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金星は、かつては地球と環境が似ていると考えられていた?
2020年08月30日 (日) | 編集 |
第2117回「あなたの一番古い記憶はなんですか?」
モスクワ郊外にある、ゴスフィルモフォンド。

世界最大級のフィルム・ライブラリーです。

5万本以上の映画が、保管されています。

かつて人々は、金星を、どのように想像していたのか?

それが分かる映画が残されています。

金星探査に向かった飛行士たちの物語です。 (火を噴く惑星/1962年)

彼らは、金星に着陸します。 そこには水があり… 謎の生物もいました。

生命がいて、海もある。 それが当時、思い描かれた金星でした。

金星は、地球のお隣の惑星。

大きさは、ほぼ同じで、地球の姉妹星といわれて来ました。

かつては、地球と環境が似ていると考えられていたのです。

そんな時代に、金星の本当の姿を見てみたい、と考えた科学者がいました。

国内の研究機関を統括している、ロシア科学アカデミー。

300年近い歴史を誇ります。 その歴史の中で、最も尊敬される科学者の1人
ムスチスラフ・ケルディッシュ (1911-1978) です。

天才的な数学の能力を発揮し、ソビエトの宇宙開発をリードした人物です。

ケルディッシュの理論のもとに、世界初の人工衛星を打ち上げ(1957年)、
世界初の有人宇宙飛行(1961年)も成功させました。

彼は、ソビエトの科学力を世界に知らしめるため、欠かせない存在になって
いました。 ケルディッシュは、1959年、政府に大胆な提案をします。

他の惑星への探査計画です。 (ケルディッシュ書簡集より)

計画に、最初から関わっていた人がいます。

ケルディッシュの右腕といわれた科学者、ミハイル・マロフ博士です。

金星探査のキッカケは、ある発見だったといいます。

“1950年代、電波を使って金星の観測が始まると、驚くべき結果が出て来ま
した。 金星の温度が100度以上あるかも知れない。 それが最初の謎でした”

地球の姉妹星といわれた金星が、100度以上ある灼熱の惑星かも知れない。

ケルディッシュは、真実を知りたいと願いました。

しかし、金星は分厚い雲に覆われていて、地球からは、雲の下の世界を知る
事が出来ませんでした。

“議論の結果、金星へ、直接、行ってみるしかないという結論に至りました”

“金星が地球と似た環境なら、いずれ人類が移り住むために、重要になるかも
知れません”

“しかし、本当に灼熱の惑星なら、なぜ、地球と異なる環境になったのか?”

“その問いに、答えなくてはいけないのです”

宇宙開発は、ソビエトの軍事力を世界に知らしめるもの。

時代の後押しもあり、ベネラ計画が始まります。

ケルディッシュは、有人飛行のために開発されていた、ボストーク・ロケットを
改造します。 ボストークは3段式ロケット。 地球を周回するためのものでした。

しかし、金星は、はるかかなた。

もう1段、ロケットを追加し、4段式ロケットにしました。

第3段までのロケットで、地球の周回軌道に乗り…。

第4段ロケットで加速し、金星へ向かうのです。

打ち上げるタイミングも重要です。

地球と金星は、太陽を回りながら、近付いたり、遠ざかったりしています。

そのため、ロケットを打ち上げるのは、およそ19カ月に1回!

最短距離で、金星に探査機を飛ばす事が出来ます。

1961年2月。 ニュースは突然でした。

ソビエトはロケットを打ち上げ、探査機を金星に飛ばした事を伝えたのです。

探査機の名前は、ベネラ1号。 世界で初めて、他の惑星に向かいました。

続報が次々に伝えられます。

‘1961年2月19日、地球から188万9000キロメートルを飛行中’

‘1961年3月3日、金星へのフライトを続行’

金星までの旅は、およそ4カ月。

しかし1カ月もすると、ベネラ1号の記事は、新聞から消えてしまいます。

一体、何があったのでしょうか?

ベネラ計画を詳細に調べて来た、科学史研究者です。

“これが、ベネラ1号です”

当時、明かされる事の無かった、ベネラ1号の設計図です。

観測機器が搭載され、パラボラアンテナを使ってデータを地球に送信する計画
でしたが…。

“ベネラ1号には、設計のミスがありました”

“それで通信アンテナを、地球に向ける事ができなかったのです”

“この失敗は、トップシークレットとされました”   その後も失敗が続きます。

18カ月後の1962年8月。 探査機が3機、打ち上げられます。

“1機目は第4段ロケットの点火がうまく行かず、探査機が姿勢を崩して失敗”

“2機目は、燃料のバルブが開かず”

“3機目は、第3段ロケットが爆発して失敗しました”

更に、次のタイミングとなる、1964年2月。

また3機を打ち上げるものの、全て失敗に終わりました。

探査機に、ベネラと名前が付けられる事はなく、打ち上げが報じられる事も
ありませんでした。  失敗は隠された?