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マチュピチュの存在は20世紀になるまで世界に知られていなかった
2021年03月17日 (水) | 編集 |
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南アメリカ・アンデスの山中に、こつ然と姿を現す石造建築群。

インカ帝国が築いた、マチュピチュです。

標高2400メートルの断崖にそびえる空中都市。

誰が? 何のために? どのようにして築いたのか?

それは、南米最大の謎とも言われて来ました。

世界で初めてテレビに公開された、最新の研究成果。

そこから浮かび上がった1人の人物。  その正体とは?

高度な技術で造り上げられた建造物。

一体、ここで、何が行われていたのでしょうか?

世界遺産ペルー・マチュピチュ。 驚きに満ちた謎の数々に迫ります!

マチュピチュを造ったインカ帝国が誕生したのは、15世紀初め。

アンデスに暮らす山岳民族の1つ、インカ族が台頭した事による。

インカ帝国は、都クスコを拠点に、現在のコロンビアからチリ中部まで、南北
5000キロに及ぶ領土を治めた。

インカ帝国を代表する石造建築マチュピチュだが、意外な事に、その存在は
20世紀になるまで、世界に知られていなかった。 発見されたのは、1911年。

アメリカの歴史家ハイラム・ビンガム(1875-1956)の調査による。

ビンガムは、出土品を、全てアメリカに持ち帰った。

その後、戦争の影響で、分析が行われないまま放置された。

そのため、マチュピチュを巡っては、さまざまな説が唱えられて来た。

例えば、初代皇帝が生まれた、インカ帝国の発祥の地。

更には、皇帝が囲った女性たちの宮殿。

はたまた、難攻不落の要塞など、まさに諸説紛々。

今回は、世界で初めてテレビ公開された最新の研究をもとに、マチュピチュの
謎に挑んでみよう!

アメリカ・エール大学。 マチュピチュを初めて調査したビンガムの発掘品。

その研究が再開されています。

こちらは文化人類学の教授で、研究チームのリーダーです。

遺跡からは、174体の人骨が発見されています。

教授は1つ1つを分析し、マチュピチュの人々の暮らしを、世界で初めて明らか
にしました。 男女の比率は、ほぼ同じ。

女性には、出産のあとも確認されました。

頭蓋骨や歯の大きさから、10代から50代まで、さまざまな年齢の人々が
いた事も分かりました。

人骨には、殺されたり傷つけられたりした形跡は、見当たりません。

争いや戦いの無かった事が、うかがわれます。

人骨とともに出土した装飾品は、スズや銅で作られた簡素なものでした。

更に、武器は全く見つかっていません。

マチュピチュは、人々が穏やかな暮らしを営む場所だったのです。

“マチュピチュでの人々の生活は、とても豊かなものでした”

“骨の分析から、人々は、健康だった事が分かりました”

“また、骨の損傷は少なく、重労働を強いられた形跡は、全く見当たりません”

“人々は、豊かな自然あふれる山々に囲まれた、素晴らしい環境の中で
平和に暮らしていたと考えられます”

更に、頭蓋骨の分析から、1つの事実が浮かび上がりました。

半数近くに、骨を変形させる風習のあとが見られたのです。

それは、マチュピチュ一帯には無いものでした。

マチュピチュには、遠く離れた場所からも、人々が集められていました。

エール大学の研究チームは、強大な権力を持つ1人の人物を突き止めました。

16世紀に記された、インカ帝国の歴史書です。 (アウグスティン修道会文書)

膨大な文献を丹念に調べ、注目すべき一節に、たどりつきました。

ピチュを、インカ・ユバンキが、治めた。

インカ・ユバンキとは、インカ帝国第9代皇帝パチャクティの事です。

パチャクティが、マチュピチュを建設したと読み解いたのです。

パチャクティは、15世紀半ば、インカ帝国に繁栄をもたらした皇帝です。

出土品の年代測定からも、ほぼ、時代が一致しました。

インカ帝国最大の英雄が築き人々が平和な暮らしを営んでいたマチュピチュ。

皇帝は、一体、何のために?

そして、なぜ、この場所にマチュピチュを建設したのでしょうか?

手掛かりを求めて、ナビゲーターが力を借りたのは、ペルー文化庁の担当者。

30年以上、マチュピチュを研究しています。

まず案内されたのは、皇帝の存在が最も強く表れているという場所です。

それは、不思議な形をした、石の建造物でした。

中央にそびえる石の柱が、太陽の動きと密接な関係を持っていると担当者は
言います。 これは、太陽をつなぎとめる石と、名付けられたものです。

“この石は、太陽の観測に使われていました”

“どのように観測したかを説明しましょう! こちらに階段があります”

“ここが、観測者の立つ位置です”

“ここで東を向いて、朝日の出るのを待ちます”

“太陽と石柱の先端が重なって見えた時、それが6月20日頃、南半球にある
ペルーの冬至です”

“インカ皇帝は、ここで太陽への儀礼をささげ、暦を作ったと考えられます”

もう1つ、暦に関連した場所があります。 あの見事な曲線を描く建造物です。

上に登ると、東向きの壁に、大きな2つの窓が開いています。

左の窓から、朝日が真っ直ぐに差し込むのが、冬至の日。

右の窓から差し込むのは、12月20日頃の夏至。

東西が断崖絶壁のマチュピチュは、太陽の動きから暦を割り出すには絶好の
場所でした。 インカとは、太陽の子という意味です。

太陽こそが最高の神であると信じ、皇帝は、その子孫であると名乗りました。

パチャクティは、太陽神の威厳を後ろ盾に、広大な帝国を統治しました。

マチュピチュは、皇帝が、太陽を観測する人々を集め、祈りをささげるために
建設された儀礼の舞台だったのです。

インカ帝国では、太陽を頂点に自然の万物に神が宿ると信じられていました。

エール大学の研究チームは、こうした自然崇拝の拠点として、マチュピチュを
建設する場所が選ばれたと考えています。

エール大学の研究チームのリーダー、教授は言う。

“皇帝パチャクティが、なぜ、あの場所にマチュピチュを築いたのか?”

“それは、インカ族が、アンデスの山岳地方の出身であり、太陽だけでなく、
山々もまた、神聖なものだと信じていたからです”

“だからこそ、周囲の山々の頂きが全て見渡せる土地を選び出したのです”

“マチュピチュには、500人以上が、住んでいたと考えられます”

“人々は、豊かな自然に包まれて、平和に暮らしていた事でしょう”

アンデスの山々に抱かれ、太陽への儀礼をささげた都市、マチュピチュ。

それは広大なインカ帝国の領土の中で、まさに選ばれた土地だったのです。