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不遇だった兵馬俑の発見者は外からの評価によってようやく報われた
2021年11月28日 (日) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「実はなんてことなかった!ことはありますか?」
私たちを魅了して、やまない世界遺産。 その中には破壊や消滅の危機を
乗り越えて来た奇跡の遺産があります。 今回は、そんな世界遺産のピンチを
救った人々の物語です。

さて、続いての物語。 それは、たった1人の農民がクワで掘り当てた壮大な
世界遺産!そう、それが私たち兵馬俑(へいばよう) !(紀元前3世紀頃完成)

兵馬俑は、2000年以上前、中国を初めて統一した、秦の始皇帝のために作ら
れた、8000体を超える焼き物の像です。

1人1人、顔が違う事は、皆さん、ご存知ですよね? 私が言うのも何ですが、
実に、よく出来ています。 しかしこの兵馬俑、発掘されて早々に、ぶっ壊され
そうなピンチを迎えていたって、知ってます?

あの時、もしも壊されていたら、もちろん私、ここにいませんでした。
危機一髪で私たちを救った、アナザーストーリー。

長い戦乱の世を一代で終わらせ、統一王朝を築いた、秦の始皇帝。 その
死後も仕える軍隊として作られたのが… 兵馬俑だ。

威厳にあふれる将軍。 武器を構える兵士。 始皇帝の軍隊を、とことん忠実に
再現している。 だが、この兵馬俑、2000年間は土の中にいた。

中国中部、陝西省(せんせいしょう)の大平原。 都会から遠く離れたこの地で
兵馬俑は見つかった。 今や兵馬俑のおかげで、すっかり発展した地元の村。

最初に兵馬俑を見つけた男が、ここにいる。 現在は、自宅の一角を改造し、
発見のいきさつを伝える小さな記念館を開いている。 入場は無料。

“これはワシが兵馬俑を掘り当てたクワだよ。親父の代から受け継いでずっと
大事に使っていたんだ”

この1本のクワが、兵馬俑に当たった瞬間から、彼の人生は一変した。

1974年、当時36歳。兵馬俑の発見はいくつもの偶然が重なった結果だった。
彼の村から、僅か1.5キロの場所に、始皇帝の墓、始皇帝陵がある。

だが、当時の彼らにとっては昔々の皇帝などより、今日の暮らしの方が問題
だった。 彼の村は度々、干ばつに襲われ、農作物がほとんど取れなかった。
井戸はすぐに枯れ、ワラにもすがる思いで、荒地をクワで掘り続けた。

1974年3月29日。 あの運命の日も、そうだった。

“村はずれにカラカラに乾いた、くぼ地があった。そこしか残っていないから
掘った。必死で掘って4メートルぐらいは掘った時、いきなり硬い土に当たって
掘りにくくなった”  何事か?土を払う。壺か?だがそれは壺ではなかった。

“土の中から、ニュイッて顔が出て来た。頭だけ、さっきの胴体から落っこちて
たんだね。まるで本物の人間みたいな顔なので、ウワッ!て、思わず後ずさり
したよ”  始皇帝陵の近くだから、何か貴重なモノなのかも知れない。

そう思った彼はリヤカー3台分の焼き物を地元の役人のもとへと持ち込んだ。

“その役人は普段はワシら農民とは口もきかんヤツだった。何しに来たんだ?
って聞かれたので、井戸を掘っていたら変なモノが出て来た。見てくれません
か?って言ったんだ。面倒だなぁと言われだけど、とりあえず見て下さいよと
言った。やっと見てもらったら、やや、これは陶俑(とうよう)じゃないか。でも、
こんな大きな陶俑は見た事がないなって言ったんだ”

陶俑とは、古代中国で身分の高い人の墓に納められた陶器の人形の事。
これが、それまでに見つかっていた陶俑。 そして、こちらが兵馬俑。 誰も
見た事のない大きさだった。

“あぁ、スゴイ物を見つけたんだって。嬉しかったし、ちゃんと役所に届け出て
良かったとホッとしたよ。なのに役人のヤツ…手間賃は、くれてやる。とっとと
井戸掘りに戻れ!って…ワシは、体よく追っ払われたのさ…”

役人は役人で、困り果てていた。 妙な掘り出し物を、どうするか? こんな
ケースに当てはまる、国の法律もない。 無かった事にしよう…。 役人は、
倉庫の奥深くに兵馬俑を隠した。 そして、そのまま3カ月。 事態は一転する。

キッカケは、この日、北京で政府内で出回った密告文書だった。

‘上級部署に報告されていない、秘密の案件が発覚いたしました。 従来の
陶俑とは全く異なる、等身大のモノが見つかったのです’

密告を受けて政府が出した命令は… ‘すみやかに、妥当な措置をとれ!’

“あの掘り出し物の事で、お国が乗り出すというから一肌脱がなきゃと思った。
どこで、あれが出たか1番よく知っているから、発掘だって何だって、お手伝い
するつもりだった。でも役所に行ったら…これから学者先生が来る。お前の
出る幕じゃないって、けんもほろろに締め出された。ワシが見つけたのに、もう
近付く事も出来なくなってしまったんだ”

この時のショックで、彼は、何と20年もの間、遺跡に近付こうともしなかった。
兵馬俑発見者の存在は、忘れられた…。

そして、その兵馬俑に、とんでもない危機が迫っていた! 当時、吹き荒れて
いた、文化大革命の嵐だ。 (1966-1976)

毛沢東の号令一下、古い文物が次々と破壊された。兵馬俑も、そのターゲット
となりかねない。 考古学者で兵馬俑発掘の責任者の男性。 彼が31歳の時
文化大革命が起きた。

“文化大革命によって貴重な古いものが、たくさん打ち壊されました。もちろん
悔しかったですよ。考古学者である以上ね。でも、その気持ちを口に出す事は
許されなかった”

そんな彼が運命を変える一報を受けたのは、1974年7月。 兵馬俑発見から
4カ月後の事だった。

‘すみやかに妥当な措置をとれ!という命令だ。よろしく頼む’解釈によっては
破壊せよ、ともとれる命令だった。 とにかく、まずは、モノを見てみよう。
彼は村を訪れた。 すると…。

“ゴミ捨て場に、いきなり陶俑の手が転がっていたのです。おったまげたよ!
何なんだ、この村は!って。兵士の胴体が植木鉢代わりに使われていたり、
子供が腕でチャンバラしてたり。最初に発見した人だけは、ちゃんと地元の
役所に届けてくれましたが、かなりの数の村人が、こっそり掘り出していたの
ですね。あの1日だけで、20体分ぐらいは回収しました”

彼は兵馬俑発見の現場を調査。 地面に棒を刺して遺跡の広さを推定する。
その規模は、想像を、はるかに超えていた。

“これまでの遺跡は、大体10平米から30平米ぐらいだったから、そのつもりで
やっていたら、どこまで行っても終わらないのです。兵馬俑1号抗の大きさは
14000平方メートル。世界でも1・2を争う規模の地下遺跡でした。しかも中身は
ぎっしり。私だけでなく、その場にいた考古学者全員が大興奮でしたよ”

かくして始まった、本格的な発掘。 遺跡の広さから割り出すと、地中に眠って
いる兵馬俑は、優に6000体を超える。 大・大・大発見だ!!

どう措置するのが妥当か? 学者の腹は決まった。

“発掘隊のメンバーに、いつも言っていました。危険な時代だから一歩間違え
たら、刑務所行きかも知れない。でも、私たちで兵馬俑を守り抜こう!たとえ
逮捕されようと…歴史の犯罪者にだけは、なってはならない。そう決めていた
のです”  彼は、文化大革命の破壊対象にも、例外がある事に注目した。

それは、あの秦の始皇帝関連のもの。その理由は焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)
始皇帝が儒教の学者を土に埋め、書物を焼き払ったという故事(こじ)だ。

毛沢東も古い思想を否定する点は同じ。文化大革命の時代、始皇帝の行い
は、良い事とされ、彼が残したものは例外的に破壊を免れた。(万里の長城)

つまり兵馬俑が始皇帝のものだと証明さえできれば、破壊されず守り抜ける。

ただ、許された発掘期間は、僅か1年。 彼は、始皇帝とのつながりを、必死に
探し続けた。 そして、期限まで3カ月を切った… 1975年4月。

“決定的なものが、ついに見つかりました!兵馬俑が持っていた武器に、作ら
せた人物の名前が記されていたのです。相邦の呂不韋という名前がね!”

相邦(そうほう)とは、秦の国の政治のトップに当たる存在。 呂不韋(りょふい)
とは、始皇帝の若き日に相邦を務め、歴史書にも登場する人物。

ついに兵馬俑が始皇帝と結び付いた! このニュースには毛沢東も喜んだ。
1975年7月。 ‘始皇帝の遺跡、兵馬俑が発見された!’という第1報が世界に
向け発表される。

“忘れもしない発掘初日。兵士が、いっぱい出て来て、いや、もちろん兵士も
スゴイのだけど、馬も出て来たらいいなと思ったら、次の日に、いっぱい出て
来た!今度は馬車が出るといいなと思ったら、それもまた立派なやつが出て
来る。苦しい思いもしましたが、兵馬俑との出会いで私の人生はワクワクする
ものに変わりました。いくら一緒にいても飽きない。まさに永遠の友ですよ”

しかし中国政府は、‘詳細な情報は国家機密’として、兵馬俑の写真を一切、
公開しなかった。 その風向きが変わったのは1976年。毛沢東が亡くなった。

これを機に、文化大革命は終息へと向かう。 その1年半後の事だった。
アメリカの著名雑誌に、兵馬俑のスクープ写真が出た。(ナショナルジオグラフィック)

文化大革命真っ只中の発掘中の写真。 一体、誰が写真を外に出したのか?

発掘隊責任者の彼に事情を聞くと…。

Q: こういう写真って、現場の人じゃないと撮れないですよね?

“もちろん。誰が、こんな事を許したんだかねぇ。でも、これなんて、いい写真
でしょ。2人とも私の仲間だけど、もう亡くなったし、こんな完全な形の兵馬俑
が見つかる事も、まずない。もう2度と撮れない最高の写真だよ”

Q: どうやって撮ったか、本当は、ご存知なのでは?

“さぁねぇ…どうだったかなぁ…昔の事は忘れました…”

誰が出したかは分からないが、写真の効果は抜群。 記事発表の翌年に、
博物館がオープンすると、初日が外国人が殺到した。 (1979年10月1日)

1987年にはユネスコの世界遺産にも登録され名実ともに世界の宝になった。
記事によって再発見されたのが、第1発見者の男性。世界中から発見秘話を
聞きたいという人が殺到した。

“ワシは、あくまで農民。1人だけ注目を浴びるのはいけない事。でも、そんな
こと知らない外国の皆さんは、会いたい、会いたいと言ってくれる”

聞かれるまま、発見秘話を話していた男性。 それを本にしないか?という
話しが出る。 本は、瞬く間に8カ国語に翻訳された。 そうなると…。

“忘れもしない1994年6月、お役所から、外国人に話しをしたりサインするなら
ぜひ博物館の中でやってほしいと頼まれたんだ”

不遇だった兵馬俑の発見者は、外からの評価によって、ようやく報われた。
しかし、この10年、彼の村では、奇妙な事が相次いでいる。

あちこちで、自分こそ発見者だ!と言う者が続出したのだ。

“考えても仕方ない事なんだよ。ワシは単なる農民にすぎない。止める事
なんて出来ない”  Q: 怒らないんですか?  “いや…”

彼らも同じ村人。 彼は、とがめようとはしなかった。 彼には、あのクワ以上に
大切にしている宝があるという。

“兵馬俑を発見した直後に、3歳の息子と撮った写真だよ。最初は、息子に
話したんだよ。父さん何かスゴイものを見つけてさぁって。おかしくなっちまった
ヤツもいるけど、これを見るとワシは最初の時に戻れる。息子に自慢ができて
嬉しかった。そのぐらいで十分なんだとね”