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平和な田舎暮らしに美容・健康など自由気ままに綴っています!
命を削るようにして作った時代の彼のカンフー映画の伝説は続いて行く
2021年11月26日 (金) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「〇〇1年分!もらえるとしたら何がいい?」
この男の辞書に恐怖という文字はないのか? 危険なスタントも、何のその、
全ては観客を楽しませるため。 その驚異的なアクションの数々に世界は熱狂
した。 その男の名は… アジアが生んだスーパースター、ジャッキー・チェン。

自由と混沌の中で、ジャッキーをはじめ、香港の映画人が作り上げた作品は、
爆発的な人気を呼び、世界を席巻しました。その魔力に魅せられジャッキーに
弟子入りする事を夢見た、日本人青年がいました。

彼は無鉄砲にも、単身、香港に渡り、ジャッキーに直談判。 スタントの技を
披露したのです。 その青年は20年後、日本のアクションシーンに革新をもた
らす事になります。 3つ目の視点は、映画るろうに剣心のアクション監督。

ジャッキーに憧れ、裸一貫で香港に渡った男の型破りなアナザーストーリー。

香港の人波を軽やかな身のこなしで、すり抜ける、この男。 アクション監督の
日本人男性だ。 映画るろうに剣心では、スピーディーで斬新なアクションを
生み出し、数々の賞を受けた。 その全ての原点が、ジャッキーだという。

“ジャッキー・チェンの映画を見なかったら、僕がアクションの世界に入る事は
絶対、なかったと思いますし、今も世界中のスタントマンでジャッキー・チェンの
影響を受けてない人は、いないと思います。やっぱり、そのくらい、スゴイ人”

ジャッキーの弟子になりたかった男の無鉄砲な挑戦!

1982年、彼が初めてジャッキーの映画を見たのは、小学5年生の時。テレビで
蛇拳(じゃけん)が放映され、子供たちの間で瞬く間に大ブームになったのだ。

“それを見た次の日が、やっぱりクラスが、皆、その蛇拳をやってるというか
普通に、こうする(構える)だけでも蛇拳じゃないですか。だからね、それを、
みんな、やってましたね。蛇拳とか酔拳って、できない人が訓練を経て出来る
ようになるじゃないですか。それを小学生が見ると、自分も出来るような気に
なるというか、それが面白くてね。真似しやすいじゃないですか。こうやって、
パンパン パンパン…だとか”

憧れたのが、これ! 親指と人差し指の2本だけで、くるみを割る。 もちろん、
やってみたが…。

“くるみは割れないですよね。やっぱりね。あれは相当、難しいですよね。でも
何か消しゴムとかで…みたいな事は、やりましたよね。やっぱりね。クーッて、
フリだけね。グーッとかって、やったりはしましたから。うん…”

ジャッキーに憧れた彼は、高校時代、少林寺拳法部に入り、県大会優勝を
果たした。 大学時代には、プロのアクション・クラブに所属。 スタントの技を
磨いた。 大学卒業を控えた20歳の時、彼は、香港に乗り込んだ。

目的は…? ジャッキーに弟子入りする事だった。 アポもないまま映画会社
ゴールデンハーベストへ。 するとラッキーな事に、撮影を終えたジャッキーが
現れた。 ファンサービスを始め、彼にも声を掛けて来た。

ちゃっかり記念撮影。しかし弟子になりたいと言えない内にすぐに事務所へ。
彼は、諦めずに待ち続けた。 2時間後、再び、ジャッキーが現れた。

“周りには助手の人が2人いるくらいだったんですけど、1対1の時間に近かっ
たんですよ。もう誰もいない感じで。もう日も暮れてたんで。その時に僕が、
香港でスタントやりたいと思っていてっていうような話しを、こう…して、それで
1回、技を見てもらえますか?みたいな事を言って、それでジャッキーが、何か
こう…うん、うん…みたいな感じで。それで技をやって…”

彼は、回転しながら吹き飛ばされる、きりもみ など、スタントの技を披露した。

“なかなか鬼気迫る感じだったんじゃないですかね。何も敷かない所で、きり
もみとか、やってたんでね。うん。それで終わったら…拍手って、まぁそんな感
じがあって、それでその時に、いろいろ話してもらったのが、その…Very good!
But、今、香港 movie action ない。Only Jackie Chan movie。But Jackie
Chan movie 1year 1movie …みたいな事を言って。つまり今は香港に、そん
なにアクションがあるわけでもないし、香港でスタントマンするのは、すごく
難しいと思うと。その情熱を例えばカーエンジニア、コンピューターグラフィック
とか、いろいろ、だから簡単に言うと、その情熱を他に生かせ君は、みたいな
話し…”  体のいい門前払い。 しかし彼は、全くめげなかった。

“いろいろ言われたんだけど、まぁね、ちょっと不思議な思考回路だったんだけ
ど、ジャッキーが去ってからね、よし、俺は香港でやるぞ!っていうね。全然、
人の話しを聞いてなかったんですけどね。日本に帰って頑張れって言われて
んのに、よし、俺は香港でやってやる!っていうね。何か、ちょっと頭おかしい
んですよね。うん。何か嬉しかったんじゃないですか。まぁ、今こうやって整理
して考えると、自分を奮い立たせてたのかも知れないですけども。よし香港に
行くぞ!って感じに…”

1993年、大学を卒業した彼は、ジャッキーの忠告を無視して、単身、香港に
舞い戻った。 言葉も喋れず、仕事の当てもない。 手元にあるのは、現金
50万円のみ。 まさに、無鉄砲な挑戦だった。

彼は電話帳を頼りに、香港にある映画会社200社を、片っ端から訪ね歩いた。
ようやくエキストラの職を得たのは、2カ月後だった。

“まぁ、エキストラの中でね、日本人がいると珍しいじゃないですか。で、監督
とかが、ほら来い、ほら来い。日本人かと。日本から来たのか?日本で何を
やってたんだ?スタント。お~、スタント。アクション出来るのか?できます。
何か、やってみろって。そりゃ、出来るじゃないですか、アクションは。おぉ~、
すげえな。電話番号、書けみたいな事があったりとか。そこで割と何だろう…
名物になって…”

南極とか香港の映画界に潜り込んだ彼。 忘れられない撮影現場がある。
ジャッキー主演の酔拳2だ。

“2年経ってたんですけど、それから。ジャッキー覚えてたんですかね、やっぱ
りね。現場入って、こうやって…。こうやって見て、こう僕の方を見て。で、僕の
方も、こうやってて。こうやって見ていて…とかっていう。アイツ、アイツみたい
な感じで。え?って、向こうは覚えてる。アイツ、アイツみたいな事で呼ばれた
りとかしたんで…”

その後、彼は、香港で少しずつ実績を上げて行く。 大スターのドニー・イェン
に認められた事で、アクション監督の道もひらけた。

何も持たないまま香港にやって来て26年。 今や彼は、迫力満点のアクション
が撮れる映画監督として、着実に歩み始めている。

2008年、彼はプロの映画人として、ジャッキーと再会を果たす。 ジャッキーの
主演映画、新宿インシデントの撮影現場に呼ばれたのだ。彼は香港の監督と
日本人スタッフの間をつなぎ、見事に現場を仕切った。

“監督とか、あとジャッキーとかも僕に1回、言って、そこで現場で僕がスタッフ
にバッと、こう指示を出す。何日か経ってから、あぁ、何となく信頼はされてる
んだなっていう気に、すごい、なって来たっていう感じですね。うん”

撮影終了後の打ち上げでジャッキーは、彼にウイスキーのお茶割りを作ってく
れた。 その時、かけられた言葉は、一生の宝物となった。

“お前は、香港に来た頃はバカだったな。でも今は、よくやっている。本当に
よく頑張った。ベリーグッド!っていう事を言ってもらえたんで、僕の中では、
何だろう、はぁ~っていう感じ。イエーイ!じゃなくて、はぁ~っていう感じ…”

忠告を無視した自分を、同じ映画人として、ようやく認めてくれた。 今、振り
返ってみると、夢のような現場だった。

“僕が何か、ジャッキーにアクション!って言ってジャッキーが動くっていうのが
何かね、夢みたいな光景というか、何でしょうね…ちょっと不思議な感じが
しました。当たり前なんだけども、掛け声でしかないんだけども、何か、それが
うん、ちょっと自分の中では、おぉ~って感じ…”

香港で評価を高めつつあった彼に、目を付けた男がいた。 るろうに剣心の
準備を進めていた映画監督だ。

“1970年代ぐらいからの香港のアクション映画から、こう、ちょっと見まくろうと
思って、その中で、こう、エンドクレジットとか見てる中に、彼の、日本人の
名前とか、チョロチョロ出て来るのを見ていて、で、まぁ、彼の名前で、ちっょと
作品を、こう、追っかけていたりした時もあったんですね。日本で、まだ誰も
見た事ない様なアクション映画を作りたいって思った時にやっぱり日本国内で
仕事をずっとして来ている人よりも…違うところの空気を吸って、違う血を持ち
込んでくれる人。そして多分そこには知恵やノウハウがあるわけで、そういう
ものを自分の映画の中に持ち込みたいっていう”

るろうに剣心(2012年)には、香港映画が培った技術が存分に生かされた。
カンフー映画を彷彿とさせるキレのあるアクロバティックなシーンが大評判となった。

“カナダの映画祭に行った時、るろうに剣心とかを持って行った時…80年代の
香港映画の熱量を思い出したよって、言われたんですよ。たまたま、この前、
デモで見たみたいなね。何か、あぁいう熱気がさ、いや、作りたいモノ作らせ
ろよ!っていう熱気が、今の彼につながってるっていう気がしますよね”

“子供時代にジャッキーを見て、今、映画を、大人になって映画を撮るようにな
った人っていうのは、世界中に僕の様な人間が、いっぱいいるわけですよ。
それはつまり、それぞれがもう、ちょっと形違うけどジャッキーチルドレンとも
言えるわけじゃないですか。ジャッキーのDNAで育って、そのDNAを別の形で
生かしながら、自分たちが持っているものを、うまくつくり合わせて別の形に
するというか…”

彼が、今、取り組んでいる作品は、燃えよデブゴン。 かつての人気カンフー
映画が、新たなアクション映画に生まれ変わろうとしている。

返還から22年。 香港の熱は今も失われていない。 彼は、これからも香港で
映画を撮り続けて行くつもりだ。

“僕が来た時から香港映画って毎年、もう終わったよなって自分たちで言って
るっていうか、みんな香港映画、終わった終わったって言って、もう、20年何
経ってるんで…まぁ、しぶといですよ。僕たちは…”

ジャッキー旋風は世界を駆け巡りました。 彼が命を懸けたアクションに国境や
言葉の壁はありません。 ジャッキー映画を見た観客たちは笑い、驚き、そして
元気をもらって来ました。

世界中で、子供から大人まで愛され続けたスターは、希有な存在ではないで
しょうか? ジャッキー・チェンは、65歳になった今も、自らスタントをこなし、
命知らずの華麗なアクションで人々を魅了し続けています。

2013年。 ジャッキーは長年の功績が認められ、あるセレモニーに招かれた。
ハリウッドを代表するスターに並んで、ジャッキーも手形を刻んだのだ。

香港人俳優としては、初めての偉業だ。

‘世界中のファンに感謝します。みなさんのおかげで、夢を叶える事ができまし
た。どうもありがとうございました!みんな大好き!’

ジャッキーは、アカデミー名誉賞を受けた時、こんな挨拶をしている。(2016年)

‘ありがとうと言いたい、香港に。僕の故郷だ。香港が僕をつくってくれた。
そして中国人である事を誇りに思う’

Q: ジャッキー、引退は考えていない? ‘引退するには、まだ若すぎるよ!’

仲間に支えられ、香港を愛し、映画を愛したジャッキー。 ジャッキーたちは、
香港という街で、命を削るようにして映画を作った。 伝説は続いて行く。