2021年05月07日 (金) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「歴史上の人物と話せるとしたら誰がいい?」
‘レジリエンス号が、舞い上がります’
‘人類が団結して、重力を振り切り、宇宙を探検します’
2020年11月。スペースX社の宇宙船クルードラゴンが、国際宇宙ステーション
に向け、打ち上げられました。
民間企業が有人宇宙開発を担う、新たな時代の幕開けです。
初めての本格的なフライトには、日本人宇宙飛行士も搭乗しました。
“本当に新しい有人飛行時代の幕開けになると思います”
“新しい時代を開いて行く力というものを、ぜひ、見ていただきたい”
今回の舞台は、宇宙飛行士たちが活動する、国際宇宙ステーションです。
2020年11月、本格的な運用の開始から、20年を迎えました。
実は、日本にとって国際宇宙ステーション計画は、技術立国としての威信を
世界に示すプロジェクトでした。
その要となったのが、さまざまな実験を行うモジュール きぼう の開発です。
有人の宇宙開発は、日本にとって、全く未知の領域。
極めて野心的な挑戦でした。
“宇宙開発は新参者なのだけど、有人宇宙の新参者なのだけど、絶対、
気概を忘れないで、日本人として絶対に、これを仕上げてやって、世界に
見せるのだと…”
しかし、厳しい安全基準が、高い壁となって立ちはだかります。
更に、不測の事態も発生。 (2003年2月/コロンビア号空中分解事故)
宇宙ステーション建設に欠かせないスペースシャトルが、空中分解を起こした
のです。 建設は中断し、計画そのものが、破綻の危機にひんします。
しかし、日本人宇宙飛行士たちが、事態の打開に向け、大きく貢献。
(2005年7月/補修実証船外活動)
その結果、スペースシャトルは、定期運行を再開します。
日本の実験棟 きぼう も、無事完成したのです。
数々の実験や観測が行われ、大きな成果を上げています。
“行っている研究は非軍事の宇宙観測であれ、あるいは船内実験室でやって
いる生物実験とか、本当に世界が科学的に共有できる成果を挙げている”
有人宇宙開発の技術を獲得した日本。
月探査計画への貢献も、期待されています。
その先には、どのような光景が、広がっているのでしょうか?
国際宇宙ステーションを通して、日本が挑んだ、有人宇宙開発の軌跡と、
その未来に迫ります。
都会の夜空に、明るく輝く、小さな光。
日本上空を飛行する、国際宇宙ステーションです。
その大きさは、横109メートル。 縦73メートル。
サッカー場ほどもある、巨大な建造物です。
上空400キロメートルの軌道を1秒間に7キロの猛スピードで周回しています。
人類の英知を結集した国際宇宙ステーションに、日本は、科学実験室を送り
込みました。 実験棟 きぼう です。
有人宇宙開発で先行していた欧米諸国に、追いつこうとする思いが込められ
ています。
国際宇宙ステーション構想が最初に打ち出されたのは、今から40年近くも
前の事です。
1984年1月。 レーガン大統領(当時)は、言う。
‘活動領域を宇宙へと広げ、経済的・科学的な利益を目指そう!’
‘有人の宇宙ステーションを、10年以内に開発するよう、NASAに命じる’
レーガン大統領は、他の西側諸国にも、有人宇宙開発計画に参加する事を
求めます。
当時、冷戦状態にあった、東側諸国に対抗する事が、主な狙いでした。
その後、冷戦は終結。 (1989年11月)
宇宙での長期滞在の実績があるロシアを迎え入れ、現在の計画がスタート
したのです。 当初から参加を要請されていた日本は、科学実験棟を建設する
事になりました。
日本実験棟きぼうの開発プロジェクトを指揮した、元マネージャーです。
日本を代表して、アメリカや他の参加国との調整も担当しました。
有人宇宙開発で先行していた、欧米諸国と肩を並べる絶好のチャンスだった
といいます。
“日本人のための将来の技術を獲得しようという事だったので、産業界・
宇宙関係のメーカーも… あるいは研究所、国立研究所とか”
“色んな研究所の人たちの力を… 知恵を集めて”
“日本として、どういうのが1番いいのか”
国際宇宙ステーション計画では、各国が、それぞれの実績を生かした貢献を
する事が求められました。 居住棟やドッキングポートを提供するロシア。
宇宙ステーション・ミールでの長期滞在に加え、宇宙船ソユーズの人員輸送
にも実績がありました。
アメリカは、科学実験棟に加え、ステーション全体の電力供給や生命維持
システムを担当。 スペースシャトルでの人員輸送だけでなく、モジュールの
輸送を一手に引き受けました。
ヨーロッパは、スペースシャトルで実績のあった、科学実験棟を提供。
カナダは、世界でも高い評価を誇る、ロボットアーム技術で貢献します。
そして日本が開発するのはモジュールとしては最大となる実験棟きぼうです。
独自のロボットアームと、船外実験プラットフォームも、セットになっています。
しかし、その開発は、困難の連続でした。
設計上の問題が、宇宙飛行士の命を左右するという経験が、日本には
なかったからです。
“有人安全をするという事は、日本は、まだやった事ないので”
“有人の… 人間が上がって活動し…”
“問題なくて活動できるという事が、どんなものなのか全く分からなかったと”
宇宙飛行士の安全を最優先する上で、最も重要とされたのが、冗長性という
設計思想です。 例えば、きぼうの生命維持機能を制御するソフトウェア。
船内の温度や気圧・酸素の量などを制御します。
当初、日本は、この生命維持機能に障害が発生した場合に備え、メインに
加え、予備のシステムを用意しました。
万が一メインが故障しても、予備があるため安全が確保できるという考え方。
これが、冗長性(じょうちょうせい)です。
しかし、NASAが要求して来た冗長性のレベルは、日本が考えていたものを
はるかに超えるものでした。
“要するに、2つ同じものでバックアップ持っていれば、それでいいのかというと
そうはいかなかった”
“結局、1個壊れて、次、同じようなシステムだと、次、壊れて、次、壊れて…”
“みんな壊れちゃいましたとなったらば、冗長系にはならなくなってしまう”
NASAが求めたのは、バックアップを、2重に取る事でした。
不測の事態が、同時に2つ起こっても、対応できるようにするためです。
更に、それぞれのソフトウェアを、別にする事が求められました。
同じ原因で、全て同時にダウンする事を防ぐためです。
この設計であれば、生命維持機能が全て失われるという、最悪の事態が
起こる可能性を、限りなくゼロにする事ができるのです。
こうした優れた安全設計の思想を学ぶ為、元マネージャーたちが目をつけた
のは、NASAの専門家たちでした。
“ヒューズといって、トレーニング…”
“宇宙飛行士のトレーニングの親分だった人なのですよ”
“アポロ13号で、手順を作る時の設定をしたりとか、サポートをしていた人”
安全設計のスペシャリストと親交を深め、NASAが蓄積した知識や技術を取り
入れようとしたのです。
“彼らが、まずは1週間、打ち合わせがあると、真ん中の日に、ハッピーアワー
というのを付けてくれるのですよね。 それで、飲みながら話す”
‘レジリエンス号が、舞い上がります’
‘人類が団結して、重力を振り切り、宇宙を探検します’
2020年11月。スペースX社の宇宙船クルードラゴンが、国際宇宙ステーション
に向け、打ち上げられました。
民間企業が有人宇宙開発を担う、新たな時代の幕開けです。
初めての本格的なフライトには、日本人宇宙飛行士も搭乗しました。
“本当に新しい有人飛行時代の幕開けになると思います”
“新しい時代を開いて行く力というものを、ぜひ、見ていただきたい”
今回の舞台は、宇宙飛行士たちが活動する、国際宇宙ステーションです。
2020年11月、本格的な運用の開始から、20年を迎えました。
実は、日本にとって国際宇宙ステーション計画は、技術立国としての威信を
世界に示すプロジェクトでした。
その要となったのが、さまざまな実験を行うモジュール きぼう の開発です。
有人の宇宙開発は、日本にとって、全く未知の領域。
極めて野心的な挑戦でした。
“宇宙開発は新参者なのだけど、有人宇宙の新参者なのだけど、絶対、
気概を忘れないで、日本人として絶対に、これを仕上げてやって、世界に
見せるのだと…”
しかし、厳しい安全基準が、高い壁となって立ちはだかります。
更に、不測の事態も発生。 (2003年2月/コロンビア号空中分解事故)
宇宙ステーション建設に欠かせないスペースシャトルが、空中分解を起こした
のです。 建設は中断し、計画そのものが、破綻の危機にひんします。
しかし、日本人宇宙飛行士たちが、事態の打開に向け、大きく貢献。
(2005年7月/補修実証船外活動)
その結果、スペースシャトルは、定期運行を再開します。
日本の実験棟 きぼう も、無事完成したのです。
数々の実験や観測が行われ、大きな成果を上げています。
“行っている研究は非軍事の宇宙観測であれ、あるいは船内実験室でやって
いる生物実験とか、本当に世界が科学的に共有できる成果を挙げている”
有人宇宙開発の技術を獲得した日本。
月探査計画への貢献も、期待されています。
その先には、どのような光景が、広がっているのでしょうか?
国際宇宙ステーションを通して、日本が挑んだ、有人宇宙開発の軌跡と、
その未来に迫ります。
都会の夜空に、明るく輝く、小さな光。
日本上空を飛行する、国際宇宙ステーションです。
その大きさは、横109メートル。 縦73メートル。
サッカー場ほどもある、巨大な建造物です。
上空400キロメートルの軌道を1秒間に7キロの猛スピードで周回しています。
人類の英知を結集した国際宇宙ステーションに、日本は、科学実験室を送り
込みました。 実験棟 きぼう です。
有人宇宙開発で先行していた欧米諸国に、追いつこうとする思いが込められ
ています。
国際宇宙ステーション構想が最初に打ち出されたのは、今から40年近くも
前の事です。
1984年1月。 レーガン大統領(当時)は、言う。
‘活動領域を宇宙へと広げ、経済的・科学的な利益を目指そう!’
‘有人の宇宙ステーションを、10年以内に開発するよう、NASAに命じる’
レーガン大統領は、他の西側諸国にも、有人宇宙開発計画に参加する事を
求めます。
当時、冷戦状態にあった、東側諸国に対抗する事が、主な狙いでした。
その後、冷戦は終結。 (1989年11月)
宇宙での長期滞在の実績があるロシアを迎え入れ、現在の計画がスタート
したのです。 当初から参加を要請されていた日本は、科学実験棟を建設する
事になりました。
日本実験棟きぼうの開発プロジェクトを指揮した、元マネージャーです。
日本を代表して、アメリカや他の参加国との調整も担当しました。
有人宇宙開発で先行していた、欧米諸国と肩を並べる絶好のチャンスだった
といいます。
“日本人のための将来の技術を獲得しようという事だったので、産業界・
宇宙関係のメーカーも… あるいは研究所、国立研究所とか”
“色んな研究所の人たちの力を… 知恵を集めて”
“日本として、どういうのが1番いいのか”
国際宇宙ステーション計画では、各国が、それぞれの実績を生かした貢献を
する事が求められました。 居住棟やドッキングポートを提供するロシア。
宇宙ステーション・ミールでの長期滞在に加え、宇宙船ソユーズの人員輸送
にも実績がありました。
アメリカは、科学実験棟に加え、ステーション全体の電力供給や生命維持
システムを担当。 スペースシャトルでの人員輸送だけでなく、モジュールの
輸送を一手に引き受けました。
ヨーロッパは、スペースシャトルで実績のあった、科学実験棟を提供。
カナダは、世界でも高い評価を誇る、ロボットアーム技術で貢献します。
そして日本が開発するのはモジュールとしては最大となる実験棟きぼうです。
独自のロボットアームと、船外実験プラットフォームも、セットになっています。
しかし、その開発は、困難の連続でした。
設計上の問題が、宇宙飛行士の命を左右するという経験が、日本には
なかったからです。
“有人安全をするという事は、日本は、まだやった事ないので”
“有人の… 人間が上がって活動し…”
“問題なくて活動できるという事が、どんなものなのか全く分からなかったと”
宇宙飛行士の安全を最優先する上で、最も重要とされたのが、冗長性という
設計思想です。 例えば、きぼうの生命維持機能を制御するソフトウェア。
船内の温度や気圧・酸素の量などを制御します。
当初、日本は、この生命維持機能に障害が発生した場合に備え、メインに
加え、予備のシステムを用意しました。
万が一メインが故障しても、予備があるため安全が確保できるという考え方。
これが、冗長性(じょうちょうせい)です。
しかし、NASAが要求して来た冗長性のレベルは、日本が考えていたものを
はるかに超えるものでした。
“要するに、2つ同じものでバックアップ持っていれば、それでいいのかというと
そうはいかなかった”
“結局、1個壊れて、次、同じようなシステムだと、次、壊れて、次、壊れて…”
“みんな壊れちゃいましたとなったらば、冗長系にはならなくなってしまう”
NASAが求めたのは、バックアップを、2重に取る事でした。
不測の事態が、同時に2つ起こっても、対応できるようにするためです。
更に、それぞれのソフトウェアを、別にする事が求められました。
同じ原因で、全て同時にダウンする事を防ぐためです。
この設計であれば、生命維持機能が全て失われるという、最悪の事態が
起こる可能性を、限りなくゼロにする事ができるのです。
こうした優れた安全設計の思想を学ぶ為、元マネージャーたちが目をつけた
のは、NASAの専門家たちでした。
“ヒューズといって、トレーニング…”
“宇宙飛行士のトレーニングの親分だった人なのですよ”
“アポロ13号で、手順を作る時の設定をしたりとか、サポートをしていた人”
安全設計のスペシャリストと親交を深め、NASAが蓄積した知識や技術を取り
入れようとしたのです。
“彼らが、まずは1週間、打ち合わせがあると、真ん中の日に、ハッピーアワー
というのを付けてくれるのですよね。 それで、飲みながら話す”
| ホーム |