2020年06月25日 (木) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「おうち時間が増えてから変わったこと」
“私たちは広大な宇宙に目を向け地球上の問題の解決に努めねばならない”
“今こそ、想像力を解き放とう! よりよい未来を作るために!”
命の危機を何度も乗り越え、世界的な著名人となった、ホーキング博士。
2度の離婚を経験した後、看護師たちに支えられて日々を過ごしていました。
人生の後半にさしかかる中、博士が見通そうとしたのは、科学と人類の未来
でした。
これは、2012年の夏、講演の合間を縫って、アメリカの医学研究所を訪ねた
時の映像です。
最新のiPS細胞の研究成果を、時間の許す限り、聞き出そうとしました。
‘そろそろ講演のお時間です。 仕事に戻らないと…’
この頃、飛行機に乗ること自体が、命懸けの行為となっていました。
それでも博士は、文明の滅亡や、温暖化の影響などを、身をもって体験し、
思索する旅を続けたのです。
自分の専門外の領域に、興味を広げた博士は、人類が抱える大きな問題に
ついて、発言を始めます。
その内容は、科学者としては大胆な予想ばかりでした。
国際宇宙ステーションとの交信より。
Q: あなたは、地球の上では、人類は生き残れないと言っています。
何が、1番の心配ですか?
“私たちの地球には、限られた資源しかないにもかかわらず、将来は人口が
増加し、脅かされるでしょう”
“人類が生き延びるには、宇宙に出る事は避けられません”
なぜ、博士は、こうした過激ともいえる言葉を発し始めたのか?
学生時代から、50年以上の付き合いがある、キップ・ソーン教授。
アインシュタインが予言した重力波を観測し、ノーベル物理学賞を受賞しました。
ホーキング博士は物理学の研究においても、まず大胆な予想を行い、それを
議論のキッカケにして来たといいます。
“私は、ホーキングと、これまで4回、宇宙物理の問題で賭けをして来ました”
“最初の賭けは、1974年です。これが、ホーキングのオリジナルの署名です”
“当時は、まだ、手が動かせたので、署名できたのです”
賭けの対象となったのは、その時々の宇宙物理学の未解決問題。
裸の特異点問題や、ブラックホールの情報喪失パラドックスといった、難問
ばかりです。
“この賭けは、結論が出ていません”
“賭けの目的は、半分は遊び、半分は同僚への挑発でした”
“重要な難問を、何とか解決したい”
“彼は、賭けをする事で、注目を集めようとしたのです”
晩年のホーキング博士は、人類の未来という大問題にも、自分なりの仮説を
投げかけ、議論を呼び起こそうとしていたと、ソーン教授は考えています。
“彼は、厳密さよりも、正しくある事を選びました”
“自分の知識の限界を超えて、答えを出すには、断片的な情報を深い洞察で
つなぎ合わせるしかないのです”
“ホーキングは、残された時間が短いと悟り、急いでいたのです”
2007年。65歳の博士は、宇宙に進出する人類の先駆けとして、自ら、無重力
体験を希望しました。
肺に穴が開くなど、命に関わるリスクがあると説明されても、意思は変わりま
せんでした。
“私は、人類は宇宙に進出しない限り、未来がないと思う”
“だからこそ、一般の人に宇宙旅行に興味を持ってほしい”
“無重力体験は、その第1歩だ! 私は、とても興奮している!”
“何十年も、車イスに縛られて来たが、無重力空間で、自由になれるのは、
素晴らしい! 無重力空間で会いましょう!”
万が一に備え、飛行機には、救急処置室を設置。
医師3名と、看護師2名を配置しました。
厳重な付き添いのもとで行われた、最初のフライト。
博士を支援して来たピーター・ディアマンディスさんは、すぐ横で体調を慎重に
見守っていました。
“最初のフライトの時、彼をそっと宙に持ち上げて無重力の中で浮かべるよう
手を放しました”
“医師に、どうですか?と聞くと、完璧だと、手で合図して来ました”
体調が安定したため、博士の強い希望で、全部で8回ものフライトが行なわれ
ました。
ホーキング博士は、言う。 “無重力は素晴らしい体験だった”
“私は、何度も何度も繰り返した。 宇宙よ、私は、ついに来たぞ!”
人生最後の数年間、博士が精力を傾けたのは専門の宇宙論の研究でした。
海外の共同研究者のもとに何度も通い、議論を続けたのです。
しゃべるスピードは遅くなり、1分間に発するのは、7単語。
全盛期の5倍くらい、時間がかかるようになっていました。
こだわり続けたのは、かつて、ソ連の学者たちと議論を重ねた、あのマルチ
バースに関する問題でした。
“私たちは広大な宇宙に目を向け地球上の問題の解決に努めねばならない”
“今こそ、想像力を解き放とう! よりよい未来を作るために!”
命の危機を何度も乗り越え、世界的な著名人となった、ホーキング博士。
2度の離婚を経験した後、看護師たちに支えられて日々を過ごしていました。
人生の後半にさしかかる中、博士が見通そうとしたのは、科学と人類の未来
でした。
これは、2012年の夏、講演の合間を縫って、アメリカの医学研究所を訪ねた
時の映像です。
最新のiPS細胞の研究成果を、時間の許す限り、聞き出そうとしました。
‘そろそろ講演のお時間です。 仕事に戻らないと…’
この頃、飛行機に乗ること自体が、命懸けの行為となっていました。
それでも博士は、文明の滅亡や、温暖化の影響などを、身をもって体験し、
思索する旅を続けたのです。
自分の専門外の領域に、興味を広げた博士は、人類が抱える大きな問題に
ついて、発言を始めます。
その内容は、科学者としては大胆な予想ばかりでした。
国際宇宙ステーションとの交信より。
Q: あなたは、地球の上では、人類は生き残れないと言っています。
何が、1番の心配ですか?
“私たちの地球には、限られた資源しかないにもかかわらず、将来は人口が
増加し、脅かされるでしょう”
“人類が生き延びるには、宇宙に出る事は避けられません”
なぜ、博士は、こうした過激ともいえる言葉を発し始めたのか?
学生時代から、50年以上の付き合いがある、キップ・ソーン教授。
アインシュタインが予言した重力波を観測し、ノーベル物理学賞を受賞しました。
ホーキング博士は物理学の研究においても、まず大胆な予想を行い、それを
議論のキッカケにして来たといいます。
“私は、ホーキングと、これまで4回、宇宙物理の問題で賭けをして来ました”
“最初の賭けは、1974年です。これが、ホーキングのオリジナルの署名です”
“当時は、まだ、手が動かせたので、署名できたのです”
賭けの対象となったのは、その時々の宇宙物理学の未解決問題。
裸の特異点問題や、ブラックホールの情報喪失パラドックスといった、難問
ばかりです。
“この賭けは、結論が出ていません”
“賭けの目的は、半分は遊び、半分は同僚への挑発でした”
“重要な難問を、何とか解決したい”
“彼は、賭けをする事で、注目を集めようとしたのです”
晩年のホーキング博士は、人類の未来という大問題にも、自分なりの仮説を
投げかけ、議論を呼び起こそうとしていたと、ソーン教授は考えています。
“彼は、厳密さよりも、正しくある事を選びました”
“自分の知識の限界を超えて、答えを出すには、断片的な情報を深い洞察で
つなぎ合わせるしかないのです”
“ホーキングは、残された時間が短いと悟り、急いでいたのです”
2007年。65歳の博士は、宇宙に進出する人類の先駆けとして、自ら、無重力
体験を希望しました。
肺に穴が開くなど、命に関わるリスクがあると説明されても、意思は変わりま
せんでした。
“私は、人類は宇宙に進出しない限り、未来がないと思う”
“だからこそ、一般の人に宇宙旅行に興味を持ってほしい”
“無重力体験は、その第1歩だ! 私は、とても興奮している!”
“何十年も、車イスに縛られて来たが、無重力空間で、自由になれるのは、
素晴らしい! 無重力空間で会いましょう!”
万が一に備え、飛行機には、救急処置室を設置。
医師3名と、看護師2名を配置しました。
厳重な付き添いのもとで行われた、最初のフライト。
博士を支援して来たピーター・ディアマンディスさんは、すぐ横で体調を慎重に
見守っていました。
“最初のフライトの時、彼をそっと宙に持ち上げて無重力の中で浮かべるよう
手を放しました”
“医師に、どうですか?と聞くと、完璧だと、手で合図して来ました”
体調が安定したため、博士の強い希望で、全部で8回ものフライトが行なわれ
ました。
ホーキング博士は、言う。 “無重力は素晴らしい体験だった”
“私は、何度も何度も繰り返した。 宇宙よ、私は、ついに来たぞ!”
人生最後の数年間、博士が精力を傾けたのは専門の宇宙論の研究でした。
海外の共同研究者のもとに何度も通い、議論を続けたのです。
しゃべるスピードは遅くなり、1分間に発するのは、7単語。
全盛期の5倍くらい、時間がかかるようになっていました。
こだわり続けたのは、かつて、ソ連の学者たちと議論を重ねた、あのマルチ
バースに関する問題でした。
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