエーとロッテの合併が…”

そして、プロ野球史上初のストライキが起きてしまったのだ。 あれから16年。
元千葉ロッテマリーンズ球団代表は、今も心残りがあるという。

“経営者サイドで実際に交渉しているのは僕らのクラス、球団代表なわけです
今、こんな状況なのでという事をオーナーたちに伝えながらやっとけば、スト
ライキは野球界のダメージで我々もボロボロになりますよ。というような話しを
もっとストレートにして、ストは絶対に避けるべきだ、何の意味もないから。
というような事を言っておけば、避けられたかも知れない”

日本中から球音が消えた、この出来事は、プロ野球の歴史に苦い教訓を残し
ている。