2020年06月21日 (日) | 編集 |
“人間は、常に、根源的な問いへの答えを求めています”
“我々は、どこから来たのか? 宇宙は、どのように始まったのか?”
“少年の頃、私は、物事の仕組みに、強くひかれていました”
“私が人生をかけた仕事も、物事の仕組みを探る事でした”
“ただ、スケールが変わっただけです”
2018年、76歳で亡くなった宇宙物理学者の、スティーブン・ホーキング博士。
(1942-2018)
今、ホーキング博士が、亡くなる直前まで執筆していた著書が、世界中で
話題になっています。 (ビッグ・クエスチョン/2019年3月)
東京で開かれた出版イベントには、500人を超えるファンが詰めかけ、博士の
息子がメッセージを伝えました。
“父はいつも言っていました。 あらゆるものへの好奇心と疑問を持ちなさいと”
宇宙の始まり。 ブラックホールの奥底。 そして、タイムトラベル。
人類究極の謎を常識外れのアイデアで解き明かそうとした、ホーキング博士。
一方で、ユーモアをこよなく愛し、科学の魅力を、誰にでも分かる形で伝えて
来ました。 政治家。 宗教家。 ロックスター。
あらゆる立場の人々と科学について論じようと車椅子で世界中を旅しました。
更に、命の危険も顧みない冒険で、人間の持つ可能性に限界はないことを、
身をもって示したのです。
“彼は冒険者でした。 常に未知の領域に踏み込み、挑み続けたのです”
“どんな障害も、彼を止められませんでした”
頭の中で宇宙を自由に旅し、 なぜ? どうして? と、問い続けた博士。
全力で生き、理解する。 博士がくれたラスト・メッセージです。
“私は、理論物理学に関われて幸せでした”
“障害が不利にならず、全てを頭の中で出来るからです”
“生きてさえいれば、望みはあるのです”
番組では、2012年から、ホーキング博士の密着取材を行って来ました。
取材が許されたのは、博士の自宅。 (イギリス・ケンブリッジ)
この時、複数の看護師が、24時間体制で博士をサポートしていました。
“こんにちは、ごきげんいかが?” (当時70歳)
体中の筋肉が動かなくなる難病、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、すでに
顔の筋肉以外は、全く動かせなかった博士。
人工呼吸器で息をし、頬の筋肉でコンピューターを操って会話をします。
文章を打ち始めてから声に出すまで、10分以上かかる事もあります。
この日も、打っている途中で、出掛ける時間になってしまいました。
それでも、博士は続けます。 “日本には、何度も行ったよ”
朝9時に、博士は必ず身支度を整え、大学へ出勤します。
インターネットを使って、自宅で仕事をする事も可能でしたが、人と直接会って
会話する事にこだわりました。
オフィスは、ケンブリッジ大学の一角にありました。
博士はここで、看護師やアシスタントに手伝ってもらいながら、論文を読み、
世界中にメールを出していました。
この日は、共同研究者たちと、ブラックホールの情報喪失問題について議論を
交わしました。
共同研究者は、博士の反応を見ながら、時間をかけて議論を進めます。
2012年(スイス)、博士は、ブレイクスルー賞を受賞。
(まだ実証されていない革新的な理論研究に与えられる賞)
“私の発見は、検証はもちろん、認められるのも難しいと思っていました”
博士は、その生涯で、ノーベル賞以外の賞は全て手にしたともいわれました。
ホーキング博士は難病を患いながら、なぜ、これほどの業績を生み出す事が
できたのか?
亡くなって1年、私たちは、博士の人生を、たどって行く事にしました。
50年来の親友、ロバート・ドノバンさんが、取材に応じてくれました。
博士とは、学生時代に知り合い、晩年まで、家族ぐるみで親しく付き合った仲
でした。 ドノバンさんの結婚式のフィルムです。 (当時22歳)
そこには、傘を杖代わりにして歩く、ホーキング博士の姿がありました。
1942年、ガリレオが死んだ日の、ちょうど300年後に誕生した博士。
少年時代、おもちゃを分解しては、その仕組みを飽きずに調べ続けたといい
ます。 大学では、ボート部に所属。 運動や夜遊びに熱中していました。
専攻は、理論物理学。
勉強は、しなくてもできる天才肌で、大学を首席で卒業しました。
“ホーキングは、私がケンブリッジに来て、初めて出会った人物でした”
“出会って、すぐ、 寝る前に一杯どう? と誘われ、そのまま彼の部屋で語り
明かしました。 彼は、ジョークの達人でした”
“今日の宇宙は、どう? と、私が尋ねると、 とっちらかってるよ!と、笑って
答える。 いつも2人で、おかしな会話を楽しみました”
しかし、博士は21歳の時、大学院で研究を始めた矢先に、難病ALSと診断
されます。 あと数年の命と宣告されたのです。
それでも、決して周囲に弱音を吐く事はなかったといいます。
“ある日、彼の父親が、息子の面倒を見てくれと、頼んで来ました”
“その時、彼は、こう言いました”
“自分の面倒は、自分で見る。 友達に重荷を背負わさないでくれ!”
そんな博士を勇気づけたのは、1人の女性でした。
大学で言語学を学んでいた、ジェーン・ワイルドさん。
常に前向きで、敬けんなキリスト教徒だったジェーンさんは、病気を承知で、
博士との結婚を承諾したのです。
“我々は、どこから来たのか? 宇宙は、どのように始まったのか?”
“少年の頃、私は、物事の仕組みに、強くひかれていました”
“私が人生をかけた仕事も、物事の仕組みを探る事でした”
“ただ、スケールが変わっただけです”
2018年、76歳で亡くなった宇宙物理学者の、スティーブン・ホーキング博士。
(1942-2018)
今、ホーキング博士が、亡くなる直前まで執筆していた著書が、世界中で
話題になっています。 (ビッグ・クエスチョン/2019年3月)
東京で開かれた出版イベントには、500人を超えるファンが詰めかけ、博士の
息子がメッセージを伝えました。
“父はいつも言っていました。 あらゆるものへの好奇心と疑問を持ちなさいと”
宇宙の始まり。 ブラックホールの奥底。 そして、タイムトラベル。
人類究極の謎を常識外れのアイデアで解き明かそうとした、ホーキング博士。
一方で、ユーモアをこよなく愛し、科学の魅力を、誰にでも分かる形で伝えて
来ました。 政治家。 宗教家。 ロックスター。
あらゆる立場の人々と科学について論じようと車椅子で世界中を旅しました。
更に、命の危険も顧みない冒険で、人間の持つ可能性に限界はないことを、
身をもって示したのです。
“彼は冒険者でした。 常に未知の領域に踏み込み、挑み続けたのです”
“どんな障害も、彼を止められませんでした”
頭の中で宇宙を自由に旅し、 なぜ? どうして? と、問い続けた博士。
全力で生き、理解する。 博士がくれたラスト・メッセージです。
“私は、理論物理学に関われて幸せでした”
“障害が不利にならず、全てを頭の中で出来るからです”
“生きてさえいれば、望みはあるのです”
番組では、2012年から、ホーキング博士の密着取材を行って来ました。
取材が許されたのは、博士の自宅。 (イギリス・ケンブリッジ)
この時、複数の看護師が、24時間体制で博士をサポートしていました。
“こんにちは、ごきげんいかが?” (当時70歳)
体中の筋肉が動かなくなる難病、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、すでに
顔の筋肉以外は、全く動かせなかった博士。
人工呼吸器で息をし、頬の筋肉でコンピューターを操って会話をします。
文章を打ち始めてから声に出すまで、10分以上かかる事もあります。
この日も、打っている途中で、出掛ける時間になってしまいました。
それでも、博士は続けます。 “日本には、何度も行ったよ”
朝9時に、博士は必ず身支度を整え、大学へ出勤します。
インターネットを使って、自宅で仕事をする事も可能でしたが、人と直接会って
会話する事にこだわりました。
オフィスは、ケンブリッジ大学の一角にありました。
博士はここで、看護師やアシスタントに手伝ってもらいながら、論文を読み、
世界中にメールを出していました。
この日は、共同研究者たちと、ブラックホールの情報喪失問題について議論を
交わしました。
共同研究者は、博士の反応を見ながら、時間をかけて議論を進めます。
2012年(スイス)、博士は、ブレイクスルー賞を受賞。
(まだ実証されていない革新的な理論研究に与えられる賞)
“私の発見は、検証はもちろん、認められるのも難しいと思っていました”
博士は、その生涯で、ノーベル賞以外の賞は全て手にしたともいわれました。
ホーキング博士は難病を患いながら、なぜ、これほどの業績を生み出す事が
できたのか?
亡くなって1年、私たちは、博士の人生を、たどって行く事にしました。
50年来の親友、ロバート・ドノバンさんが、取材に応じてくれました。
博士とは、学生時代に知り合い、晩年まで、家族ぐるみで親しく付き合った仲
でした。 ドノバンさんの結婚式のフィルムです。 (当時22歳)
そこには、傘を杖代わりにして歩く、ホーキング博士の姿がありました。
1942年、ガリレオが死んだ日の、ちょうど300年後に誕生した博士。
少年時代、おもちゃを分解しては、その仕組みを飽きずに調べ続けたといい
ます。 大学では、ボート部に所属。 運動や夜遊びに熱中していました。
専攻は、理論物理学。
勉強は、しなくてもできる天才肌で、大学を首席で卒業しました。
“ホーキングは、私がケンブリッジに来て、初めて出会った人物でした”
“出会って、すぐ、 寝る前に一杯どう? と誘われ、そのまま彼の部屋で語り
明かしました。 彼は、ジョークの達人でした”
“今日の宇宙は、どう? と、私が尋ねると、 とっちらかってるよ!と、笑って
答える。 いつも2人で、おかしな会話を楽しみました”
しかし、博士は21歳の時、大学院で研究を始めた矢先に、難病ALSと診断
されます。 あと数年の命と宣告されたのです。
それでも、決して周囲に弱音を吐く事はなかったといいます。
“ある日、彼の父親が、息子の面倒を見てくれと、頼んで来ました”
“その時、彼は、こう言いました”
“自分の面倒は、自分で見る。 友達に重荷を背負わさないでくれ!”
そんな博士を勇気づけたのは、1人の女性でした。
大学で言語学を学んでいた、ジェーン・ワイルドさん。
常に前向きで、敬けんなキリスト教徒だったジェーンさんは、病気を承知で、
博士との結婚を承諾したのです。
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