2021年11月24日 (水) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「〇〇1年分!もらえるとしたら何がいい?」
この男の辞書に恐怖という文字はないのか? 危険なスタントも、何のその、
全ては観客を楽しませるため。 その驚異的なアクションの数々に世界は熱狂
した。 その男の名は… アジアが生んだスーパースター、ジャッキー・チェン。
巨大なネオン看板、密集する高層ビル。 おもちゃ箱をひっくり返したような街
ともいわれる香港。 この混沌とした街を世界に知らしめ、まさに香港の象徴と
なったのが、ジャッキー・チェンでした。 肉体の限界に挑んだアクション。
観客は、その迫力と美しさに酔いしれました。デビューから40年以上、第1線を
走り続け、出演作は100本を超えます。 世代ごとに心に残る、それぞれの
ジャッキーがいる事でしょう。 私のお気に入りは、やっぱり、酔拳ですね!
カンフー映画、酔拳(1978年)。 ジャッキーの名を、一躍有名にした出世作だ。
人気の秘密は、人間業とは思えない、スピーディーなアクション。 そして愛嬌
たっぷりの笑顔と、子供も楽しめるユーモア。
“ジャッキーは私の恋人よ!でも彼は、私を知らないから悲しいわ!”
“力も強いのに面白しろくて可愛いところ” “ジャッキー大好き!カッコイイ!”
人種も年齢も関係なく愛され続ける、ジャッキー・チェン。 かつてジャッキーは
こんな事を語っている。
‘世界を相手に生きて行くのだという精神が、香港という土壌で自然に養われ
ていたのかも知れません’
ジャッキーは、まさに、香港が一番輝き、エネルギッシュだった時代に現れた
スターだった。 その心意気が凝縮されたのが、プロジェクトAだ。(1983年)
そこには、苦楽を共にして来た仲間たちだからこそ知る驚きの真実があった。
“今まで黙ってた事がある。ジャッキーの名誉に関わるからね!”
運命の分岐点は、1978年3月。 この時を境に、ジャッキーは一躍、香港の
大スターとなりました。 蛇拳、酔拳、笑拳が立て続けに公開され、ジャッキー
旋風が巻き起こったのです。突如、現れたスターに香港の人々は驚きました。
というのも、それまでジャッキーが主演した映画は、全くヒットせず大コケ男優
という、不名誉なあだ名まで付けられていたのです。
一体、なぜ、ジャッキーは、大スターになれたのか?
第1の視点は、ジャッキー本人です。 実はジャッキーは、ある男の幻影に苦し
められていたのです。 その人物とは?
笑顔の裏に隠された、スターの挫折と挑戦のアナザーストーリー。
ジャッキーが若い頃、人気がなかったのは、ある男が深く関係していた。
香港が誇る伝説のスター、ブルース・リーだ。 あまりに大きい、その存在が
ジャッキーを苦しめた。若き日のジャッキーが主演した、この映画を見てほしい。
演じたのは笑顔を封印した格闘の鬼。 (レッド・ドラゴン新・怒りの鉄拳/1976)
ブルース・リーのコピーにすぎなかった。
‘ブルースが成功すると、ブルース何とかという役者が次々と現れ、みんなが
真似をしたんだ’ ブルースの呪縛を、一体、どうやって乗り越えたのか?
ジャッキーとブルースの因縁は、1本の映画から始まる。 ドラゴン怒りの鉄拳。
当時、17歳だったジャッキーは、この映画に出演していた。 とはいっても、
顔も出なければ、名前もない、しがないスタントマンだった。
‘最初、僕は全くカンフースターになろうなんて思っていませんでした。もともと
ただ、好きなカンフーで、何か仕事ができれば十分だと思っていたのです’
(21世紀の君たちへ より)
トップスターと下っ端。 普通なら接点はない。 ところがジャッキーは、ある
大事なスタントに抜擢される。 それが、このシーンだ。 ブルースの飛び蹴りで
豪快に吹き飛ばされるジャッキー。 その距離は、6メートルにも及んだ。
この映画に、同じスタントマンとして参加していたのが、ジャッキーの親友だ。
“あのカットは広い画なのでスタントマンは長い距離、吹き飛ばされなければ
ならなかった。ジャッキーにはワイヤーがつけられ、そのワイヤーを持った人が
高い台の上から飛び降り、一気に引っ張った。そして、すぐにワイヤーを離した
から、ジャッキーは思い切り地面にたたきつけられたんだ。誰だって、ウッ…て
なりますよ” まさに命懸け。 ジャッキーは全身に痛みが走り、気絶した。
皆が心配するなか、ようやく気が付くと、ブルースが笑顔で声を掛けて来た。
‘すごく良かった’ ジャッキーにとって、忘れられない出来事となった。
そもそもジャッキーの人生には、香港という街の歴史が深く関係していた。
1954年、ジャッキーは生まれた。 本名は、港生(コンサン)。 香港で生まれた
事を意味する名だ。 当時、香港はイギリスの植民地だった。
隣には、建国されたばかりの中華人民共和国。 そこから逃れて来た多くの
難民で、ごった返していた。 ジャッキーの父親も、その1人。
どこにも頼る当てもなく、貧しかった。 7歳の時、そんな父親が職を失う。
住む場所さえなくなった。 そのためジャッキーは親元を離れ、京劇の劇団に
預けられる。 朝から晩まで、曲芸や武術を厳しく、たたき込まれた。
苦しい修行生活は10年も続いた。 しかし、せっかく身につけた伝統芸能は
下火で仕事はなかった。 そこでジャッキーが選んだのが映画。 ブルースの
登場で活気づく映画界に将来を賭けたのだ。
香港のスタントマン総出で作られたという、燃えよドラゴン(1973年)。 もちろん
ジャッキーも出演。 一瞬だが、顔出しでブルースとの共演を果たす。 前途
洋々に思われた。 ところが… ブルースが突然、亡くなったのだ。(享年32)
“本当に驚きました。ブルースが亡くなるなんて、考えた事もありませんでした
から。香港の映画界は死んだようになってね。ブルース・リーという大黒柱を
失ってどんな映画を作ればいいのか分からなくなったんです。そして小難しい
芸術映画が作られましたが、そんな気取った映画は、誰も見に行きませんよ”
映画は貧しかった香港の人々にとって特別なものだった。 映画監督の彼は
当時の映画館の熱気を、今もよく覚えている。
“香港人には、エンターテイメントが必要なんだ。特に映画は、僅かなお金で
夢の様な世界を見せてくれるからね。仕事のストレスや貧しさを抱えていても
2時間の映画を見て笑ったりスカッとできれば、全ての悩みを忘れ、また明日
から頑張れるんだ”
焦ったプロデューサーたちは、第2、第3のブルースを登場させた。 しかし、
いくら名前を似せても、所詮は、ものまね。 映画は当然ヒットせず、事態を
悪化させるだけだった。 そんな中、ジャッキーのもとにも連絡が入る。
映画の主演をやってみないか? ドラゴン怒りの鉄拳の続編を作るという。
あの映画でジャッキーが見せた、命懸けのスタントが高く評価されたのだ。
監督は、ロー・ウェイ。 ブルースと一緒に数々のヒット作を作った巨匠だった。
ジャッキーは、監督に意気込みを、こう語った。
‘チャンスがあれば、最高の俳優にだってなれると思います’
新・怒りの鉄拳。ジャッキーはこの作品で初めて成龍(せいりゅう)と名乗った。
成功してスターになるという意味だ。 だが、現実は甘くはなかった。 監督が
求めたのは、ブルースそっくりの演技。
ジャッキーは、要求に必死に応えようとした。 でも、ブルースとは顔つきから
何から違う。 ロー監督から、幾度となく怒りをぶつけられた。 どんなに頑張
っても、結局は2番煎じ。 撮影は、苦痛でしかなかった。
笑う事も許されず、ブルースの幻影が、ジャッキーの個性を殺して行った。
ジャッキーは自伝の中で、当時の事を、こんな風に回想している。
‘役者たちが、ロー・ウェイ大監督は何を考えてるのかね。この男の、どこが
いいんだろう。しかも成龍なんて笑わせる。こんなヤツに金をかけるのは金の
無駄だよ。などと言っている。聞きながら、涙がポロポロと落ちて来た’
結局、映画はヒットしなかった。 その後も、似たような映画に出たが、惨敗に
次ぐ惨敗。 大コケ男優と、揶揄されるまでになった。
‘僕は耐えられない。気が狂いそうだ’ そんなジャッキーに転機が訪れる。
少林寺木人拳(もくじんけん)に出演した時の事だ。 監督は30歳の駆け出しの
男性だった。 彼はジャッキーの意見をよく聞き、映画に積極的に取り入れた。
“ジャッキーは、動きが美しいアクションをやりたいと言って来ました。ちょっと
見せてもらったら、すごくいい。他にもない?もっと出来るだろ?と言うと、彼は
次々にアイデアを出してくるんです”
監督と自由に意見を言い合えた事が、ジャッキーの良さを引き出して行く。
“ジャッキーの印象は、とにかく若くてパワフル。ジッとしていられず動き回って
いましたね。彼も私も、この映画を今までにないカンフー映画にしようと思って
いて、体力もありました。だから、彼のスピーディーな動きや技のキレを、どん
どん映画の中に取り入れる事にしました”
そうして生まれたシーンの1つが、これだ。 流れるような動きの中で、次々と
繰り出される技。そこには、これまで見た事のないカンフーの美しさがあった。
“撮影は大変でした。何度も失敗して、NGが30回なんて事もありました。でも
ジャッキーは挑戦し続けたんです。アクションで少しぐらい傷ついても、不平
ひとつ、こぼしませんでした。私たちは、新しいチャレンジが大好きで、撮影の
休憩時間でも、どうすれば、もっと面白くなるか?ずっと話していましたね”
ジャッキーは、映画を作る楽しさを知った。 そして、もう1つ、大きな収穫。
この映画で知り合った仲間と専属のスタントチーム、成家班を結成したのだ。
(成家班/せいかはん → ジャッキー・チェン・スタント・チーム)
“もう、足が上がらないよ” 初代メンバーの彼。
“最初は、たった4人。4人しかいなかったんですよ。ジャッキーが自分の名が
成龍だから、成家班と呼ぶのはどうかなと聞いて来て、みんな、それがいいね
となりました。漢字だと、家を成すと書くから、みんなで家族になろうという意味
もあるんですよ” ジャッキーは、この時の喜びを、こんな風に言っている。
‘少林寺木人拳は、ある意味では、僕の最初の夢の映画だった’
もう、迷いはなかった。 ジャッキーは決断をする。 ブルースとは真逆の事を
やろう。 ブルースの映画では、主人公は最初から超人的な拳法の達人。
その設定を変える事から始めた。 1978年に作られた、蛇拳(じゃけん)。
ジャッキー演じる主人公は、強くなりたいと思っている、ごく普通の若者だ。
映画では弱かったその青年が風変わりな師匠に鍛えられ、次第に強くなって
行く。 等身大の若者が成長して行く姿に、人々は大いに勇気づけられた。
更にジャッキーの挑戦は続く。 ブルースが映画の中で繰り出すのは、一撃
必殺の力強い技。 そのイメージを払拭するため、ヒントにしたものがある。
ジャッキーが子供の頃、習っていた京劇だ。
“京劇を習った人の動きは、とてもキレイです。宙返りなどの動きもあって、
それを映画の中に取り入れたんです”
アクロバティックな動きは、ブルースの映画には、あまりなかったものだ。
こうした連続した技を華麗に見せるには、これまで以上に相手と息を合わせる
必要があった。
‘全てのアクションを、リアルに見せるよう心掛けています。実際に、パンチや
キックを受けると、体に響くよね。でも、パンチやキックがリアルに見えないと、
最近の観客は納得してくれないんです’
“本当に殴られる事もありました。口の中に綿を入れて…こんな風に、実際に
殴るんです。すごく痛いですよ。だから、ジャッキーの映画にはパワーがある”
撮影中、実際に攻撃が当たって、ジャッキーの前歯が折れた事も。 それでも
撮影は続けられた。 そして最大の挑戦が、ブルースのシリアス路線からの
脱却だった。 その解決策は…。 “ほら、この写真ですよ”
ジャッキーのキャラクターを、前面に押し出す事だった。 これは撮影の合間に
撮られた、スナップ写真。 普段から明るく、笑顔を絶やさない性格だという。
“一緒にシャワーを浴びた後、ジャッキーは、よくみんなの髪を乾かしてくれる
んですが、気が付くと、みんな彼と同じ髪形にされてしまうんだ。ジャッキーが
龍なら、傍らにいる私は虫くらいかなって、そんな冗談を、よく言ってました。
ユーモアのある人だから、そんな役を演じるのが好きでしたね”
そして、ついに、それまでの常識を覆す、全く新しいカンフー映画が生まれる。
酔拳(すいけん)。 酔えば酔うほど強くなる、不思議な拳法。 そのトリッキーな
動きを、見事に表現した。 コメディーの要素も、ふんだんに取り入れられた。
観客を何より驚かせたのは、このコミカルさとアクションを融合させた事だ。
こんなカンフー映画は、見た事がなかった。 映画館は連日、大盛り上がり。
束の間、日頃の苦しさを忘れるには、もって来いの映画だった。 これこそ、
香港の人々が待ち望んだ娯楽映画。 新しいヒーローの登場に人々は熱狂した。
‘それまでは、みんなブルースを求めてたけど、酔拳の成功が、それを止め、
流れを変えたんだ。ただ今度は、みんなが酔拳を真似し始めたけどね’
ジャッキーは後に、こう語っている。 ‘この映画は僕の全てを永久に変えた’
この男の辞書に恐怖という文字はないのか? 危険なスタントも、何のその、
全ては観客を楽しませるため。 その驚異的なアクションの数々に世界は熱狂
した。 その男の名は… アジアが生んだスーパースター、ジャッキー・チェン。
巨大なネオン看板、密集する高層ビル。 おもちゃ箱をひっくり返したような街
ともいわれる香港。 この混沌とした街を世界に知らしめ、まさに香港の象徴と
なったのが、ジャッキー・チェンでした。 肉体の限界に挑んだアクション。
観客は、その迫力と美しさに酔いしれました。デビューから40年以上、第1線を
走り続け、出演作は100本を超えます。 世代ごとに心に残る、それぞれの
ジャッキーがいる事でしょう。 私のお気に入りは、やっぱり、酔拳ですね!
カンフー映画、酔拳(1978年)。 ジャッキーの名を、一躍有名にした出世作だ。
人気の秘密は、人間業とは思えない、スピーディーなアクション。 そして愛嬌
たっぷりの笑顔と、子供も楽しめるユーモア。
“ジャッキーは私の恋人よ!でも彼は、私を知らないから悲しいわ!”
“力も強いのに面白しろくて可愛いところ” “ジャッキー大好き!カッコイイ!”
人種も年齢も関係なく愛され続ける、ジャッキー・チェン。 かつてジャッキーは
こんな事を語っている。
‘世界を相手に生きて行くのだという精神が、香港という土壌で自然に養われ
ていたのかも知れません’
ジャッキーは、まさに、香港が一番輝き、エネルギッシュだった時代に現れた
スターだった。 その心意気が凝縮されたのが、プロジェクトAだ。(1983年)
そこには、苦楽を共にして来た仲間たちだからこそ知る驚きの真実があった。
“今まで黙ってた事がある。ジャッキーの名誉に関わるからね!”
運命の分岐点は、1978年3月。 この時を境に、ジャッキーは一躍、香港の
大スターとなりました。 蛇拳、酔拳、笑拳が立て続けに公開され、ジャッキー
旋風が巻き起こったのです。突如、現れたスターに香港の人々は驚きました。
というのも、それまでジャッキーが主演した映画は、全くヒットせず大コケ男優
という、不名誉なあだ名まで付けられていたのです。
一体、なぜ、ジャッキーは、大スターになれたのか?
第1の視点は、ジャッキー本人です。 実はジャッキーは、ある男の幻影に苦し
められていたのです。 その人物とは?
笑顔の裏に隠された、スターの挫折と挑戦のアナザーストーリー。
ジャッキーが若い頃、人気がなかったのは、ある男が深く関係していた。
香港が誇る伝説のスター、ブルース・リーだ。 あまりに大きい、その存在が
ジャッキーを苦しめた。若き日のジャッキーが主演した、この映画を見てほしい。
演じたのは笑顔を封印した格闘の鬼。 (レッド・ドラゴン新・怒りの鉄拳/1976)
ブルース・リーのコピーにすぎなかった。
‘ブルースが成功すると、ブルース何とかという役者が次々と現れ、みんなが
真似をしたんだ’ ブルースの呪縛を、一体、どうやって乗り越えたのか?
ジャッキーとブルースの因縁は、1本の映画から始まる。 ドラゴン怒りの鉄拳。
当時、17歳だったジャッキーは、この映画に出演していた。 とはいっても、
顔も出なければ、名前もない、しがないスタントマンだった。
‘最初、僕は全くカンフースターになろうなんて思っていませんでした。もともと
ただ、好きなカンフーで、何か仕事ができれば十分だと思っていたのです’
(21世紀の君たちへ より)
トップスターと下っ端。 普通なら接点はない。 ところがジャッキーは、ある
大事なスタントに抜擢される。 それが、このシーンだ。 ブルースの飛び蹴りで
豪快に吹き飛ばされるジャッキー。 その距離は、6メートルにも及んだ。
この映画に、同じスタントマンとして参加していたのが、ジャッキーの親友だ。
“あのカットは広い画なのでスタントマンは長い距離、吹き飛ばされなければ
ならなかった。ジャッキーにはワイヤーがつけられ、そのワイヤーを持った人が
高い台の上から飛び降り、一気に引っ張った。そして、すぐにワイヤーを離した
から、ジャッキーは思い切り地面にたたきつけられたんだ。誰だって、ウッ…て
なりますよ” まさに命懸け。 ジャッキーは全身に痛みが走り、気絶した。
皆が心配するなか、ようやく気が付くと、ブルースが笑顔で声を掛けて来た。
‘すごく良かった’ ジャッキーにとって、忘れられない出来事となった。
そもそもジャッキーの人生には、香港という街の歴史が深く関係していた。
1954年、ジャッキーは生まれた。 本名は、港生(コンサン)。 香港で生まれた
事を意味する名だ。 当時、香港はイギリスの植民地だった。
隣には、建国されたばかりの中華人民共和国。 そこから逃れて来た多くの
難民で、ごった返していた。 ジャッキーの父親も、その1人。
どこにも頼る当てもなく、貧しかった。 7歳の時、そんな父親が職を失う。
住む場所さえなくなった。 そのためジャッキーは親元を離れ、京劇の劇団に
預けられる。 朝から晩まで、曲芸や武術を厳しく、たたき込まれた。
苦しい修行生活は10年も続いた。 しかし、せっかく身につけた伝統芸能は
下火で仕事はなかった。 そこでジャッキーが選んだのが映画。 ブルースの
登場で活気づく映画界に将来を賭けたのだ。
香港のスタントマン総出で作られたという、燃えよドラゴン(1973年)。 もちろん
ジャッキーも出演。 一瞬だが、顔出しでブルースとの共演を果たす。 前途
洋々に思われた。 ところが… ブルースが突然、亡くなったのだ。(享年32)
“本当に驚きました。ブルースが亡くなるなんて、考えた事もありませんでした
から。香港の映画界は死んだようになってね。ブルース・リーという大黒柱を
失ってどんな映画を作ればいいのか分からなくなったんです。そして小難しい
芸術映画が作られましたが、そんな気取った映画は、誰も見に行きませんよ”
映画は貧しかった香港の人々にとって特別なものだった。 映画監督の彼は
当時の映画館の熱気を、今もよく覚えている。
“香港人には、エンターテイメントが必要なんだ。特に映画は、僅かなお金で
夢の様な世界を見せてくれるからね。仕事のストレスや貧しさを抱えていても
2時間の映画を見て笑ったりスカッとできれば、全ての悩みを忘れ、また明日
から頑張れるんだ”
焦ったプロデューサーたちは、第2、第3のブルースを登場させた。 しかし、
いくら名前を似せても、所詮は、ものまね。 映画は当然ヒットせず、事態を
悪化させるだけだった。 そんな中、ジャッキーのもとにも連絡が入る。
映画の主演をやってみないか? ドラゴン怒りの鉄拳の続編を作るという。
あの映画でジャッキーが見せた、命懸けのスタントが高く評価されたのだ。
監督は、ロー・ウェイ。 ブルースと一緒に数々のヒット作を作った巨匠だった。
ジャッキーは、監督に意気込みを、こう語った。
‘チャンスがあれば、最高の俳優にだってなれると思います’
新・怒りの鉄拳。ジャッキーはこの作品で初めて成龍(せいりゅう)と名乗った。
成功してスターになるという意味だ。 だが、現実は甘くはなかった。 監督が
求めたのは、ブルースそっくりの演技。
ジャッキーは、要求に必死に応えようとした。 でも、ブルースとは顔つきから
何から違う。 ロー監督から、幾度となく怒りをぶつけられた。 どんなに頑張
っても、結局は2番煎じ。 撮影は、苦痛でしかなかった。
笑う事も許されず、ブルースの幻影が、ジャッキーの個性を殺して行った。
ジャッキーは自伝の中で、当時の事を、こんな風に回想している。
‘役者たちが、ロー・ウェイ大監督は何を考えてるのかね。この男の、どこが
いいんだろう。しかも成龍なんて笑わせる。こんなヤツに金をかけるのは金の
無駄だよ。などと言っている。聞きながら、涙がポロポロと落ちて来た’
結局、映画はヒットしなかった。 その後も、似たような映画に出たが、惨敗に
次ぐ惨敗。 大コケ男優と、揶揄されるまでになった。
‘僕は耐えられない。気が狂いそうだ’ そんなジャッキーに転機が訪れる。
少林寺木人拳(もくじんけん)に出演した時の事だ。 監督は30歳の駆け出しの
男性だった。 彼はジャッキーの意見をよく聞き、映画に積極的に取り入れた。
“ジャッキーは、動きが美しいアクションをやりたいと言って来ました。ちょっと
見せてもらったら、すごくいい。他にもない?もっと出来るだろ?と言うと、彼は
次々にアイデアを出してくるんです”
監督と自由に意見を言い合えた事が、ジャッキーの良さを引き出して行く。
“ジャッキーの印象は、とにかく若くてパワフル。ジッとしていられず動き回って
いましたね。彼も私も、この映画を今までにないカンフー映画にしようと思って
いて、体力もありました。だから、彼のスピーディーな動きや技のキレを、どん
どん映画の中に取り入れる事にしました”
そうして生まれたシーンの1つが、これだ。 流れるような動きの中で、次々と
繰り出される技。そこには、これまで見た事のないカンフーの美しさがあった。
“撮影は大変でした。何度も失敗して、NGが30回なんて事もありました。でも
ジャッキーは挑戦し続けたんです。アクションで少しぐらい傷ついても、不平
ひとつ、こぼしませんでした。私たちは、新しいチャレンジが大好きで、撮影の
休憩時間でも、どうすれば、もっと面白くなるか?ずっと話していましたね”
ジャッキーは、映画を作る楽しさを知った。 そして、もう1つ、大きな収穫。
この映画で知り合った仲間と専属のスタントチーム、成家班を結成したのだ。
(成家班/せいかはん → ジャッキー・チェン・スタント・チーム)
“もう、足が上がらないよ” 初代メンバーの彼。
“最初は、たった4人。4人しかいなかったんですよ。ジャッキーが自分の名が
成龍だから、成家班と呼ぶのはどうかなと聞いて来て、みんな、それがいいね
となりました。漢字だと、家を成すと書くから、みんなで家族になろうという意味
もあるんですよ” ジャッキーは、この時の喜びを、こんな風に言っている。
‘少林寺木人拳は、ある意味では、僕の最初の夢の映画だった’
もう、迷いはなかった。 ジャッキーは決断をする。 ブルースとは真逆の事を
やろう。 ブルースの映画では、主人公は最初から超人的な拳法の達人。
その設定を変える事から始めた。 1978年に作られた、蛇拳(じゃけん)。
ジャッキー演じる主人公は、強くなりたいと思っている、ごく普通の若者だ。
映画では弱かったその青年が風変わりな師匠に鍛えられ、次第に強くなって
行く。 等身大の若者が成長して行く姿に、人々は大いに勇気づけられた。
更にジャッキーの挑戦は続く。 ブルースが映画の中で繰り出すのは、一撃
必殺の力強い技。 そのイメージを払拭するため、ヒントにしたものがある。
ジャッキーが子供の頃、習っていた京劇だ。
“京劇を習った人の動きは、とてもキレイです。宙返りなどの動きもあって、
それを映画の中に取り入れたんです”
アクロバティックな動きは、ブルースの映画には、あまりなかったものだ。
こうした連続した技を華麗に見せるには、これまで以上に相手と息を合わせる
必要があった。
‘全てのアクションを、リアルに見せるよう心掛けています。実際に、パンチや
キックを受けると、体に響くよね。でも、パンチやキックがリアルに見えないと、
最近の観客は納得してくれないんです’
“本当に殴られる事もありました。口の中に綿を入れて…こんな風に、実際に
殴るんです。すごく痛いですよ。だから、ジャッキーの映画にはパワーがある”
撮影中、実際に攻撃が当たって、ジャッキーの前歯が折れた事も。 それでも
撮影は続けられた。 そして最大の挑戦が、ブルースのシリアス路線からの
脱却だった。 その解決策は…。 “ほら、この写真ですよ”
ジャッキーのキャラクターを、前面に押し出す事だった。 これは撮影の合間に
撮られた、スナップ写真。 普段から明るく、笑顔を絶やさない性格だという。
“一緒にシャワーを浴びた後、ジャッキーは、よくみんなの髪を乾かしてくれる
んですが、気が付くと、みんな彼と同じ髪形にされてしまうんだ。ジャッキーが
龍なら、傍らにいる私は虫くらいかなって、そんな冗談を、よく言ってました。
ユーモアのある人だから、そんな役を演じるのが好きでしたね”
そして、ついに、それまでの常識を覆す、全く新しいカンフー映画が生まれる。
酔拳(すいけん)。 酔えば酔うほど強くなる、不思議な拳法。 そのトリッキーな
動きを、見事に表現した。 コメディーの要素も、ふんだんに取り入れられた。
観客を何より驚かせたのは、このコミカルさとアクションを融合させた事だ。
こんなカンフー映画は、見た事がなかった。 映画館は連日、大盛り上がり。
束の間、日頃の苦しさを忘れるには、もって来いの映画だった。 これこそ、
香港の人々が待ち望んだ娯楽映画。 新しいヒーローの登場に人々は熱狂した。
‘それまでは、みんなブルースを求めてたけど、酔拳の成功が、それを止め、
流れを変えたんだ。ただ今度は、みんなが酔拳を真似し始めたけどね’
ジャッキーは後に、こう語っている。 ‘この映画は僕の全てを永久に変えた’
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