2020年11月28日 (土) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「肌身離さず持っているもの」
昭和39(1964)年10月10日。
爽やかな秋晴れの下、東京オリンピックが開幕した。
実況 “心も浮き立つような、古関裕而(こせき・ゆうじ)作曲のオリンピック・マーチが
鳴り響きます…”
選手入場の時に流れた、 オリンピック・マーチ 。
作曲したのは、古関裕而(こせき・ゆうじ)である。
敗戦からの復興を世界にアピールする大舞台で、活躍の場を与えられた古関。
その生涯を通じ、多くの名曲を作り、国民にエールを送って来た。
中でも得意としたのが、スポーツの応援歌。
夏の甲子園で歌われる、栄冠は君に輝く は、戦後間もなく作曲され、
球児たちの思い出に刻まれている。
元高校球児は、言う。
“昭和29年に甲子園の夏の大会に出まして、その時の入場行進曲が、
いわゆる、栄冠は君に輝くという歌だったのです”
“同級会とか同期会で集まれば、その歌が必ず出て来ますね”
昭和という激動の時代を生きた、古関裕而。
実は戦時中は、兵士たちを鼓舞する戦時歌謡の作曲家として脚光を浴びた。
古関は、150曲にも及ぶ戦時歌謡を手掛け、作曲家として確固たる地位を
築いた。 そこには、どのような思いがあったのか?
今回、取材を進める中で、古関と戦争との関わりを探る、貴重な映像資料を
発掘した。
古関裕而記念館の学芸員は、言う。
“これは古関が昭和13年に、中国に慰問に行った時の記録の映像が入って
います”
古関、自らが、戦場で撮影した未公開のフィルム。
その眼差しは、戦場の過酷な現実に、一心に向けられていた。
戦争という体験は、古関に、どのように反響したのか?
名作曲家の実像に迫る。
福島県福島市。 明治42(1909)年、古関裕而は、ここで生まれた。
生家は、市内の目抜き通りに店を構える、福島きっての老舗呉服店だった。
音楽との出会いを、古関は、自伝で、こう書き残している。
自伝 鐘よ鳴り響け より。
“音楽好きの父は、大正初期といえば、まだ珍しい蓄音機を、店の使用人の
娯楽用に購入し、余暇には、いつもレコードをかけていた”
恵まれた環境の中で、古関は、次第に作曲に関心を示すようになった。
これは、高校卒業の時、将来の夢を書いた、寄せ書き。
古関は、記している。 “末は音楽家だよ”
その後、古関は、銀行に勤めるかたわら、音楽理論や作曲を学び、アマチュア
作曲家として活動を続けた。 当時の直筆の音楽ノート。
北原白秋などの詩を題材にした歌曲をはじめ、100曲を超える習作が収め
られている。 やがて、そんな努力が実を結ぶ日が来た。
21歳の時、イギリスの国際作曲コンクールで入選。
応募作品が、レコード化される事になったのだ。
古関には主催者から旅費が支給され、ヨーロッパへ留学するとも報じられた。
(昭和5年1月23日付の福島民報新聞より)
古関は銀行を退職し、意気揚々と留学の準備を進めた。
ところが… 事態は一転する。 昭和4(1929)年。 世界大恐慌が発生。
作品のレコード化も、留学も、白紙となってしまう。
未曽有の経済危機は、日本にも波及した。
農村では身売りが相次ぎ、大都市には失業者があふれた。
新たな生計の道を探す必要に迫られた、古関。
それは、思わぬところに開けていた。
これは、撮影が趣味だった古関自身が残した、当時の映像。
新天地での自分の仕事を紹介している。
昭和5(1930)年10月。 古関は、東京の大手レコード会社、日本コロムビアに
専属作曲家として入社。 流行歌の世界に飛び込んだ。
当時、日本のレコード産業は、勃興期にあった。
ジャズやクラシックなど、洋楽の素養を持ち、流行歌を書ける作曲家が求め
られていた。
古関は、楽曲を提供するだけでなく、自らバンドを指揮して、レコーディングに
取り組んだ。 古関の月給は、200円。 当時の小学校の教員の4倍近い。
しかし高額の月給は印税の前払いで、ヒットを出さなければお払い箱だった。
さあ、最初のレコードを、どんな曲にするべきか…。
古関がデビュー曲の着想を得たものが、残されている。
奥の細道や信夫山など、福島を題材にした詩と水墨彩色画。
竹久夢二の作品 福島夜曲 (セレナーデ) である。
古関が、最初のレコードに選んだ2曲は、1つが、この夢二の作品をモチーフに
した、 福島小夜曲 (セレナーデ) 。
そして、もう1曲が、福島の街の風情を歌った 福島行進曲 。
共に、福島時代に手掛けた自信作だった。
だが、レコードは全く売れなかった。
その後も3年間、ヒット曲を書けず、契約解除寸前まで追い込まれてしまう。
その頃、ヒット曲を連発していたのが、古賀政男 だった。 (酒は涙か溜息か)
なぜ、古賀は売れて、古関は売れなかったのか?
音楽評論家は、こう分析する。
“古賀政男の音楽というのは、ギターやマンドリンなど、歌のラインの細かく
感情のヒダに触れてくるような伴奏で、その中で、個人的なしがらみ・悲しみ・
辛さといった、そういう感情を爪弾く楽器で1人で歌ったのです”
“これが、ピッタリなのです”
“古関裕而のクラシック的、ちょっと、お高くとまった教養ありげな感じが漂う
ような曲というのは、レコードで歌謡曲を聴く主たるニーズからズレていた”
そんな古関が、ようやく脚光を浴びる時が訪れる。
昭和12(1937)年7月。 日中戦争が勃発。
日本は、長きにわたる戦争の時代に突入した。
当時の近衛内閣は、国民精神総動員運動を展開。
新聞・放送局・レコード会社も、これに追随した。
そして、国民を戦争協力に導くための国民歌を作るべく、動き出した。
8月。 新聞紙上に、懸賞で選ばれた、ある歌詞が掲載された。
露営の歌である。 よい曲がつけば、日露戦争時の軍歌 戦友 に匹敵する、
名曲になるだろうといわれた。
この歌詞に曲をつけ、大ヒットさせた人物こそ、ほかならぬ、古関だった。
古関と、この歌との出会いは、運命的というほかない。
それは旅行中の古関が、レコード会社から、至急、頼みたい曲があるとの
電報を受け取り、急ぎ上京する道中の事。
長旅に退屈した古関が広げた新聞。
その紙面に、露営の歌の歌詞が掲載されていた。
古関は、後に、こう回想している。
自伝 鐘よ鳴り響け より。
“汽車のリズムの中で、ごく自然にスラスラと、作曲してしまった”
“出征兵士の出発状況は山陽線の各駅で既に見られた光景で、武運長久の
旗をなびかせたり、日の丸の旗を振る家族の涙で目を赤くしていた様子など
胸を打つものがあった”
くしくも、レコード会社が古関に頼もうとしていたのは、まさに、この曲だった。
戦時歌謡の傑作 露営の歌 は、こうして生まれた。
♪ 勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは 手柄立てずに死なりょうか
昭和12年10月に発売されたレコードは、大衆の支持を集め、60万枚という
空前の大ヒットを記録した。
発売直後の新聞に、次のような記事が掲載されている。
東京日日新聞 より。 (昭和12年10月16日)
“前線の兵士たちが、野戦病院の一室にあるオルガンの伴奏に合わせ、
露営の歌を大合唱している”
記事を読んだ古関は、こう書き残している。
自伝 鐘よ鳴り響け より。
“この歌によって兵士が戦いの疲れを癒し、気持ちが和み、励まされている
事を知り、作曲した甲斐があったと、しみじみ感じた”
不遇をかこっていた古関は、戦時歌謡と出会う事によって作曲家として大きく
花開いたのである。
昭和39(1964)年10月10日。
爽やかな秋晴れの下、東京オリンピックが開幕した。
実況 “心も浮き立つような、古関裕而(こせき・ゆうじ)作曲のオリンピック・マーチが
鳴り響きます…”
選手入場の時に流れた、 オリンピック・マーチ 。
作曲したのは、古関裕而(こせき・ゆうじ)である。
敗戦からの復興を世界にアピールする大舞台で、活躍の場を与えられた古関。
その生涯を通じ、多くの名曲を作り、国民にエールを送って来た。
中でも得意としたのが、スポーツの応援歌。
夏の甲子園で歌われる、栄冠は君に輝く は、戦後間もなく作曲され、
球児たちの思い出に刻まれている。
元高校球児は、言う。
“昭和29年に甲子園の夏の大会に出まして、その時の入場行進曲が、
いわゆる、栄冠は君に輝くという歌だったのです”
“同級会とか同期会で集まれば、その歌が必ず出て来ますね”
昭和という激動の時代を生きた、古関裕而。
実は戦時中は、兵士たちを鼓舞する戦時歌謡の作曲家として脚光を浴びた。
古関は、150曲にも及ぶ戦時歌謡を手掛け、作曲家として確固たる地位を
築いた。 そこには、どのような思いがあったのか?
今回、取材を進める中で、古関と戦争との関わりを探る、貴重な映像資料を
発掘した。
古関裕而記念館の学芸員は、言う。
“これは古関が昭和13年に、中国に慰問に行った時の記録の映像が入って
います”
古関、自らが、戦場で撮影した未公開のフィルム。
その眼差しは、戦場の過酷な現実に、一心に向けられていた。
戦争という体験は、古関に、どのように反響したのか?
名作曲家の実像に迫る。
福島県福島市。 明治42(1909)年、古関裕而は、ここで生まれた。
生家は、市内の目抜き通りに店を構える、福島きっての老舗呉服店だった。
音楽との出会いを、古関は、自伝で、こう書き残している。
自伝 鐘よ鳴り響け より。
“音楽好きの父は、大正初期といえば、まだ珍しい蓄音機を、店の使用人の
娯楽用に購入し、余暇には、いつもレコードをかけていた”
恵まれた環境の中で、古関は、次第に作曲に関心を示すようになった。
これは、高校卒業の時、将来の夢を書いた、寄せ書き。
古関は、記している。 “末は音楽家だよ”
その後、古関は、銀行に勤めるかたわら、音楽理論や作曲を学び、アマチュア
作曲家として活動を続けた。 当時の直筆の音楽ノート。
北原白秋などの詩を題材にした歌曲をはじめ、100曲を超える習作が収め
られている。 やがて、そんな努力が実を結ぶ日が来た。
21歳の時、イギリスの国際作曲コンクールで入選。
応募作品が、レコード化される事になったのだ。
古関には主催者から旅費が支給され、ヨーロッパへ留学するとも報じられた。
(昭和5年1月23日付の福島民報新聞より)
古関は銀行を退職し、意気揚々と留学の準備を進めた。
ところが… 事態は一転する。 昭和4(1929)年。 世界大恐慌が発生。
作品のレコード化も、留学も、白紙となってしまう。
未曽有の経済危機は、日本にも波及した。
農村では身売りが相次ぎ、大都市には失業者があふれた。
新たな生計の道を探す必要に迫られた、古関。
それは、思わぬところに開けていた。
これは、撮影が趣味だった古関自身が残した、当時の映像。
新天地での自分の仕事を紹介している。
昭和5(1930)年10月。 古関は、東京の大手レコード会社、日本コロムビアに
専属作曲家として入社。 流行歌の世界に飛び込んだ。
当時、日本のレコード産業は、勃興期にあった。
ジャズやクラシックなど、洋楽の素養を持ち、流行歌を書ける作曲家が求め
られていた。
古関は、楽曲を提供するだけでなく、自らバンドを指揮して、レコーディングに
取り組んだ。 古関の月給は、200円。 当時の小学校の教員の4倍近い。
しかし高額の月給は印税の前払いで、ヒットを出さなければお払い箱だった。
さあ、最初のレコードを、どんな曲にするべきか…。
古関がデビュー曲の着想を得たものが、残されている。
奥の細道や信夫山など、福島を題材にした詩と水墨彩色画。
竹久夢二の作品 福島夜曲 (セレナーデ) である。
古関が、最初のレコードに選んだ2曲は、1つが、この夢二の作品をモチーフに
した、 福島小夜曲 (セレナーデ) 。
そして、もう1曲が、福島の街の風情を歌った 福島行進曲 。
共に、福島時代に手掛けた自信作だった。
だが、レコードは全く売れなかった。
その後も3年間、ヒット曲を書けず、契約解除寸前まで追い込まれてしまう。
その頃、ヒット曲を連発していたのが、古賀政男 だった。 (酒は涙か溜息か)
なぜ、古賀は売れて、古関は売れなかったのか?
音楽評論家は、こう分析する。
“古賀政男の音楽というのは、ギターやマンドリンなど、歌のラインの細かく
感情のヒダに触れてくるような伴奏で、その中で、個人的なしがらみ・悲しみ・
辛さといった、そういう感情を爪弾く楽器で1人で歌ったのです”
“これが、ピッタリなのです”
“古関裕而のクラシック的、ちょっと、お高くとまった教養ありげな感じが漂う
ような曲というのは、レコードで歌謡曲を聴く主たるニーズからズレていた”
そんな古関が、ようやく脚光を浴びる時が訪れる。
昭和12(1937)年7月。 日中戦争が勃発。
日本は、長きにわたる戦争の時代に突入した。
当時の近衛内閣は、国民精神総動員運動を展開。
新聞・放送局・レコード会社も、これに追随した。
そして、国民を戦争協力に導くための国民歌を作るべく、動き出した。
8月。 新聞紙上に、懸賞で選ばれた、ある歌詞が掲載された。
露営の歌である。 よい曲がつけば、日露戦争時の軍歌 戦友 に匹敵する、
名曲になるだろうといわれた。
この歌詞に曲をつけ、大ヒットさせた人物こそ、ほかならぬ、古関だった。
古関と、この歌との出会いは、運命的というほかない。
それは旅行中の古関が、レコード会社から、至急、頼みたい曲があるとの
電報を受け取り、急ぎ上京する道中の事。
長旅に退屈した古関が広げた新聞。
その紙面に、露営の歌の歌詞が掲載されていた。
古関は、後に、こう回想している。
自伝 鐘よ鳴り響け より。
“汽車のリズムの中で、ごく自然にスラスラと、作曲してしまった”
“出征兵士の出発状況は山陽線の各駅で既に見られた光景で、武運長久の
旗をなびかせたり、日の丸の旗を振る家族の涙で目を赤くしていた様子など
胸を打つものがあった”
くしくも、レコード会社が古関に頼もうとしていたのは、まさに、この曲だった。
戦時歌謡の傑作 露営の歌 は、こうして生まれた。
♪ 勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは 手柄立てずに死なりょうか
昭和12年10月に発売されたレコードは、大衆の支持を集め、60万枚という
空前の大ヒットを記録した。
発売直後の新聞に、次のような記事が掲載されている。
東京日日新聞 より。 (昭和12年10月16日)
“前線の兵士たちが、野戦病院の一室にあるオルガンの伴奏に合わせ、
露営の歌を大合唱している”
記事を読んだ古関は、こう書き残している。
自伝 鐘よ鳴り響け より。
“この歌によって兵士が戦いの疲れを癒し、気持ちが和み、励まされている
事を知り、作曲した甲斐があったと、しみじみ感じた”
不遇をかこっていた古関は、戦時歌謡と出会う事によって作曲家として大きく
花開いたのである。
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