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伝説のジュリアナ東京お立ち台の女王に降りかかった皮肉な運命とは?
2021年11月15日 (月) | 編集 |
FC2トラックバックテーマ:「あなたが冬を感じる瞬間はいつですか?」
女子高校生がキレッキレに踊り、話題になったバブリーダンス。その原型は…
1990年代初め、大ブレイクしたディスコ JULIANA'S TOKYO (ジュリアナ東京)
お立ち台で一心不乱に踊る、ボディコン女性たち。

この大盛り上がりは、一体、何だったのか?

バブルの時代、私は、まだ10代半ばの学生でした。 でも、大人たちの間で、
こんな言葉が流行っていたのを覚えています。

バブル流行語辞典
・アッシーくん→車で送り迎えをしてくれる男子 ・メッシーくん→食事をおごって
くれる男子 ・ミツグくん→プレゼントを貢いでくれる男子 ・花金→金曜日の
夜に遊ぶこと ・お立ち台 ・ボディコン→体のラインを強調した服 ・ワンレン
→同じ長さに切りそろえた髪型 ・オバタリアン→あつかましい中年女性
・財テク→企業や個人が本業以外に投資などで儲けること ・キープくん→
恋愛の本命ではないが候補として関係を維持する男子 ・ハウスマヌカン→
窓にスタイリングのアドバイス等をする女性販売員 ・テレクラ→電話を介して
女性との会話を斡旋する店 ・三高→高学歴・高収入・高身長の男子
・ハイレグ→脚の付け根部分を深くカットした水着や下着 ・朝シャン→朝起き
てシャンプーする ・ランバダ→まとわりつくように腰をくねらせるダンス
・プッツン→我慢の限界を超えること ・ヤンエグ→大手企業などに勤める若手
社員 ・5時から男→終業時間後に元気に遊び回る男 ・24時間タタカエマスカ
→企業戦士として猛烈に働くこと ・ソバージュ→根元から毛先まで細かく
ウェーブさせた髪型 などなど。  そして、こんな言葉もよく耳にしました。

一段高いお立ち台の上でワンレン・ボディコン姿の女性たちが、自慢のダンス
を披露。 伝説のディスコ、ジュリアナ東京で毎夜、繰り広げられた光景です。

ジュリアナ東京の熱狂。そのシンボルがお立ち台だった。数知れぬボディコン
女性たちが、この上で、男たちの視線をくぎづけにした。

豪華なインテリア。 ノリのいい音楽。 エレガントで大人っぽい雰囲気。
ここに来れば… 誰もがヒロインになれた。

当時のお立ち台の女王は、言う。
“コインロッカーが駅の所にありまして、そこに着替えを入れてるOLさんとか、
いっぱい見ました。 駅のトイレとかで着替えてたのだと思います”

料金は、男性5000円。 女性4500円でドリンク・フード付き。 連日の超満員で
年間総売上は、20億円を超えた。 なぜ、こんなにも大成功したのか?

“まぁ通常は、仕掛けて流行るというのはあるのですけど、半分は、お客様の
勝手な力ですからね。 ですから面白かったと思います。 最高に面白かった”

だが、この奇跡は、そう長くは続かなかった。

実はオープンしたのは、バブルがはじけ、日本経済が傾き始めた、1991年。
それから3年半で、ジュリアナ東京は突如閉店する。 1994年8月31日。
最後の日。 店の周りには、別れを惜しむファンたちの長蛇の列ができた。

伝説のディスコ、ジュリアナ東京は、なぜ、かくも盛り上がり、かくも早く消え
去ったのか? 運命の分岐点は、1994年8月31日。 ジュリアナ東京、閉店。
伝説のディスコの扉が閉じられた日です。

それまで、ここには、さまざまな人が出入りしていました。 黒服と呼ばれた、
接待係の従業員。 ライバル店の関係者。 そして、あのお立ち台。

ボディコンを身にまとった女性たちが、このステージ上で、男性客の視線を
集めていました。 第1の視点は、中でも、ひときわ目立つ、この女性。

お立ち台の女王。 マスコミの脚光を浴び、ジュリアナブームをけん引した
カリスマです。 けれど彼女は、なぜか最後の日、店に入る事を拒まれました。

お立ち台の女王に降りかかった、皮肉な運命のアナザーストーリーです。

“肩甲骨を、これ以上ないぐらい開いて… 両手は、こうでもいいんですけど…
こういう感じですかね。そうすると、ここのくびれが、すごく強調されると思うの
ですよね…”

かつて、お立ち台の女王と呼ばれた彼女。 今の仕事は、婚活トレーナーだ。
ジュリアナ東京に通い詰め、お立ち台に君臨したのは、30年近く前。

あの時のダンスを、もう1度、見せてくれた。

“お立ち台の下の人って、みんな私たち、お立ち台ギャルを見てるので、
見られてる側としては、ずっとこれって、見てる側が飽きるだろうなと思うから
なんか途中で、こう、決めポーズ入れてみたりとか、こういう振り付けみたいな
のとか、こういう振り付けとか、何か、あるんですよね。それを合間に、これの
合間に入れるっていうんですかね…”

このダンスで、一躍マスコミの寵児となった彼女。 だが、最後の日は…。

“やっぱり取材に行きましたね。写真雑誌だかなんかと…でも中には入れない
ので外でパチッと撮って帰って来るとか、そんなだったと思います…”

お立ち台の脚光を一身に浴びた女王は、なぜ、立ち入りを禁じられたのか?

JR山手線の田町駅。 ここから東側の埋め立て地、芝浦に向かって歩くこと
およそ800メートル。 見えて来た、この建物の1階に、かつてジュリアナ東京
があった。 エントランス部分には、今も面影が残る。

当時、レッドカーペットの奥に広がっていたのは… 広さ1200平方メートル、
1500人が踊れる広大な空間。営業時間は、夕方の5時から、夜中12時まで。
健全な大人の社交場として始まった。

この頃、女王は、イベントコンパニオンをしていた。

“コンパニオンの友達が、オーディションの帰りにディスコの招待券あるから
行かない?って言われて行ったのがジュリアナだったんですよね。ものすごい
広い、天井の高い体育館みたいなところだなと…ディスコって、そんな大箱
なかったので、それまで”

Q: お立ち台に上がったのは、いつからですか?

“初めて行った時からです。あれば上がるでしょみたいな。そこに山がある
から登るみたいな。人生って、スポット浴びる事って、そうそうないじゃないで
すか。例えば、クラシックバレエの発表会に出るとかいったって、主役とるとか
って、大変な努力じゃないですか。お立ち台、何の努力もいらないから!
お手軽にヒロイン気分が味わえます”

しかし、ただ上がればいい、というわけではない。

“私は入ってすぐ右角の所が自分のポジションにしてました。広いお立ち台の
真ん中がいいと思ってる人たちもいるんですよ。真ん中が1番偉いと思ってる
人いるんですけど、入り口からドアが開いた瞬間、右角と左角は見えるんです
よ。入って来たお客さんから。すげえ目立ってる子いるって思われたら、自分
みたいな。それもあって、そこっていう”

お立ち台を巡り、いつしか女性たちの間に、一種の階級差が生まれたという。

“ヒエラルキーがハッキリしてるので、あの世界っていうのは。三角形のトップ
の所の人たちっていうのは、ここだけで回っていて…2軍は2軍って線引きが
ハッキリしてる。お立ち台に上がれている人は、ほぼ1軍”

1軍トップだったという女王に目をつけたのは、マスコミだった。

レポーター Q: もしかして、あなたがこのディスコで初めて扇子を振った方
ではないですか?  “はい、そうです”

ジュリ扇と呼ばれる、羽根扇子。 これを使いながら踊ったのは、女王が最初
だったという。 更に… “おへその辺りまで生肉が見えるよ、みたいな…”
深夜番組に、自分から売り込んだ。

“絶対、私を連れてった方がいいですよ。私は週に3回ぐらい行ってて従業員
の動線から全てを知っているみたいな事を言ったのです。それで2週間ぐらい
したら、女王、ちょっとジュリアナ取材行くから、お前、連れてってやるから来て
って言われたから、ありがとうございますって言って、それで、そのレポートの
1回目ですね。ここはロッカールームで…当時、まだ、今ほど携帯の時代じゃ
なかったので、音が比較的静かだから電話番号交換は、ここでやるといい
ですよとか。あそこに、おしぼりボックスがあるから勝手に出してきて、お立ち
台から降りて来た女の子に、片膝をついてナンパして渡せとか。何か、それも
面白かったらしくて…”

彼女は、お立ち台の女王と、もてはやされ、他の番組や雑誌からも取材を
受けるようになった。ジュリアナのスター、彼女が売れるほど、お立ち台で踊る
女性たちに注目が集まり、それを目当てにやって来る男たちも増えた。

マスコミの追い風を受けて、ジュリアナ東京の売り上げは右肩上がりに伸びて
行った。 それまでは静かな倉庫街だった、芝浦の町。 ジュリアナ東京の
出現で、すっかり様変わりしてしまったという。