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アジアが生んだスーパースターを陰で支え続ける名脇役と仲間たち
2021年11月25日 (木) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「〇〇1年分!もらえるとしたら何がいい?」
この男の辞書に恐怖という文字はないのか? 危険なスタントも、何のその、
全ては観客を楽しませるため。 その驚異的なアクションの数々に世界は熱狂
した。 その男の名は… アジアが生んだスーパースター、ジャッキー・チェン。

一躍、香港のスターになったジャッキー。 その勢いはすさまじく、瞬く間に、
日本をはじめ、アジア各国で大人気となりました。 そして、あの不朽の名作が
誕生します。 プロジェクトA。 当時、香港史上、最大規模の映画でした。

特に、18メートルもある時計台の上からジャッキー本人が命綱なしで落下する
アクションは、人々の度肝を抜きました。 実はこの映画には、中国とイギリス
の間で翻弄された、香港人の夢と気概があふれていたのです。

第2の視点は、ジャッキー映画に欠かせない、名脇役の男性。 40年以上に
わたって、ジャッキーを支え続けた親友です。 彼は、今回の取材で、あの
伝説のシーンの意外な真相を明かしてくれました。

香港に愛され、だからこそ苦しんだジャッキーの光と影のアナザーストーリー。

彼はプロジェクトAでは、もっぱらお笑い担当。 だが、その素顔は、超一流の
スタントマンだ。  “これは、虎の爪。 蛇。 これは、トカゲだ”

ジャッキー・スタントチーム成家班の筆頭格。その身体能力の高さで、長年、
チームを引っ張って来た。 ジャッキーからの信頼はあつく、息の合った印象的
なシーンも多い。

“僕にとってジャッキーは、アニキでありボスでもある。ひと言では言えないな。
何て言うかな…何より大切な親友かな”

あの伝説のシーンは、彼なくしては撮れなかったという。 その意味とは?

ジャッキーが主演だけでなく、監督も務めた、プロジェクトA。 (1983年)
親友の彼は、成家班総出で挑んだ、この作品に、並々ならぬ思いがあった。
実は、その直前、ある屈辱的な出来事があったからだ。

アニキであるジャッキーが、初めてハリウッドで映画を撮る事になった時の事。
満を持してのハリウッドの挑戦だったが安全上の理由からやりたいスタントは
ことごとく禁止。 自分たちのアクションを、全く見せられなかった。

“アニキはハリウッドでは、まだ無名で何の実績もなかった。だから、あまり
自分の意見を言えなかったんだ。文句を言ってたよ。NGが出ると長いアクション
でも、また最初から撮り直す。これじゃ、時間もお金も、労力もかかり過ぎる。
何で、こんな撮り方をするんだってね。全然、納得していなかったな”

ジャッキーは、自伝に、こう書いている。
‘2度とハリウッドなんかに行く気はない。自らのスタイルを犠牲にしたくない’

ハリウッド進出は苦い失敗に終わった。 どうすれば、ハリウッドを見返す事が
出来るのか? 悩んだ時、ジャッキーが決まって訪れる場所がある。

撮影スタジオの裏山だ。(カオルーン・ピーク) 岩に腰掛け香港の街を眺める。
そこに暮らす人々や友人たちに思いをはせると、自然に考えがまとまって行く
という。

‘香港は活気にあふれる、とても…魅力的な面白いところです。東洋と西洋の
文化が、複雑に組み合わさっています。香港で生まれ育った僕は、無意識に
世界各地の文化を吸収していたような気がします。僕は、それを映画作りに
生かしたいと思っています。単なる香港映画は違って、世界の人々が共感で
きるような映画を作りたいのです’

香港人にだって世界に通用する映画を作れるはずだ! そんなジャッキーの
思いを受け止めたのが、親友の彼だった。 2人には、強い絆があった。

“17歳くらいから、一緒にスタントマンとして働いていました。仕事終わりに、
よくビリヤードやマージャンをやったな。お互いの事が分かっているから話さず
とも分かる間柄ですね”

ブルース・リーの時代、共にスタントマンとして下積みをし、年も一緒、背格好
まで、よく似ていた。 酔拳で、一躍スターダムを駆け上がったジャッキー。

その一方で彼は、スタントマンとして成家班に入り、ジャッキーを支える道を
選んだ。 自分のスタントの技で、香港映画を盛り上げるために。 香港映画の
誇りを懸けて、プロジェクトA の制作が始まった。

ジャッキーが映画の舞台に選んだのは、20世紀初頭の香港。 中国でもなけ
れば、イギリスでもない。 借り物の場所、借り物の時間と呼ばれた時代だ。

香港の人たちは、いつ変わるか分からない、不安定な境遇を、したたかに
生きて来た。 ジャッキーは、そんな香港人の気概を、さりげなく織り込んだ。

物語の中盤、海賊たちが、イギリス海軍の提督を人質にとる。 保身ばかりを
考え、弱腰のイギリス人の総督に、ジャッキーは、こんなセリフをぶつける。

‘我々には知恵がある。知恵を絞って考えれば、海賊を倒し提督を救う方法が
あるはずです。諦めてはダメであります!’

ロケ地も、香港ならではの場所にこだわった。 例えば、狭くてゴミゴミした
路地裏。 映画の中で、どうにかして、うまく生かせないか? ジャッキーは、
親友たち成家班に積極的に相談。 思いつきを形にして行った。

“撮影前、アニキと現場を何度も下見して色々なアクションを膨らませて行った
んだ。どうすれば、もっと面白くなるのか?みんなで一緒にアイデアを出し合っ
たんだ”  そうして生まれたのが、こんなシーンだ。

しかし、世界を驚かせるためには、まだ何か足りなかった。 そうして行き着い
たのが… ハリウッドでは、やらないような危険なスタントだった。

Q: なぜ、危険なアクションをやるのですか?

“う~ん…あの時代、香港映画では、みんな体を張っていたよ。みんなが競い
合って、どんどんハードなアクションになって行ったんだ。香港の観客は、アク
ションへの要求が高くてね。それを満足させるためには、誰も見た事がない
すごいアクションをやってやるという、気概がなければ務まらなかったよ”

当時の映画会社の副社長。 監督であるジャッキー自身が演じるため、タブー
は少なかったという。

“あの時代の香港映画は安全性をほとんど考えていませんでした。ジャッキー
が高いところから落ちて耳から大量の血が噴き出した事がありました。その時
誰かがジャッキーに、これまでどこをケガしたの?と聞いたら、ケガしていない
ところを聞いた方が早いよと笑っていましたね”

異常な熱気が、あの伝説のシーンにつながって行く。 ジャッキーは、命綱も
つけずに、高さ18メートルの時計台に、ぶら下がった。 それは6階建てのビル
に相当する。 ここから飛び降りるというのだ。

CGもなし。 下にマットを敷く事もできない。 まさに命懸け。 落下の衝撃を
和らげるため2枚のサンシェードはあるが、心もとない。ジャッキーを、このまま
飛ばせるわけには、いかない。 親友たちは、必死に安全対策を考えた。

ベールに包まれていた舞台裏を、今回、特別に明かしてくれた。

“実は、地面に…150センチくらいの深い穴を掘り、段ボール箱を重ねた。その
上に畳を敷き、砂で隠して地面のように見せたんだ”

ジャッキーは全てを懸けて、このスタントに挑んだ。 しかし、無事では済まな
かった。 さまざまなアングルの画を撮るため、何度か落下した中でジャッキー
が大ケガを負ったのだ。 撮り残しがワンカットあった。

“とても危険なスタントだからアニキは成家班のメンバーに代わりをやらせたく
なかった。でも実は、今まで黙っていた事があるんだ。アニキの名誉に関わる
んだけど…つまり、これ、これ、僕なんだ”

映像を確認すると、確かに親友の彼だ。 アニキのピンチに立ち上がり危険な
スタントを任されたのが、親友の彼だった。

“任されたら、どんな危険でも、やり遂げるのがスタントマンなんだ。あのスタ
ントは朝の9時にやる事になっていたんだけど、前の晩は全然眠れなかった。
クーラーを入れても、手のひらの汗が止まらなかったのは、初めての経験だっ
たね。実際にぶら下がった時は、なかなか手を離せなかった。するとアニキが
下から、手を離せ!って言うんだ。正直、無理だと思った。早く離せ!って叫
ばれて、アニキ、離せないよ!って言っちゃったよ。アニキが本当に出来るの
か?って言うから、やる!と答えて、最後は覚悟を決め、手を離したんだ。
アニキのOK、カット!の声が聞こえた時は…涙が止まらなかったよ”

親友の彼は、この事を35年間、隠し続けてきた。 脚光を浴びるのは、アニキ
だけでいいのだと。

“スタントマンは自分のやった事を話してはいけないんだ。今、アニキの秘密を
打ち明けたけど、もう随分、昔の話しだから、いいよね?  シー!”

仲間たちに支えされ、プロジェクトAは完成。 世界各国で大ヒットを記録した。
それは紛れもなく、ハリウッドでは真似のできない映画だった。

‘僕は自分が、どこまで出来るか分かっています。クレイジーだけど、死にたい
わけじゃない。どんな事があっても、仲間が助けてくれるんです’

プロジェクトAの13年後、ジャッキーは41歳でハリウッドに再挑戦!体を張った
そのアクションは観客の度肝を抜き、世界中に香港フィーバーを巻き起こした。
(全米1位を記録/1996年2月23日アメリカ公開時の週末興行成績)

しかし、その熱気は長続きしなかった。借り物の時間が終わったのだ。中国の
巨大な資本に飲み込まれ、香港映画界は衰退した。 (1997/7/1香港返還)
ジャッキーの仲間も、散り散りになった。

香港を失ったジャッキーは、中国やハリウッドを拠点に今も映画を作り続けて
いる。 彼は、日本語の通訳として、30年近くジャッキーと付き合って来た。

2人きりでタクシーに乗った時、ジャッキーが、ふともらした、ひと言が、忘れら
れないという。

“何かポツリと言ったんですよね。本当の友達って、いるのかな?って自分で
思う事があるっていうのは以前、言ってた事がありますね。周りに色んな人が
集まって来る。それは悪い言い方をすれば、ジャッキーを利用して金を儲けよ
うとしてるとか。ホントの友達なのかっていう判断が、すごい難しい。普段は、
ホントいつも誰かが周りにいますよ。だからいつも賑やかですけども心の中は
孤独なのかも知れないですね”

永遠ではないからこそ輝いて見えた、あの時代、ジャッキーは、そんな香港が
生んだスターなのかも知れない。

“今ではアニキの名前も成家班も、世界中で知られている。僕の1番の誇りは
あの時代に成家班の一員だったって事かな…”