2021年11月18日 (木) | 編集 |
FC2トラックバックテーマ:「あなたが冬を感じる瞬間はいつですか?」
女子高校生がキレッキレに踊り、話題になったバブリーダンス。その原型は…
1990年代初め、大ブレイクしたディスコ JULIANA'S TOKYO (ジュリアナ東京)
お立ち台で一心不乱に踊る、ボディコン女性たち。
この大盛り上がりは、一体、何だったのか?
ジュリアナ東京の閉店は、バブルが跡形もなく消え去った証しでした。 あの
時代の異様な熱気は、何だったのでしょうか?
それを、こんな風に読み解いた人がいました。
‘泡にストロー突きさせば、苦くてまずいゼニの味’
‘空車あれども乗せてもらえず、銀座花金タクシー事情’
そして、ジュリアナ東京については…。
‘踊る阿呆に見る阿呆、パンツに散った狂乱の宴’
第3の視点は、独特の切り口でバブル崩壊前後の世相を見たジャーナリスト。
実は、ジュリアナ東京のライバル店のコンセプトデザインを手掛けていました。
バブルの観察者が見抜いた、ジュリアナ東京のアナザーストーリーです。
現代史を、あたかも考古学の遺跡のように掘り起こす。それがジャーナリスト
の手法だ。 エッセイスト・写真家・編集者、多彩な顔を持つ彼は、これまで
独特の切り口で現代史を発掘して来た。
“ジュリアナは出会いの場。昔から祭りって、そうじゃないですか。夏祭りで
みんなが盆踊り踊ってる間に、できちゃった男女が草むらの中に消えて行く
みたいな。ああいう感じがしましたね。それの現代版ってう”
バブルの熱狂を、さめた目で観察した男は、ジュリアナ東京で何を掘り出した
のか?ジュリアナ東京がオープンするより前、男性向け雑誌の編集者だった。
同じ芝浦で、ライバル店のコンセプトデザインを手掛けた事がある。
“僕は雑誌の編集者で、ディスコ担当みたいになっていたので仲良くなって。
で、それから海外取材とかも多かったので、今あっちで、どんなの流行ってる
みたいな話しをするようになって、それから新しい店舗をつくるんだけど、どう
いうのがいいかなみたいな相談を受けるようになって、ホントゆるい形の空間
プロデュースみたいなのを…”
そして、できたのが1989年11月。 GOLD(ゴールド)というクラブ系のディスコ。
後に登場するジュリアナ東京とは、運河を挟んで向き合う形になった。
彼が関与したゴールドのコンセプトは、ジュリアナ東京とは全く違っていた。
大箱1つで勝負したジュリアナに対し、ゴールドは、ビルの1階から7階までを
使い、それぞれ趣の違う空間に仕立てた。
お立ち台などは、もちろんなかった。 客層は音楽・ファッション関係を中心に
いわゆるクロウトが多かった。
“やっぱり、客層がものすごく違いましたよね。ジュリアナは健全とは言いませ
んけれども、昼間は、ちゃんと、お勤めしている人たちとか、学生の人たち、
一般の方たちが気軽に遊びに来れるような…”
彼はジュリアナ出現当時、ある取材をしている。 バブル崩壊の前後、東京に
暮らす若者たちのリアルな居住空間をカメラに収めたのだ。
バブルの嵐は、海の上でこそ吹き荒れたが、波の下には、そんなものとは
無関係に、常と変らぬ精一杯の暮らしが続いていた。 ジュリアナ東京に足を
運んだ若者たちの多くも、こうした部屋で日々を生きていたのだろう。
“みんな、そんなお金は使ってなかったと思うので。洋服だって…もちろん、
高い洋服もあったけど、そんなの買える子ばっかりじゃないので、安いのを…
例えば水着とか、極端に言えば。そういうのを自分たちでアレンジしてセクシー
にしてみたりとかするし。飲み放題、食べ放題みたいなの基本でしたから。
だから…昔のディスコはすごい安上りの遊び場でしたよね…”
当時、1人暮らしをして、毎週末、ジュリアナに通った、フィットネスクラブに勤め
ていた彼女も…。
“ボディコン自体は、そんなには高級なものではなかったので、多分1万円
ちょっと、2万円弱な感じだったかと思います”
周りの友人たちも、自分と同じような境遇だったという。
“私が感じたのでは、その変わってる子たちとか目立ち過ぎちゃってる子たち
っていうのは数人で…さびしがり屋な子が週末出て来て、友達と触れ合ったり
話したり…ホントに、そういう子たちが多かったように感じます”
実は、彼女を撮った、この写真、くしくも今はジャーナリストの手元にある。
当時の人気男性誌スコラの編集者が、全国各地のディスコを取材して撮りた
めた膨大な量のフィルムだ。
“これがね、当時の…ジュリアナとか色んなディスコの取材で撮られた写真が
今、うちでお預かりしているやつですね”
3年前、これを見たジャーナリストが資料的価値に目を留め、発表の機会を
うかがいながら保管して来た。 彼女以外にも数多くのボディコン女性たちの
艶姿があった。
“展覧会とか、本とか作りたいなと思いながら、今ここで、まだ収蔵してるって
感じですね。東京だけじゃなくて、地方のディスコも結構、巡ってらっしゃった
みたいなので、そういうものも、ちゃんと…ちゃんと見れて、すごく、ホントに
貴重なビジュアルの財産だと思うんですよね”
ジャーナリストの彼にフィルムを託した、当時の人気男性誌スコラの編集者。
東京だけでなく、地方のディスコを取材するうちに、気付いた現象があった。
“四国の松山とか福岡とか、より過激になっていて驚きましたね。完全に水着
に近いですね。ここはプールじゃないんですよ”
地方の方が、より過激化する現象。 それには、あの女王さえ度肝を抜かれた
という。
“過激です。もう胸にニップレスじゃなくて文房具のバラのシール貼ってるだけ
とか。平らなシールだから、ペコッて浮いてきちゃうじゃん。円すい形になって
ないから。で、下、紐みたいなのだけとかで。それで仕事、何やってるの?て
聞いたら、幼稚園の先生ですとか、保険のセールスレディですとか。 みんな
普通に堅気の人なんですよ。紐とシールだけみたいな。え?みたいな”
地方に飛び火し、燃え盛ったジュリアナ現象。 その理由を、ジャーナリストは
こう分析している。
“今だったらSNSで真実が瞬時に伝わって行くので、地方の時間差ってない
ですよね。文化の。そういう文化の時間差があった時代なので、深夜番組で
今、東京はこんな事になっている、みたいなのが、わい曲とは言わないけど、
大げさにやられると今度は、それを地方の人たちが見て、東京は、こんなんに
なっているんだったら頑張らないと、という感じでジュリアナやマハラジャの
過激版みたいなのが地方に出来て行く”
ジャーナリストは、著書の中でも、こう書いている。
‘マスコミは、その狂態ばかりを、おもしろおかしく報道していたが、
いまとなっては、地方へ行けば行くほど、がんじがらめの男性社会の中で
ストレスに押し潰されかけた女の子たちの、それが束の間の暴発であった
事が、よく分かる’ (バブルの肖像より)
ジャーナリストは、日本各地のこれらの写真で、いつか展覧会を開きたいと
企てている。
“変な格好をしていた時代が、あったっていうのじゃない事を、やりたい。ひと
言で言えば、多幸感なんですよ。多い幸せの感覚ね。その多幸感を与えて
くれる場所が、今ない。ゼロだと思うので…ハッピーでしたもんね”
バブルがはじけ去った時代、沈みゆく太陽の残照の様に、かりそめの多幸感
をもたらして消えた、ジュリアナ東京。
今こそ、そんな祭りの場が必要ではないかと、ジャーナリストは考えている。
“集まってワーッと騒げて、一瞬、自分を開放したり、ストレスを解消したりって
いうフィジカルな場がない。だから、渋谷のハロウィンとかで爆発する。だから
祭りの場を作って来なかったというか潰していった大人の罪だと思いますね”
バブルの、あだ花。 ジュリアナ東京は、よく、そんな言葉で語られます。 でも
本当にそうでしょうか? そこへ足を運んだ女性たち。 おもてなしに心を尽く
したスタッフたち。 怪しいウワサも流れ、さまざまなバッシングもありました。
けれど、そこは、集まった人たちが、しばし日常を忘れて楽しめる魔法の空間
であった事は確かです。
ジュリアナ東京のあった芝浦で、今、暮らしている女性たちに聞いた。
Q: ジュリアナ東京に行きたかった?
当時、小学生 “行ける年齢だったら行きたかったです。何も考えずに、楽しく
踊れるみたいな、そんなところが”
当時、高校生 “行きたいっていう、多分、高校生の時に憧れはあったと思い
ます。流行の最先端が、そこにあるみたいな感じですかね”
女子高校生がキレッキレに踊り、話題になったバブリーダンス。その原型は…
1990年代初め、大ブレイクしたディスコ JULIANA'S TOKYO (ジュリアナ東京)
お立ち台で一心不乱に踊る、ボディコン女性たち。
この大盛り上がりは、一体、何だったのか?
ジュリアナ東京の閉店は、バブルが跡形もなく消え去った証しでした。 あの
時代の異様な熱気は、何だったのでしょうか?
それを、こんな風に読み解いた人がいました。
‘泡にストロー突きさせば、苦くてまずいゼニの味’
‘空車あれども乗せてもらえず、銀座花金タクシー事情’
そして、ジュリアナ東京については…。
‘踊る阿呆に見る阿呆、パンツに散った狂乱の宴’
第3の視点は、独特の切り口でバブル崩壊前後の世相を見たジャーナリスト。
実は、ジュリアナ東京のライバル店のコンセプトデザインを手掛けていました。
バブルの観察者が見抜いた、ジュリアナ東京のアナザーストーリーです。
現代史を、あたかも考古学の遺跡のように掘り起こす。それがジャーナリスト
の手法だ。 エッセイスト・写真家・編集者、多彩な顔を持つ彼は、これまで
独特の切り口で現代史を発掘して来た。
“ジュリアナは出会いの場。昔から祭りって、そうじゃないですか。夏祭りで
みんなが盆踊り踊ってる間に、できちゃった男女が草むらの中に消えて行く
みたいな。ああいう感じがしましたね。それの現代版ってう”
バブルの熱狂を、さめた目で観察した男は、ジュリアナ東京で何を掘り出した
のか?ジュリアナ東京がオープンするより前、男性向け雑誌の編集者だった。
同じ芝浦で、ライバル店のコンセプトデザインを手掛けた事がある。
“僕は雑誌の編集者で、ディスコ担当みたいになっていたので仲良くなって。
で、それから海外取材とかも多かったので、今あっちで、どんなの流行ってる
みたいな話しをするようになって、それから新しい店舗をつくるんだけど、どう
いうのがいいかなみたいな相談を受けるようになって、ホントゆるい形の空間
プロデュースみたいなのを…”
そして、できたのが1989年11月。 GOLD(ゴールド)というクラブ系のディスコ。
後に登場するジュリアナ東京とは、運河を挟んで向き合う形になった。
彼が関与したゴールドのコンセプトは、ジュリアナ東京とは全く違っていた。
大箱1つで勝負したジュリアナに対し、ゴールドは、ビルの1階から7階までを
使い、それぞれ趣の違う空間に仕立てた。
お立ち台などは、もちろんなかった。 客層は音楽・ファッション関係を中心に
いわゆるクロウトが多かった。
“やっぱり、客層がものすごく違いましたよね。ジュリアナは健全とは言いませ
んけれども、昼間は、ちゃんと、お勤めしている人たちとか、学生の人たち、
一般の方たちが気軽に遊びに来れるような…”
彼はジュリアナ出現当時、ある取材をしている。 バブル崩壊の前後、東京に
暮らす若者たちのリアルな居住空間をカメラに収めたのだ。
バブルの嵐は、海の上でこそ吹き荒れたが、波の下には、そんなものとは
無関係に、常と変らぬ精一杯の暮らしが続いていた。 ジュリアナ東京に足を
運んだ若者たちの多くも、こうした部屋で日々を生きていたのだろう。
“みんな、そんなお金は使ってなかったと思うので。洋服だって…もちろん、
高い洋服もあったけど、そんなの買える子ばっかりじゃないので、安いのを…
例えば水着とか、極端に言えば。そういうのを自分たちでアレンジしてセクシー
にしてみたりとかするし。飲み放題、食べ放題みたいなの基本でしたから。
だから…昔のディスコはすごい安上りの遊び場でしたよね…”
当時、1人暮らしをして、毎週末、ジュリアナに通った、フィットネスクラブに勤め
ていた彼女も…。
“ボディコン自体は、そんなには高級なものではなかったので、多分1万円
ちょっと、2万円弱な感じだったかと思います”
周りの友人たちも、自分と同じような境遇だったという。
“私が感じたのでは、その変わってる子たちとか目立ち過ぎちゃってる子たち
っていうのは数人で…さびしがり屋な子が週末出て来て、友達と触れ合ったり
話したり…ホントに、そういう子たちが多かったように感じます”
実は、彼女を撮った、この写真、くしくも今はジャーナリストの手元にある。
当時の人気男性誌スコラの編集者が、全国各地のディスコを取材して撮りた
めた膨大な量のフィルムだ。
“これがね、当時の…ジュリアナとか色んなディスコの取材で撮られた写真が
今、うちでお預かりしているやつですね”
3年前、これを見たジャーナリストが資料的価値に目を留め、発表の機会を
うかがいながら保管して来た。 彼女以外にも数多くのボディコン女性たちの
艶姿があった。
“展覧会とか、本とか作りたいなと思いながら、今ここで、まだ収蔵してるって
感じですね。東京だけじゃなくて、地方のディスコも結構、巡ってらっしゃった
みたいなので、そういうものも、ちゃんと…ちゃんと見れて、すごく、ホントに
貴重なビジュアルの財産だと思うんですよね”
ジャーナリストの彼にフィルムを託した、当時の人気男性誌スコラの編集者。
東京だけでなく、地方のディスコを取材するうちに、気付いた現象があった。
“四国の松山とか福岡とか、より過激になっていて驚きましたね。完全に水着
に近いですね。ここはプールじゃないんですよ”
地方の方が、より過激化する現象。 それには、あの女王さえ度肝を抜かれた
という。
“過激です。もう胸にニップレスじゃなくて文房具のバラのシール貼ってるだけ
とか。平らなシールだから、ペコッて浮いてきちゃうじゃん。円すい形になって
ないから。で、下、紐みたいなのだけとかで。それで仕事、何やってるの?て
聞いたら、幼稚園の先生ですとか、保険のセールスレディですとか。 みんな
普通に堅気の人なんですよ。紐とシールだけみたいな。え?みたいな”
地方に飛び火し、燃え盛ったジュリアナ現象。 その理由を、ジャーナリストは
こう分析している。
“今だったらSNSで真実が瞬時に伝わって行くので、地方の時間差ってない
ですよね。文化の。そういう文化の時間差があった時代なので、深夜番組で
今、東京はこんな事になっている、みたいなのが、わい曲とは言わないけど、
大げさにやられると今度は、それを地方の人たちが見て、東京は、こんなんに
なっているんだったら頑張らないと、という感じでジュリアナやマハラジャの
過激版みたいなのが地方に出来て行く”
ジャーナリストは、著書の中でも、こう書いている。
‘マスコミは、その狂態ばかりを、おもしろおかしく報道していたが、
いまとなっては、地方へ行けば行くほど、がんじがらめの男性社会の中で
ストレスに押し潰されかけた女の子たちの、それが束の間の暴発であった
事が、よく分かる’ (バブルの肖像より)
ジャーナリストは、日本各地のこれらの写真で、いつか展覧会を開きたいと
企てている。
“変な格好をしていた時代が、あったっていうのじゃない事を、やりたい。ひと
言で言えば、多幸感なんですよ。多い幸せの感覚ね。その多幸感を与えて
くれる場所が、今ない。ゼロだと思うので…ハッピーでしたもんね”
バブルがはじけ去った時代、沈みゆく太陽の残照の様に、かりそめの多幸感
をもたらして消えた、ジュリアナ東京。
今こそ、そんな祭りの場が必要ではないかと、ジャーナリストは考えている。
“集まってワーッと騒げて、一瞬、自分を開放したり、ストレスを解消したりって
いうフィジカルな場がない。だから、渋谷のハロウィンとかで爆発する。だから
祭りの場を作って来なかったというか潰していった大人の罪だと思いますね”
バブルの、あだ花。 ジュリアナ東京は、よく、そんな言葉で語られます。 でも
本当にそうでしょうか? そこへ足を運んだ女性たち。 おもてなしに心を尽く
したスタッフたち。 怪しいウワサも流れ、さまざまなバッシングもありました。
けれど、そこは、集まった人たちが、しばし日常を忘れて楽しめる魔法の空間
であった事は確かです。
ジュリアナ東京のあった芝浦で、今、暮らしている女性たちに聞いた。
Q: ジュリアナ東京に行きたかった?
当時、小学生 “行ける年齢だったら行きたかったです。何も考えずに、楽しく
踊れるみたいな、そんなところが”
当時、高校生 “行きたいっていう、多分、高校生の時に憧れはあったと思い
ます。流行の最先端が、そこにあるみたいな感じですかね”
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