2021年11月16日 (火) | 編集 |
FC2トラックバックテーマ:「あなたが冬を感じる瞬間はいつですか?」
女子高校生がキレッキレに踊り、話題になったバブリーダンス。その原型は…
1990年代初め、大ブレイクしたディスコ JULIANA'S TOKYO (ジュリアナ東京)
お立ち台で一心不乱に踊る、ボディコン女性たち。
この大盛り上がりは、一体、何だったのか?
彼女は、お立ち台の女王と、もてはやされ、他の番組や雑誌からも取材を
受けるようになった。ジュリアナのスター、彼女が売れるほど、お立ち台で踊る
女性たちに注目が集まり、それを目当てにやって来る男たちも増えた。
マスコミの追い風を受けて、ジュリアナ東京の売り上げは右肩上がりに伸びて
行った。 それまでは静かな倉庫街だった、芝浦の町。 ジュリアナ東京の
出現で、すっかり様変わりしてしまったという。
“もうこの辺は、とにかく賑やか。メインストリートで賑やかだった、その時は。
そこが入り口ですから、車がみんな、こっちへ入って来る。もう週末の金土は
ほとんど、いっぱいです。車と人と、大勢いましたね。ガードマンが、ここにいて
警察もいたりして、入り乱れですね…”
目にした車のナンバーは、東京のものだけではなかった。
“西は名古屋の方から、北の方は仙台・福島、あとは群馬とかね。群馬・埼玉
千葉・神奈川は近いから、しょっちゅう来てましたね。この周りを走ってるん
ですよ。だから、まぁ…要するにナンパっていうんですか…”
当時、ジュリアナの向かいに住んでいた男性。 ボディコン姿の女性たちの
群れを見ない日はなかった。
“駅で着替えて、駅からダーッと集団で来るんですから…すぐ近くに小学校が
あるんです。夕方ですから、小学校の児童も、その辺ウロチョロしてますし…”
女王のように脚光を浴びたわけではないが、週末、ジュリアナに通うことを
何よりの楽しみにしていた女性がいる。
インタビュー場所のホテルで待ち合わせた。 彼女は、当時21歳。 都内で
1人暮らしをしながら、フィットネスクラブの運営会社に勤めていた。
“行けている時には、毎週土日に行っていて、日曜日がレディースデーという
形で、要は無料ですよね。無料で入れて、ディスコを楽しめる日。なので…
1人暮らししている子にとっては、とっても嬉しいお話し…”
ジュリアナへ行く日は、仕事終わりでボディコンに着替えた。
“色々なパターンはありましたが、お仕事終わりで化粧室とかクロークもあった
ので、そこで支度をして、ちょっと上に羽織り物をして、何となく近くになったら
脱げるようなものを着て行く時もあれば、近所にお友達の家があったので、
そこに集合して身支度…ちょっとオシャレにしてから出掛けたりとか、ハイヒールを
多分、片手に…バックに入れて持ってたような気がします”
着飾る事、踊る事、それも楽しかったが、彼女にとって大きな楽しみは、もう
1つあった。
“仲良くなった友達が友達を連れて来て、その友達が友達を連れて来て…と
いう感じで、仕事としては、自分には全然関係のない方も多かったのですが、
弁護士秘書をやってたりとか、幼稚園の先生だったりとか、看護師さんだった
りとか、あとは普通のOLさんだったり…”
携帯電話やSNSもなかった時代。 ジュリアナへ行けば、誰かとつながれた。
この時代、働く女性達の多くは、まだ男性と同じ労働条件とは言えなかった。
1986年、職場での性差別を禁じた、男女雇用機会均等法が施行されては
いたが、女性の仕事は、お茶くみやコピーとりといった雑務も多かった。
抑圧から解放され、全てを忘れて踊りたい! ジュリアナ東京は、そんな
ニーズに応える格好の場所だった。 しかも…。
“ジュリアナは、すごく女性をノリノリにさせるのが上手というか、女性をお姫様
扱いにしてくれるのが得意だった感じがします。なので、中に入ってからも、
席を案内してくれたりとか、ドリンクを運んで来てくれたりとか…すごく気配りも
ワンランク上の対応をしてくれてたような思い出があります”
夢の空間ジュリアナ東京は、しかし、近隣住民にとっては、迷惑極まりない
場所だった。
“やっぱり、町として…1番迷惑なのは、近辺を車で走って行く人たち。騒音で
夜は寝られないわけですよね。11時、12時、1時…下手すると2時近くまで、
12時に終わって出て行くまでに時間がかかりますから、その間にグルグル
回ったり、奇声を発したり、ゴミを捨てて行きますからね。車から玄関なんかに
捨てたり、あらゆる迷惑なんですね。どれっていうか、全体に迷惑なんですよ”
Q: それじゃあ、警察に苦情は言いましたか?
“それは、もう。迷惑のかかる範ちゅうの人たちは、110番、全部して下さいと。
そうするとパトカーが来て、ちょっと整理してくれるのですけど。だけど整理って
もう、そこら中にいますからね。1台ぐらいじゃ、ちょっと無理なんですよね…”
住民からの苦情を受けて警察が乗り出す。 露出過剰なボディコンについても
過激化し、公序良俗を乱す、ストリップまがいの衣装だという指摘に、店側の
姿勢が揺らいだ。
“ジュリアナ自体が営業停止になっちゃう事が、やっぱり1番よくない事なので
あまり過激な子をジュリアナ自体が拒否しだした。だから一応、ボディコンは
いいんだけれど、Tバック禁止とかだったんですよ。そうすると、Tバックとか
やりたい子たちが、いるんですね。そっちの方が、もっと目立つしと…”
競い合うように過激化する女性たちの衣装。 それを食い止めるために、
店側がとった強硬手段は… ジュリアナ東京のシンボルお立ち台の完全撤去
だった。 そこはもう、誰もがヒロインになれる場所ではなくなった。(1993/12)
“お立ち台がなくなって、自然と、みんなが行かなくなった時期があって、その
頃に、やっぱり行っても、みんなと会えないという事もあったので、行かなく
なったかなと思います”
この事態に、お立ち台の女王は反発した。 低いところで踊ったって気持ち
良くない。 これじゃ、いいコは、ほかのディスコに行っちゃう。
女王の言葉通り、お立ち台の撤去後、女性たちの足は一気に遠ざかった。
店側は、急きょ、新たな、お立ち台を作ったが… そこに上がれるのは、店が
認めた女性だけに限られた。過激な衣装は消えたが、客足も戻らなかった。
女王が出入り禁止にされたのは、この時だ。 新たなお立ち台への否定的な
発言を警戒されたためだという。
“それでスポーツ新聞にボディコン出禁とかいって、私の顔写真、出ちゃって、
何で出禁なんだって話しなんですけど…ビジネス的に見て排除した方がいい
という結論だったのだからしょうがないと思って…”
この頃、世間はバブル崩壊による景気後退が加速。 ジュリアナ東京の売り
上げも、上向く事はなかった。 オープンから3年4カ月。
ジュリアナ東京の閉店が決まった。 1994年8月31日。 最後の日は、全員が
入場無料。 田町駅から、ズラリと続く過去最大の行列ができた。
取材陣の中に、お立ち台の女王もいた。
“やっぱり取材に行きましたね。写真雑誌だか何かと。でも中には入れない
ので、外でパチッと撮って帰って来た。そんなんだったと思いますけど…”
この日、女王が入れなかった店内では、最後を惜しむ人々の熱狂が最高潮に
達していた。 人々は浮かれていたが、バブルは、とっくに終わっていた。
就職氷河期という言葉が生まれたのも、この年だった。 そして、女王への
仕事の依頼もパタリと途絶えた。
“普通にOLになったり、普通のサラリーマンと結婚したりとか、そういう人生、
あると思うんですけど、OLになるったって、もう何かイロモノじゃないですか。
会社の人たち、他の部署からも好奇の目で見られるだろうし、そういうとこに
勤めるっていうのも、ちょっと自分がツライだろうなと思いますよね。だから、
就職は1回も、した事がないです…”
その後、イベントの司会業や、結婚・離婚・再婚を経験した女王。 今、婚活
トレーナーとして、ジュリアナ流の極意を伝える。 登場の仕方も…。
“こういう感じですね。来た時に、その場の空気を変えるようにっていう風に
言ってるんですけど、空気を読めないのは、三流です。空気を読んで合わせる
のは、二流です。一流っていうのは、空気を変える女です”
お立ち台の女王は、今も、したたかに生きている。
女子高校生がキレッキレに踊り、話題になったバブリーダンス。その原型は…
1990年代初め、大ブレイクしたディスコ JULIANA'S TOKYO (ジュリアナ東京)
お立ち台で一心不乱に踊る、ボディコン女性たち。
この大盛り上がりは、一体、何だったのか?
彼女は、お立ち台の女王と、もてはやされ、他の番組や雑誌からも取材を
受けるようになった。ジュリアナのスター、彼女が売れるほど、お立ち台で踊る
女性たちに注目が集まり、それを目当てにやって来る男たちも増えた。
マスコミの追い風を受けて、ジュリアナ東京の売り上げは右肩上がりに伸びて
行った。 それまでは静かな倉庫街だった、芝浦の町。 ジュリアナ東京の
出現で、すっかり様変わりしてしまったという。
“もうこの辺は、とにかく賑やか。メインストリートで賑やかだった、その時は。
そこが入り口ですから、車がみんな、こっちへ入って来る。もう週末の金土は
ほとんど、いっぱいです。車と人と、大勢いましたね。ガードマンが、ここにいて
警察もいたりして、入り乱れですね…”
目にした車のナンバーは、東京のものだけではなかった。
“西は名古屋の方から、北の方は仙台・福島、あとは群馬とかね。群馬・埼玉
千葉・神奈川は近いから、しょっちゅう来てましたね。この周りを走ってるん
ですよ。だから、まぁ…要するにナンパっていうんですか…”
当時、ジュリアナの向かいに住んでいた男性。 ボディコン姿の女性たちの
群れを見ない日はなかった。
“駅で着替えて、駅からダーッと集団で来るんですから…すぐ近くに小学校が
あるんです。夕方ですから、小学校の児童も、その辺ウロチョロしてますし…”
女王のように脚光を浴びたわけではないが、週末、ジュリアナに通うことを
何よりの楽しみにしていた女性がいる。
インタビュー場所のホテルで待ち合わせた。 彼女は、当時21歳。 都内で
1人暮らしをしながら、フィットネスクラブの運営会社に勤めていた。
“行けている時には、毎週土日に行っていて、日曜日がレディースデーという
形で、要は無料ですよね。無料で入れて、ディスコを楽しめる日。なので…
1人暮らししている子にとっては、とっても嬉しいお話し…”
ジュリアナへ行く日は、仕事終わりでボディコンに着替えた。
“色々なパターンはありましたが、お仕事終わりで化粧室とかクロークもあった
ので、そこで支度をして、ちょっと上に羽織り物をして、何となく近くになったら
脱げるようなものを着て行く時もあれば、近所にお友達の家があったので、
そこに集合して身支度…ちょっとオシャレにしてから出掛けたりとか、ハイヒールを
多分、片手に…バックに入れて持ってたような気がします”
着飾る事、踊る事、それも楽しかったが、彼女にとって大きな楽しみは、もう
1つあった。
“仲良くなった友達が友達を連れて来て、その友達が友達を連れて来て…と
いう感じで、仕事としては、自分には全然関係のない方も多かったのですが、
弁護士秘書をやってたりとか、幼稚園の先生だったりとか、看護師さんだった
りとか、あとは普通のOLさんだったり…”
携帯電話やSNSもなかった時代。 ジュリアナへ行けば、誰かとつながれた。
この時代、働く女性達の多くは、まだ男性と同じ労働条件とは言えなかった。
1986年、職場での性差別を禁じた、男女雇用機会均等法が施行されては
いたが、女性の仕事は、お茶くみやコピーとりといった雑務も多かった。
抑圧から解放され、全てを忘れて踊りたい! ジュリアナ東京は、そんな
ニーズに応える格好の場所だった。 しかも…。
“ジュリアナは、すごく女性をノリノリにさせるのが上手というか、女性をお姫様
扱いにしてくれるのが得意だった感じがします。なので、中に入ってからも、
席を案内してくれたりとか、ドリンクを運んで来てくれたりとか…すごく気配りも
ワンランク上の対応をしてくれてたような思い出があります”
夢の空間ジュリアナ東京は、しかし、近隣住民にとっては、迷惑極まりない
場所だった。
“やっぱり、町として…1番迷惑なのは、近辺を車で走って行く人たち。騒音で
夜は寝られないわけですよね。11時、12時、1時…下手すると2時近くまで、
12時に終わって出て行くまでに時間がかかりますから、その間にグルグル
回ったり、奇声を発したり、ゴミを捨てて行きますからね。車から玄関なんかに
捨てたり、あらゆる迷惑なんですね。どれっていうか、全体に迷惑なんですよ”
Q: それじゃあ、警察に苦情は言いましたか?
“それは、もう。迷惑のかかる範ちゅうの人たちは、110番、全部して下さいと。
そうするとパトカーが来て、ちょっと整理してくれるのですけど。だけど整理って
もう、そこら中にいますからね。1台ぐらいじゃ、ちょっと無理なんですよね…”
住民からの苦情を受けて警察が乗り出す。 露出過剰なボディコンについても
過激化し、公序良俗を乱す、ストリップまがいの衣装だという指摘に、店側の
姿勢が揺らいだ。
“ジュリアナ自体が営業停止になっちゃう事が、やっぱり1番よくない事なので
あまり過激な子をジュリアナ自体が拒否しだした。だから一応、ボディコンは
いいんだけれど、Tバック禁止とかだったんですよ。そうすると、Tバックとか
やりたい子たちが、いるんですね。そっちの方が、もっと目立つしと…”
競い合うように過激化する女性たちの衣装。 それを食い止めるために、
店側がとった強硬手段は… ジュリアナ東京のシンボルお立ち台の完全撤去
だった。 そこはもう、誰もがヒロインになれる場所ではなくなった。(1993/12)
“お立ち台がなくなって、自然と、みんなが行かなくなった時期があって、その
頃に、やっぱり行っても、みんなと会えないという事もあったので、行かなく
なったかなと思います”
この事態に、お立ち台の女王は反発した。 低いところで踊ったって気持ち
良くない。 これじゃ、いいコは、ほかのディスコに行っちゃう。
女王の言葉通り、お立ち台の撤去後、女性たちの足は一気に遠ざかった。
店側は、急きょ、新たな、お立ち台を作ったが… そこに上がれるのは、店が
認めた女性だけに限られた。過激な衣装は消えたが、客足も戻らなかった。
女王が出入り禁止にされたのは、この時だ。 新たなお立ち台への否定的な
発言を警戒されたためだという。
“それでスポーツ新聞にボディコン出禁とかいって、私の顔写真、出ちゃって、
何で出禁なんだって話しなんですけど…ビジネス的に見て排除した方がいい
という結論だったのだからしょうがないと思って…”
この頃、世間はバブル崩壊による景気後退が加速。 ジュリアナ東京の売り
上げも、上向く事はなかった。 オープンから3年4カ月。
ジュリアナ東京の閉店が決まった。 1994年8月31日。 最後の日は、全員が
入場無料。 田町駅から、ズラリと続く過去最大の行列ができた。
取材陣の中に、お立ち台の女王もいた。
“やっぱり取材に行きましたね。写真雑誌だか何かと。でも中には入れない
ので、外でパチッと撮って帰って来た。そんなんだったと思いますけど…”
この日、女王が入れなかった店内では、最後を惜しむ人々の熱狂が最高潮に
達していた。 人々は浮かれていたが、バブルは、とっくに終わっていた。
就職氷河期という言葉が生まれたのも、この年だった。 そして、女王への
仕事の依頼もパタリと途絶えた。
“普通にOLになったり、普通のサラリーマンと結婚したりとか、そういう人生、
あると思うんですけど、OLになるったって、もう何かイロモノじゃないですか。
会社の人たち、他の部署からも好奇の目で見られるだろうし、そういうとこに
勤めるっていうのも、ちょっと自分がツライだろうなと思いますよね。だから、
就職は1回も、した事がないです…”
その後、イベントの司会業や、結婚・離婚・再婚を経験した女王。 今、婚活
トレーナーとして、ジュリアナ流の極意を伝える。 登場の仕方も…。
“こういう感じですね。来た時に、その場の空気を変えるようにっていう風に
言ってるんですけど、空気を読めないのは、三流です。空気を読んで合わせる
のは、二流です。一流っていうのは、空気を変える女です”
お立ち台の女王は、今も、したたかに生きている。
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