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圧倒的な存在感を示したジュリアナ東京の華やかなステージの下では?
2021年11月17日 (水) | 編集 |
FC2トラックバックテーマ:「あなたが冬を感じる瞬間はいつですか?」
女子高校生がキレッキレに踊り、話題になったバブリーダンス。その原型は…
1990年代初め、大ブレイクしたディスコ JULIANA'S TOKYO (ジュリアナ東京)
お立ち台で一心不乱に踊る、ボディコン女性たち。

この大盛り上がりは、一体、何だったのか?

僅か3年半の間に強烈な印象を残した、ジュリアナ東京。 数あるディスコの
中で、なぜジュリアナは、あれほどの存在感を示す事ができたのでしょうか?
そこには、さまざまな仕掛けがありました。

1つは、ダンスフロアの大きさ。 1度に1500人以上が踊れたといいます。
そして、もう1つは音楽。 CAN'T UNDO THIS!!

ジュリアナ東京の代名詞となった、この曲がかかると、会場のボルテージは
一気に上昇しました。 そして忘れてはいけないのが、黒服と呼ばれたスタッフ
たちの行き届いた接客でした。

第2の視点は、その黒服から出発し、やがて支配人にまで上り詰めた男性。
絶頂から終焉までの一部始終を、知り尽くした人物です。

華やかなステージの下で、体を張った男のアナザーストーリー。

ジュリアナ最後の日。 スタッフを代表して客に挨拶をしたのが当時の支配人。

“ホントに盛り上がったとこなんですけどね、惜しいんですけども、今日は、
ここまでと。 これで終わりだという事になります”

彼は、ジュリアナのオープンに合わせ、黒服として呼ばれて来た。 フロアでの
接客を担当。 あの大スターたちも、もてなした。

“僕が記憶してるのは… トム・クルーズ。 でも、11半ぐらいに来て、もう
終わりって言ったら、そうか、みたいな感じで帰って行きました。 あとは…
シルベスター・スタローンは、思ったより小さかったな、みたいな。そういう事を
言ってはいけない…まぁ、Jリーガーは、当然、来てましたね。あとは…あまり
表に出してくれないでくれっていう方が、結構いたような気がしますね…”

それだけではない。 よからぬ者たちにも応対した。

“いわゆるヤクザの方…みたいな人たちが来てしまった時に、中で暴れたと
いう事から始まりまして、それを抑えるために少し乱闘みたいになってしまって
僕も止めに入る中で、いつの間にか救急車に乗っていて、入院してたという
事がありましたね…”

ジュリアナ東京の始まりから終わりまで、最前線にいた男の3年半。

高校を出て、いくつかのディスコで黒服を務めた。 ヘッドハンティングされ、
24歳でジュリアナへ。

“フロアのマネージャーを、やらせて頂きました。俗に言う、黒服だと思います。
スタッフは、ほとんど20代ですかね”

①経営陣 ②支配人・副支配人 ③マネージャー ④キャプテン・ヘッド・ウェイター
スタッフの上に、彼ら黒服と支配人。 これが直接の運営メンバー。 その上に
経営陣がいた。 開店当時、トップに君臨したのは、29歳の商社マン。
ジュリアナ東京を立ち上げた人物だ。

芝浦の倉庫会社から、空いている倉庫を有効利用したいと相談され、ディスコ
を提案した。

“バーッと倉庫の中を見たら、天井高いですし、非常に、いい感じのスペース
なんですね。大きいんですけど、大き過ぎはしない。で、山手線から1本、外に
出て、周りは倉庫街。非日常の感じがあったんです。あぁ、これは…異次元
空間だと。ディスコがいい!”

当時、芝浦は、ウォーターフロントと呼ばれ、若者たちの注目を集めていた
エリア。 ここにディスコをつくれば、必ず当たると考えた。

だが、この冒険的な企画に倉庫会社も彼の所属する商社も二の足を踏んだ。
そこで彼は、個人名義で借金をして、オープンにこぎ着けたという。

この時、店を流行らせるため、ある作戦を立てた。それが… “満員にする事”

最初から満員にする。その為オープン前から手を打った。まずはマスコミを通
じて大々的に事前PRを展開。そして配りまくったのがこの無料招待券だった。

“招待券を配っているので、月曜から1000人、入る人のうち、お金を払って
いる人は、100人くらいしかいない。招待券の人は、900人いる。だけど招待券
の人たちは、あまり期待しないで来ています。もちろん、お金を払ってる人も
ですが…月曜だから、すいているだろうぐらいな…そうしたら、ドーンと満員
じゃないですか。ビックリするわけです。ビックリした事をみんな伝搬するわけ”

口コミでウワサはウワサを呼び、10カ月後には、全て有料の客だけで満員に
なった。 更に、もう1つ、新たな客を動員する武器があった。

“何と言ってもDJがつくるライブ感を来てない人たちにも、お届けできたCD。
コンピレーション(ジュリアナ東京のヒット曲を集めた)CDが、爆発的に売れた”

ジュリアナの外国人DJ たちがかけていたのは、日本では、まだ珍しかった
最先端のテクノミュージック。 それを集めたコンピレーションCDが、シリーズ
累計220万枚の大ヒットを記録。 音楽ファンを、ジュリアナに呼び込んだ。

中でも最大のヒット曲が、CAN'T UNDO THIS!!  ここにもジュリアナ東京に
命運をかけた男がいた。 作曲者 MAXIMIZOR (マキシマイザー)。
これを皮切りに、一躍ヒットメーカーとなった。

彼はジュリアナがオープンして、すぐ、自分の作った曲を持ち込み、DJ たちに
聴かせていた。

“基本的にはというか、もちろん普通には…メロディーとしては、これだけの話
しで。こういう音を、オケヒット(オーケストラの楽器を一斉に鳴らしたような音)
で、やって行こうかなっていう風にして作って、意見をもらいに行ったら…
もっと耳にザクザク刺さるような音で、このリフレインをやってくれよという話を
受けて、いろいろ作っていって最終的に…こういう音に、色んなシンセの音も
混ぜて、あの音になったわけですね”

ディスコで流行れば曲もヒットする。 そのためには、少しでも客に受ける仕掛
けが必要だった。 彼はDJ たちから意見を聞いては、改良を重ねた。 そして
磨き上げたサウンドの上に、更に客を巻き込むカラクリを潜ませた。

ホゥ! 小気味よい、この掛け声だ。

“曲自体は、そこでブレイク(リズムの空白)を持たせて掛け声をかけると、
お客さんも、そこで盛り上がるのではないかというような形で掛け声を入れた
このホゥ!となってるところを強調させるために、リズム自体をブレイクさせて
しまうと…こういう感じになって、ホゥ!が際立つと”

耳に突き刺さるサウンド。 客を巻き込む掛け声。 この曲が、初めてフロアに
響き渡った時、作曲者とともに現場で固唾をのんで見守っていた女性がいる。

“やった~!ですよ。やった!スゴイ!って思いましたよ”

コンピレーションCDを世に出したディレクター。

“キャンキャンキャン キャキャキャ キャンキャンキャン フー!ってなった時
一瞬、みんな固まってました。フロアが。で、みんな、こんな感じで、何?何?
みたいな感じ。あまりにも刺激的だったし。で、しばらく、こう、お客さんも放心
状態が続いて、いきなりグワーってフロアが盛り上がったのを覚えてます”

“お客さんが、もうそこで一気にウォー!って。それこそ、すごい何て言うのか
一体感で。言うなれば、夏の甲子園のアルプススタンドのように、あるヒットの
カキーンと1本でフォー!って沸く、あの感じで、曲がドンッて入って、ボーン
ってなる。明らかにそこでウォーって、みんなが盛り上がれてるのが見て取れ
ましたけど”

音楽と口コミの相乗効果で、ジュリアナ東京は連日超満員のブームに乗った。
それに伴い、頻発したのが…。

“トラブルですね。あれだけ1000人単位のお客様が入って、お酒が入れば、
色んな事は起きますので。ロッカーの荷物の預かりとか、紛失とか、ほぼパンク
状態。雨が降ったら、もう大変ですね。お客様の数イコール傘ですから…”

更に、近隣からの苦情を受けて… “お巡りさんが、よく来ましたね。お前の店
どうなってる、車なんとかせーやと。もう、正直言いますと、あの辺の周辺の
道は、全て、うちのお客様だったと思います”

華やかな舞台の裏は、地味な仕事が山積みだった。 そして、彼は支配人に
抜擢された。 まだ25歳だった。

“いや、プレッシャーは相当ありました。やり甲斐もありますでしょうけど、耐え
られないプレッシャーだったと思います”

どんなトラブルでも、表に立つのが支配人。 暴力沙汰もあった。

“お客様の列を区切るための、鉄の真鍮のポールがあるんですけど、それを
振り回した人がおりまして。その中に。それと僕、多分、闘ってはいないで
しょうけど、おさえるために、やってた時に当たってしまったんですね。当然、
もう記憶がなくて血をふいて倒れたらしいんですけども。そしたら、もう病院で
クリスマスなんですね、その辺。クリスマスだったような気がします”

その時の傷が、今も残っているという。 みんなが楽しむクリスマス。 若き
支配人は、まさに、身をていしてジュリアナを守った。

だが、オープンから2年目、暗転の兆しが見え始める。 経営陣内部の対立で
創業者(29歳の商社マン)が、トップの座を去ったのだ。

“第2次…ちょうどですけども、創業者の、その仕掛けが終わってるタイミング
で…もう火がついていたのでお店が問題さえ起こさなければ勝手にお客さん
がついて来ていた”

確かに人気は衰えを知らなかったが、そこに落とし穴があった。 写真週刊誌
に突如、こんな記事が。 ジュリアナ東京に突然出た、ヘア出しギャルだ。

“実態は、私、当日いたんですけれども、まるで違いまして、通常、お店は、
夕方から夜に営業するんですけども、その前は、丸々、箱が空いているので、
いわゆるパーティー貸し、空間を使って下さいという事で、貸し出していた。
気が付いた時にはもう遅い。写真を撮ってしまった後で…カメラマンが走って
逃げたんですよ。我々も追っかけましたけども、やられてしまったと…”

新たな経営陣は、この一件に神経をとがらせ、お立ち台の撤去を決める。

“いやぁ、あれじゃあ、もう…面白くも何ともないですよね。女性的には。はい。
当然、お立ち台なくてもいけるっていう経営感覚の最後の経営者の方と、
我々は当然ダメだと。そこで仲たがいするわけですよね。やっぱり、お客様が
演出して楽しいって言ってくれる声を届けた方が、じゃあ行ってみようかなに、
なるはずなんですよ。心が動くと思うんですね。僕はそれ、間違ってないと
思っています。残念でしたね”

支配人の不安は的中した。 1度減った客足は、2度と戻らなかった。

1994年8月31日。 ジュリアナ東京、最後の日。 あれから25年。 初めて見る
あの日の自分の映像。 支配人、別れの挨拶。

‘今日は、ここまでと。 これで終わりだという事になります’

“やっぱり悲しかったと思います。あと、来ていただける方々に会えなくなるの
かなっていうのもありました。あれだけストレスのかかるものをやり遂げたのは
20代でしか出来ないんではないでしょうか。全部迎え入れて全部受け止めて
それをクリアにしたというのは、僕は…非常に、いい思い出だと思います”