2025年05月10日 (土) | 編集 |
こんにちは!FC2トラックバックテーマ担当の葉月です今日のテーマは「行ったことないけど、行ってみたい場所は?」です私は鹿児島に行ったことがないのですが、鹿児島に行ってみたいです黒豚のしゃぶしゃぶや、黒酢料理などの鹿児島料理も堪能したいですし、歴史にハマっているので歴史的建造物に行ってみたいですあなたの行ったことないけど、行ってみたい国はどこですか?たくさんの回答をお待ちしておりますトラックバックテ...
FC2 トラックバックテーマ:「行ったことないけど、行ってみたい場所は?」
やっぱ… 宇宙かな… 地球の青い姿を見たいし、月にも行ってみたいかな…
2023年05月29日 (月) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「推し活してる?」
世界中で猛威を振るう、多くの災害。 私たちは、地球温暖化の時代を生きて
います。 人間が、全く住めなくなる可能性があります。 未来に備え、過去に
起きた温暖化が、研究されています。
人間の体は、2割小さくなるかも知れません。 温暖化の歴史が繰り返される
のを、どうすれば防げるのでしょうか? 過去を学ぶ事で現在を理解し、未来を
よりよい方向へ導く。 これが、新しい科学です。
温暖化で生態系は、どのように変化するのでしょうか? 今まで私たちは、
樹木に頼る事ができました。 しかし、これからは、そうは行きません。
生き物たちにとって、これは、時間との戦いです。
今の気候変動は生き物たちにとって、あまりにも急速です。 太古の時代にも
存在した、温暖化の時代。 今の地球で同じ事が起これば、どうなってしまう
のでしょうか?
アメリカ北西部、ワイオミング州にある、ビッグホーン盆地。 不毛な荒野に
見えますが、昔から、そうだったわけではありません。
1人の古生物学者が、かつて、この地を覆った、超高温の時代の痕跡を、探し
ています。 ここは、温暖化の影響が、特に著しかった地域です。 私たちは、
30年前から、この地域で温暖化が哺乳類に与えた影響を、調べて来ました。
作業は忍耐の連続です。1日かけて見つけられる化石は、せいぜい1個です。
8時間を費やして、目当ての化石が、ようやく1個です。
ビッグホーン盆地の化石と堆積物が教えてくれるのは、5600万年前の地球の
姿です。 それは、極端な温暖化の時代でした。 当時、地球は現在とは全く
異なる、温室のような状態でした。
1万年ほどの間に平均気温は、5度も上昇しました。原因は火山の噴火による
大量の温室効果ガスの放出とする説が有力です。 海水の温度も上がった
結果、水中の酸素濃度は低下し、生き物が、すめなくなりました。
気温の上昇は、陸上でも、生態系のバランスを変化させました。 この時代は
暁新世(ぎょうしんせい)・始新世(ししんせい)境界温暖極大イベント (PETM)
と呼ばれます。
PETMは、温室効果ガスによって、地球規模の温暖化が起こった時代です。
それは私たちが、今、置かれている状況と似ています。
PETMを理解する事は、今後の地球環境に、どんな変化が起こり、生物に、
どんな影響が生じうるのかを知るのに、役立ちます。
PETMが私たちの未来の予想図とされるのは、その温暖化の進行の速さから
です。 1万年で5度という気温上昇は、地球の歴史の中でも際立っています。
PETMの時代、生き物たちは、気温の上昇に、どう反応したのでしょうか?
その痕跡が、ワイオミング州で発見されています。 これは歯の一部です。
大きな歯ですね。 牛くらいの大きさのコリフォドンという哺乳類です。
想像できますか? 見つかるものは、全て巨大なパズルの1つのピースです。
ここから知りたいのは、5600万年前に起きた環境の激変が、当時の哺乳類に
どう影響したのか? それに、適応できたのか、どうかです。 ビッグホーン
盆地の外れにある、この家で、発見した化石の分析が行われています。
これまでで最も重要な発見は、エクトシオンという、絶滅した草食動物の顎の
骨の化石です。 これらは、異なる地層から発見されたもので、生きていた
年代は、それぞれ異なっています。
真ん中のは、5600万年前、PETM時代のもので、下のは、更に100万年前の
ものです。 上のが1番新しく、5500万年前です。 エクトシオンは、このような
姿をしていたと考えられます。 気になるのは、下顎の骨の大きさです。
歯が生えそろっているので、3つとも、大人の化石ですが、なぜか、真ん中の
だけ、他より、ずいふん小さいのです。 PETMの時代の顎の骨は、前後の
時代と比べて、小さくなっています。
気温が上昇したPETMの時代に、それなりの大きさがあった動物でも、体が
小さくなってしまったのです。
このエクトシオンは、犬のビーグルくらいの大きさでしたが、温暖化が進み、
ピークを迎えた結果、チワワくらいの大きさになってしまったという事です。
非常に驚きました。 PETMの期間には、この大きさが種として、一般的な
サイズになっていたのです。 他の時代には見られません。
PETMの時代には、他の哺乳類にも、小型化が起こりました。 馬の祖先に
あたる動物の大腿骨にも、違いが見られます。
明らかに、何か大きな異変が起きたのです。 まだ詳しくは分かりませんが、
気候や植物の変化が、動物の小型化を引き起こしたのでしょう。
20万年にわたって続いたと推定される、PETM。 その始まりでは、さまざまな
種類の木からなる森林が消え、亜熱帯の乾燥地帯に変わりました。 動物の
小型化は、森林の減少による、食料不足への適応だったと考えられます。
私たちにも同じ事が起こるのでしょうか? 1950年代以降、人類が大気中へ
排出した炭素の量については、詳しく記録されています。 毎年、毎年です。
もし、現在のペースで炭素の排出が続いたなら、あと200年ほどで、地球は、
PETM並みに温暖化するでしょう。 200年といえば人間の6~7世代ほどです。
遠い先の話ではありません。
現在、およそ90万種の動物が、絶滅の危機に瀕しています。 多くは、人類に
よる生息地の破壊が原因ですが環境の変化も脅威です。 生き物たちは地球
温暖化による季節の変化にも、速やかに適応しなければ生き残れません。
冬は、より短く、夏は、より暑くなっています。 このアルプスマーモットのような
寒さに適応した動物は、長期的には滅びて行くでしょう。
アフリカの動物たちは、暑さや干ばつに適応して来ましたが、人間の活動と
気候変動が生息地を狭めています。 ハンターと獲物、動物と植物といった
バランスが崩れて行く事に、生き物たちは、どう反応しているのでしょうか?
PETMの頃に起きた小型化による適応は、既に始まっているのでしょうか?
気候変動の影響が大きい地域の1つ南アフリカ。 暑く乾燥した、この地域は
温暖化が進むと、更に乾燥して行くと予想されています。
科学者たちは、ここで動物が環境の変化に、どう応じているかを研究してい
ます。 発信機をつけたミーアキャットを探しています。 電波の受信状況から
見て、近くに群れがいます。
ミーアキャットの生態調査は、ここ、カラハリ砂漠で30年ほど前から続けられて
いる、長期の研究プロジェクトです。 ミーアキャットを知るためには、まず信用
されなければなりません。
彼らは、ミーアキャットの体重を測定し、気温など、環境条件との関連を調べて
います。 この15年間は、気温が42度を超える日が増え、その事が影響を
及ぼしています。
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ミーアキャットの体重は、暑くなるにつれて、変化しているのでしょうか?
気温が、35度や40度以上になると、赤ちゃんの体重が、あまり増えなくなる
事が分かりました。
生後3カ月のミーアキャットの赤ちゃんの平均体重は、1990年代半ばから、
減って行く傾向にあります。 ミーアキャットの赤ちゃんが小さくなっている事と
気温の上昇は、どう関係しているのでしょうか?
暑さで大人が狩りをする回数が減り、子供の餌が減ったという仮説が、立て
られましたが、調査したところ、餌の量は変わっていませんでした。もう1つの
可能性は、暑さで、餌に含まれる水分が減った事です。
若い個体は、体温を低く保つために、より多くの水分を消費すると、考えられ
ます。 ミーアキャットが小型化しつつあるのか?結論は、まだ出ていません。
遺伝的に適応するには、通常、何世代もかかります。
PETMの時も、小型化には、1万年を要しました。 過去と現在の気候変動の
違いは、そのスピードです。 地質学的な変化は数千年単位の出来事ですが
最近の気候変動は、数年単位で起きています。
急速な変化は、特に大型の哺乳類に大きな影響を与えます。 子供をつくれる
ようになるまでに時間がかかり、世代交代のスパンが緩やかなので遺伝的な
適応に時間がかかるからです。 更に暑さと干ばつは食糧難をもたらします。
ワイオミング州のビッグホーン盆地。古生物学者の彼女らが、PETMの時代の
化石を探しています。 未来を知る手がかりとなるからです。 乾燥した大地の
堆積物には、動物だけでなく、植物の痕跡も含まれています。
過去の気候変動は植物には、どんな影響を与えたと思いますか? 化石から
PETM以前は、さまざまな種類の木が密生していた事が分かりました。 しかし
その後、気温の上昇により、乾燥に強い種に置き換わりました。
現在のワイオミング州にあたる場所には、北米大陸南部の植物が、やって来
ました。 当時は、地球全体で、植物の分布が変わったのです。
氷が消えたPETM時代の北極圏には、シダ類や巨大なアメリカスギやイチョウ
の木が。 南半球では、後に、ヨーロッパ南部となる地域にまで、熱帯雨林が
広がり始めました。 植物の生息域は、1000キロ以上も、移動したのです。
ワイオミング州では、PETM以前に生育していた植物の化石も、見つかって
います。 スズカケノキの葉も、その1つです。 この植物は、気温上昇に耐え
られず、姿を消しました。 代わりに広がったのは、熱帯の植物です。
ここが、葉の付け根で、葉脈が、こちら側へ2本伸びています。 これは、マホ
ガニーですね。 熱帯に生えるマホガニーやヤシの木、マメ科の植物も数多く
発見されています。 彼女は、ある事に気が付きました。
葉には小さな穴が、たくさん開いていたのです。 虫に食われた跡が残って
いました。 他の時代のものより、際立って多いように思えたので、見つけた
葉の全てを、1枚1枚、詳しく観察しました。
どんな風に穴が開き、どれほど被害を受けているか、調べたのです。 そして
他の時代の化石と比較しました。 PETMの頃は、虫食いが際立っています。
原因は何でしょうか? 温暖化で昆虫の数が増えたのか?それとも、植物が
減ったため、残った植物は、より多くの昆虫に、食べられるようになったので
しょうか? 別の仮説も考えられます。 もっと厄介な仮説です。
二酸化炭素の濃度が高まると、植物に含まれる栄養素は減るのです。
特に窒素の量が減ります。 動物にとって窒素は、体内の酵素やタンパク質・
DNAをつくるのに欠かせません。
葉の中の窒素が少なくなれば昆虫は、より多くの葉を食べる必要があります。
二酸化炭素・CO2の増加によって、植物に含まれる栄養素が減少する事は、
現代の温暖化でも起きているはずです。
PETMの時代に、昆虫による植物の食害が増えたという事実は、人口の増加
による食糧難に直面している現代の我々にも、深刻な問題です。
地球の人口は、今世紀の中頃には100億人に達する見込みです。 収穫量の
多い作物の重要性は、ますます高まります。
現在、人類が引き起こしているCO2の増加のペースは、PETMの時代の、
なんと、10倍から100倍にも及ぶのです。
地球は、記録的な速さで温暖化しています。 CO2の排出量を大幅に削減
できなければ、平均気温は、今世紀の末には、3度以上も上昇するという
試算もあります。
そうなれば、大きな影響を受けるのは、農作物に、とどまらないでしょう。
温暖化によって、生態系のバランスが崩されている場所の1つが、森林です。
ドイツ中央部のハルツ山地では、害虫の増加で、森を広範囲に伐採せざるを
得なくなっています。 森を守ろうと闘い続けているのが、森林を管理する
彼です。
キクイムシが木を食い荒らしています。 気候変動の結果、暑さを好む昆虫が
大量発生しているのです。 気温が上がり、雨が少なくなって、森の木々は
弱っています。 その結果、害虫が、はびこります。
森の至る所で、見られる状況です。 特に、このトウヒの木は、害虫と乾燥に
悩まされています。 成長が早いので木材用に盛んに植えられて来ましたが、
根が浅いため、土壌の深い所にある水まで届かないのです。
衛星画像も、森林の急速な衰えを示します。 これは、2018年に撮影された
画像で、青い部分は手付かずの森です。 トウヒやブナの木々が生きている
のが、分かります。
隣は、同じ場所の2021年の状態で、赤や黄色は木が枯れてしまった所です。
森全体の3分の1が枯れています。 彼らは、ただ森がなくなるのを待つので
はなく、森の木の種類を変える事で、気候変動に立ち向かおうとしています。
トウヒよりも暑さに強いカラマツやブナなどの在来種や、もともと暖かい地域に
生えていたアカガシワやベイマツを、植えているのです。 森林は、地球上で
最も重要な生態系の1つです。
南極以外の全ての大陸で生育し、陸地の、およそ3分の1を占めています。
森林は水を供給し、涼しさを保ち、土壌の浸食を防ぎ、気候を左右します。
季節の変化を映し出し、植物や動物を育みます。
地球温暖化によって、森林の乾燥が続けば、生態系に危機が訪れます。
ビッグホーン盆地の化石が、それを物語っています。 5600万年前、地球が
温暖化していた時代の植物です。
私の指についたのは、木炭の化石です。 現代の木炭と同じように、植物が
燃えてできたもので、黒い残留物が出ます。 この木炭は、今から5600万年
前に、できたものです。
その頃には、CO2の増加による温暖化で、多くの火災が起こったと考えられ
ます。 空気が澄んでいれば、背後にそびえるビッグホーン山脈が、美しく
見えるはずです。
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でも最近は、カリフォルニアで山火事が多いせいで、空気が汚れ、視界が、
とても悪くなっています。 私たちが過去から学び、何か行動を起こさなければ
更に悪い状況が、当たり前のものになって行くでしょう。
ニュースより ‘キャンプ場の火災が、爆発的に広がったため、周辺の住民は
避難しています’
2021年に、カリフォルニア州では、およそ9000件の森林火災が起きました。
世界の森林火災は、今世紀末までに、50%増加するとも、いわれています。
2019年には、オーストラリアで、壊滅的な火災が発生しました。
数カ月に及ぶ山火事で、北海道を上回る面積の森が失われ、30億匹もの
動物が被災しました。 ニューサウスウェールズ州のブルーマウンテンズ国立
公園も、広範囲が焼失しました。
このオーストラリアの火災で、放出されたCO2は、およそ7億トンに達します。
ドイツの2020年、1年間の排出量と、ほぼ同じです。 CO2を減らすには、
健全な森林が欠かせません。 木は、成長のためにCO2を吸収するからです。
葉の中で、CO2から糖分をつくり、栄養にします。 同時に、私たちの呼吸に
必要な酸素も、つくり出します。 木は、二酸化炭素を吸収し、そこから炭素を
葉や枝、幹、根に蓄えます。
そして、それは、長い生涯を終える時まで、放出されません。 木は、炭素を
吸収する重要な役割を担っています。 木々が生きている事は、温暖化への
ブレーキとなるのです。
今後、私たちは、これまで以上に、森林の力に頼る事になるでしょう。
そこで、植物生態学者の彼は、CO2濃度の急激な上昇に、この先、森林が、
どう応えるかを研究しています。
そのため、シドニー近郊のユーカリの林に、実験場をつくりました。 9年前から
ユーカリをCO2濃度の高い空気に、さらしています。 予想される2050年頃の
地球よりも、高いレベルです。
こっちの囲いがそうで、あちらの真ん中の2つも、そう。高い濃度のCEOを与え
ています。その他は、比較のために通常の大気に触れさせているだけです。
理論的には大気中のCO2濃度が高いほど木は、それを肥料として早く成長し
より多くのCO2を吸収すると、考えられます。 この装置にユーカリの葉を入れ
ます。 葉が、光合成のために取り込む、CO2の量を測ってみます。
CO2濃度を高めた中で育てたユーカリの葉が、どれほどCO2を取り込んだか
測定すると、明らかに普通の葉より、吸収量は多くなっていました。
濃度を高めた区域では、手を加えていない区域と比べ、植物が光合成を、
およそ19%、活発に行っています。
木が、大気中のCO2を吸収し続けて行くためには、炭素を蓄え、大きく成長
する必要があります。 そのため、この実験によって、木は早く成長すると
考えられていましたが…。 実際には、木が大きく成長は、していません。
上の方は、光合成が活発なので伸びていますが、幹は太くなっていません。
余分なCO2は、成長のために使われず、放出されていました。 飽和状態と
考えられます。 余分なCO2は、根から再び放出されます。
つまり、大気中のCO2が増えても、森林が吸収する量は、それに合わせて、
増えるわけではないのです。 私たちは、CO2が増えれば木も、より成長し、
吸収する量も増えると予想していました。 しかし、そうではありませんでした。
つまり私たちは、長い間、樹木に頼って来ました。 しかし、CO2が増え続ける
これからは、そうは行きません。 ユーカリのCO2を吸収する能力は、いずれ
限界にぶつかってしまうようです。
では、オーストラリアのユーカリだけでなく、アジア・アフリカや南米に広がる
熱帯雨林でも同じなのでしょうか? CO2の吸収において、特に重要な役割を
果たしているのは、アマゾンの熱帯雨林です。
しかし、ここでも、過去30年の間に、CO2の吸収能力が、低下している事が
分かっています。 CO2が増えると、暑さと乾燥のため、木が枯れるのが早く
なります。
そして、枯れた木は腐る時に、それまで蓄積していた、炭素を放出します。
このプロセスが、気候変動で加速されると、アマゾンは、将来的には吸収する
より、多くのCO2を放出してしまう可能性もあるのです。
もしアマゾンの熱帯雨林がCO2を吸収するのではなく、排出するよになったら
地球の気候は劇的に変化します。 アマゾンの熱帯雨林のおかげで、地球の
温暖化は、まだ、現在のレベルに、とどまっています。
私たちの頼みの綱なのです。 将来、その歯止めを失ったら、温暖化は、より
急速に進行するでしょう。木 々が朽ちるのが早くなっている他にもアマゾンは
大きな問題を抱えています。 森林の伐採や、焼き畑です。
切り開かれた地域は、既にCO2の排出量は、森が吸収できる量を、上回って
います。 このまま森林が減少して行けば、アマゾンの熱帯雨林の役割は、
大きく転換する事になります。
木は、1日に数百リットルの水を蒸発させ、それが雨となって他の場所に降り
注ぎます。 生態系の原動力となる水分を、循環させているのです。
この循環を持続するには、森林と、健康な木々が欠かせません。 生態系が
存続の危機にさらされているのは、アマゾンだけではありません。 北極圏も、
極めて深刻な状況にあります。
平均気温が、世界の他の地域の3倍近い速さで、上昇しているのです。
夏、北極海の大部分には、もはや氷がありません。 白い氷には太陽の光を
反射して、宇宙空間に戻す働きがあります。
そのため、氷がなくなると、太陽の光が吸収されて気温が上昇し、氷が、更に
とけるという、悪循環に陥ります。 CO2を1トン、大気中に排出するごとに、
海面に浮かぶ氷は、およそ3平方メートルが、とけます。
そのような状況では私たちが、どんなに温暖化防止策を講じようとも今世紀の
半ばには、少なくとも一時的には北極が氷のない状態になる事は、避けられ
ないでしょう。 北半球では、既に記録的な暑さが発生しています。
2020年7月、ノルウェーのスピッツベルゲン島では、22度弱を記録しました。
平年ならば、5度から8度です。 シベリアのヤクーツクでも、2020年に熱波が
発生しました。
最高気温は、一部で38度に達し、北極圏としては記録的な数字となりました。
その時には、川で水浴びを楽しむ人までいました。 しかし、それでも、地面の
奥深くは、ずっと凍結したままでした。 この地域は、いわゆる永久凍土地帯。
シベリアの他、北ヨーロッパ・カナダ・アラスカなど、もっと南の地域も、含まれ
ます。 アラスカのフェアバンクス近郊にある、永久凍土に掘られたトンネル。
まるで、氷河期にタイムスリップしたように感じられる場所です。
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ここでは私たちの未来を知る鍵となる、重要な痕跡が見られます。 4万年前
から1万年前に形成された、地層です。 極度に気温の低い厳しい環境が、
このような永久凍土をつくり出しました。
永久凍土には、何万年に及ぶ、地球の歴史が保存されています。 中には、
大量の植物が閉じ込められている事が分かります。 それは、永久凍土が、
いわば、時限爆弾である事を意味します。
かつて、植物が大気から取り込んだ炭素も、閉じ込められているからです。
これは、枯れかけた植物が、氷漬けになって、そのまま保存された例です。
凍土がとければ、植物は腐敗します。 そして蓄えられていた炭素が、二酸化
炭素やメタンとして、大気中に放出されます。 永久凍土には、膨大な炭素が
含まれています。 その量は、大気中の炭素の2倍です。
永久凍土の一部がとけてCO2やメタンが放出されれば、気温が上がり、更に
永久凍土が、とけだします。 終わりのない悪循環が繰り返されて、温暖化は
とめどなく進行してしまいます。
永久凍土は気候変動に重大な影響を及ぼす可能性を、はらんでいるのです。
フェアバンクス近郊の森です。 ここでは地面が、既に、とけ始めています。
表面を踏むだけでも、明らかです。
この森の地面は、少なくとも40年ほど前までは、ほぼ平らだったはずです。
しかし、ここ、20年から25年の間で、土壌が緩んでしまいました。 かなりの
スピードで進行しています。 森の土台が、文字通り、とけています。
もはや真っ直ぐ立っている木は、ほとんどありません。 彼が注目しているのは
土壌の温度です。 永久凍土の安定性は、土壌の温度にかかっています。
氷点下5度以下ならば安定していますが摂氏1度以上だと不安定になります。
永久凍土が健全かどうかは、温度を測れば分かるのです。
森の中に、土壌の温度の測定器が設置されました。 数センチから数メートル
の深さにセンサーが埋められ、1年中、データを集めています。 最近では、
地表付近が凍るのは、冬だけになっています。
夏には、完全にとけてしまい、とけ始める時期も、年々、少しずつ早まってい
ます。 表面がとける事で、熱は地下深くまで届くようになり、永久凍土は、
毎年、10から15センチずつ失われています。
彼は、アラスカ・カナダ・ロシアの300以上の測定ポイントで、観察しています。
その結果、アラスカ北部など世界で最も寒い地域で最も温暖化のスピードが
速い事が分かりました。
これらの地域では、地表どころか、深さ20メートルの土壌でさえも、温度が3度
以上、上がっているのです。 永久凍土は、今世紀の末には、ほとんどが、
とけてしまう可能性があるとも、いわれています。
永久凍土地帯と北極圏は、動物たちの生息地が、特に脅かされている地域
でもあります。 温暖化の最初の犠牲となるかも知れないのは、ここにすむ
動物たちです。
私たちが地球温暖化を、このまま進行させれば、北極から寒冷な気候は、
失われます。 それは、そこでしか生きられない動物たちを、絶滅に追い込む
事なのです。
気候変動によって生態系が脅かされ、絶滅の危機に瀕している動物たちは、
世界各地にいます。 オーストラリアで最も標高の高い地域にあるコジオスコ
国立公園。 冬には、雪が降ります。
この場所では、絶滅の危機に瀕した、ある動物を救うための、新しい試みが
始まっていました。 罠の結果にワクワクているのは、生物学者の2人です。
彼らは、目当ての動物を20年研究していますが、まだ、野生の姿を見た事が
ありません。 ブーラミスという有袋類です。 オーストラリア南東部に、2600匹
ほどしか生息していません。
そのほとんどが、道路とスキー場に挟まれた、このコジオスコ国立公園で暮ら
しています。 気候変動により、最近では、この場所でも雪が少なくなってきて
います。 意外な事に、雪が減る方が、寒さは厳しいのです。
雪は断熱材になるので、50センチ以上積もると、雪の下の温度は零度ほどに
とどまります。 逆に雪がないと地表は氷点下20度にもなるので、ブーラミスは
春まで生き延びる事ができません。
雪の少ない冬が2回続くだけでも、ブーラミスは、絶滅してしまうかも知れない
のです。 ブーラミスは、絶滅の危機に瀕しています。
そして、気候変動が急速に進行しているため、こうした動物たちを保護する
計画も、従来のやり方では不十分になっています。 新しい発想と戦略が
必要です。
研究チームは、手がかりを得ようと、ブーラミスの祖先が暮らしていた環境を
調べる事にしました。 そして、その顎の骨の化石から、2000万年以上前の
生息環境を、知る事ができました。
当時、オーストラリアは乾燥した大陸では、ありませんでした。 ほとんどが、
熱帯雨林に覆われていたのです。 ブーラミスの祖先も、今とは異なる暮らしを
していました。
ブーラミスの種の系統を遡ると、祖先は、低地の熱帯雨林にいた動物だったと
分かりました。 そこに、ヒントがあります。 2500万年もの間、快適に暮らして
いた低地の熱帯雨林に戻せば、ブーラミスは生きやすいのかも知れません。
こうして、一風変わったプロジェクトが動き出しました。 ブーラミスを、その
祖先がいた環境に近い、低地の森林地帯に移そうと、いうのです。
絶滅しないうちに、次のステップへと進まなければなりません。 この地域には
まだ2000匹ほど生息しているようなので、その一部を、低地の森林地帯に
つくった施設に移します。 そこで大切に育て、繁殖を目指すのです。
絶滅危惧種を移動させるのは、1つの方法です。 しかし、人類を含む全ての
生き物を救うには何より、まずCO2の排出を大幅に削減する必要があります。
一部の生態系は、既に、限界を迎えようとしています。 時間はありません。
地球の歴史を振り返って分かる事は、温暖化は環境を根本的に変えてしまう
という事です。
温暖化によって、地球全体で、気候区分の移動が起こっています。 地理の
授業で習った、従来の気候区分は変わってしまい、全体として徐々に北極や
南極の方向に移動しているのです。
そして、これまで、最も暑かった赤道付近には、かつてないほど暑い、新しい
気候が生まれつつあります。 現在、地球上に生活する、80億人の人間。
私たちは、過去の温暖化について、学ばなければなりません。
それは、現在の気候変動がもたらす影響を理解し、未来に向けて対処して
行くためには、欠かせない事なのです。
世界中で猛威を振るう、多くの災害。 私たちは、地球温暖化の時代を生きて
います。 人間が、全く住めなくなる可能性があります。 未来に備え、過去に
起きた温暖化が、研究されています。
人間の体は、2割小さくなるかも知れません。 温暖化の歴史が繰り返される
のを、どうすれば防げるのでしょうか? 過去を学ぶ事で現在を理解し、未来を
よりよい方向へ導く。 これが、新しい科学です。
温暖化で生態系は、どのように変化するのでしょうか? 今まで私たちは、
樹木に頼る事ができました。 しかし、これからは、そうは行きません。
生き物たちにとって、これは、時間との戦いです。
今の気候変動は生き物たちにとって、あまりにも急速です。 太古の時代にも
存在した、温暖化の時代。 今の地球で同じ事が起これば、どうなってしまう
のでしょうか?
アメリカ北西部、ワイオミング州にある、ビッグホーン盆地。 不毛な荒野に
見えますが、昔から、そうだったわけではありません。
1人の古生物学者が、かつて、この地を覆った、超高温の時代の痕跡を、探し
ています。 ここは、温暖化の影響が、特に著しかった地域です。 私たちは、
30年前から、この地域で温暖化が哺乳類に与えた影響を、調べて来ました。
作業は忍耐の連続です。1日かけて見つけられる化石は、せいぜい1個です。
8時間を費やして、目当ての化石が、ようやく1個です。
ビッグホーン盆地の化石と堆積物が教えてくれるのは、5600万年前の地球の
姿です。 それは、極端な温暖化の時代でした。 当時、地球は現在とは全く
異なる、温室のような状態でした。
1万年ほどの間に平均気温は、5度も上昇しました。原因は火山の噴火による
大量の温室効果ガスの放出とする説が有力です。 海水の温度も上がった
結果、水中の酸素濃度は低下し、生き物が、すめなくなりました。
気温の上昇は、陸上でも、生態系のバランスを変化させました。 この時代は
暁新世(ぎょうしんせい)・始新世(ししんせい)境界温暖極大イベント (PETM)
と呼ばれます。
PETMは、温室効果ガスによって、地球規模の温暖化が起こった時代です。
それは私たちが、今、置かれている状況と似ています。
PETMを理解する事は、今後の地球環境に、どんな変化が起こり、生物に、
どんな影響が生じうるのかを知るのに、役立ちます。
PETMが私たちの未来の予想図とされるのは、その温暖化の進行の速さから
です。 1万年で5度という気温上昇は、地球の歴史の中でも際立っています。
PETMの時代、生き物たちは、気温の上昇に、どう反応したのでしょうか?
その痕跡が、ワイオミング州で発見されています。 これは歯の一部です。
大きな歯ですね。 牛くらいの大きさのコリフォドンという哺乳類です。
想像できますか? 見つかるものは、全て巨大なパズルの1つのピースです。
ここから知りたいのは、5600万年前に起きた環境の激変が、当時の哺乳類に
どう影響したのか? それに、適応できたのか、どうかです。 ビッグホーン
盆地の外れにある、この家で、発見した化石の分析が行われています。
これまでで最も重要な発見は、エクトシオンという、絶滅した草食動物の顎の
骨の化石です。 これらは、異なる地層から発見されたもので、生きていた
年代は、それぞれ異なっています。
真ん中のは、5600万年前、PETM時代のもので、下のは、更に100万年前の
ものです。 上のが1番新しく、5500万年前です。 エクトシオンは、このような
姿をしていたと考えられます。 気になるのは、下顎の骨の大きさです。
歯が生えそろっているので、3つとも、大人の化石ですが、なぜか、真ん中の
だけ、他より、ずいふん小さいのです。 PETMの時代の顎の骨は、前後の
時代と比べて、小さくなっています。
気温が上昇したPETMの時代に、それなりの大きさがあった動物でも、体が
小さくなってしまったのです。
このエクトシオンは、犬のビーグルくらいの大きさでしたが、温暖化が進み、
ピークを迎えた結果、チワワくらいの大きさになってしまったという事です。
非常に驚きました。 PETMの期間には、この大きさが種として、一般的な
サイズになっていたのです。 他の時代には見られません。
PETMの時代には、他の哺乳類にも、小型化が起こりました。 馬の祖先に
あたる動物の大腿骨にも、違いが見られます。
明らかに、何か大きな異変が起きたのです。 まだ詳しくは分かりませんが、
気候や植物の変化が、動物の小型化を引き起こしたのでしょう。
20万年にわたって続いたと推定される、PETM。 その始まりでは、さまざまな
種類の木からなる森林が消え、亜熱帯の乾燥地帯に変わりました。 動物の
小型化は、森林の減少による、食料不足への適応だったと考えられます。
私たちにも同じ事が起こるのでしょうか? 1950年代以降、人類が大気中へ
排出した炭素の量については、詳しく記録されています。 毎年、毎年です。
もし、現在のペースで炭素の排出が続いたなら、あと200年ほどで、地球は、
PETM並みに温暖化するでしょう。 200年といえば人間の6~7世代ほどです。
遠い先の話ではありません。
現在、およそ90万種の動物が、絶滅の危機に瀕しています。 多くは、人類に
よる生息地の破壊が原因ですが環境の変化も脅威です。 生き物たちは地球
温暖化による季節の変化にも、速やかに適応しなければ生き残れません。
冬は、より短く、夏は、より暑くなっています。 このアルプスマーモットのような
寒さに適応した動物は、長期的には滅びて行くでしょう。
アフリカの動物たちは、暑さや干ばつに適応して来ましたが、人間の活動と
気候変動が生息地を狭めています。 ハンターと獲物、動物と植物といった
バランスが崩れて行く事に、生き物たちは、どう反応しているのでしょうか?
PETMの頃に起きた小型化による適応は、既に始まっているのでしょうか?
気候変動の影響が大きい地域の1つ南アフリカ。 暑く乾燥した、この地域は
温暖化が進むと、更に乾燥して行くと予想されています。
科学者たちは、ここで動物が環境の変化に、どう応じているかを研究してい
ます。 発信機をつけたミーアキャットを探しています。 電波の受信状況から
見て、近くに群れがいます。
ミーアキャットの生態調査は、ここ、カラハリ砂漠で30年ほど前から続けられて
いる、長期の研究プロジェクトです。 ミーアキャットを知るためには、まず信用
されなければなりません。
彼らは、ミーアキャットの体重を測定し、気温など、環境条件との関連を調べて
います。 この15年間は、気温が42度を超える日が増え、その事が影響を
及ぼしています。
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ミーアキャットの体重は、暑くなるにつれて、変化しているのでしょうか?
気温が、35度や40度以上になると、赤ちゃんの体重が、あまり増えなくなる
事が分かりました。
生後3カ月のミーアキャットの赤ちゃんの平均体重は、1990年代半ばから、
減って行く傾向にあります。 ミーアキャットの赤ちゃんが小さくなっている事と
気温の上昇は、どう関係しているのでしょうか?
暑さで大人が狩りをする回数が減り、子供の餌が減ったという仮説が、立て
られましたが、調査したところ、餌の量は変わっていませんでした。もう1つの
可能性は、暑さで、餌に含まれる水分が減った事です。
若い個体は、体温を低く保つために、より多くの水分を消費すると、考えられ
ます。 ミーアキャットが小型化しつつあるのか?結論は、まだ出ていません。
遺伝的に適応するには、通常、何世代もかかります。
PETMの時も、小型化には、1万年を要しました。 過去と現在の気候変動の
違いは、そのスピードです。 地質学的な変化は数千年単位の出来事ですが
最近の気候変動は、数年単位で起きています。
急速な変化は、特に大型の哺乳類に大きな影響を与えます。 子供をつくれる
ようになるまでに時間がかかり、世代交代のスパンが緩やかなので遺伝的な
適応に時間がかかるからです。 更に暑さと干ばつは食糧難をもたらします。
ワイオミング州のビッグホーン盆地。古生物学者の彼女らが、PETMの時代の
化石を探しています。 未来を知る手がかりとなるからです。 乾燥した大地の
堆積物には、動物だけでなく、植物の痕跡も含まれています。
過去の気候変動は植物には、どんな影響を与えたと思いますか? 化石から
PETM以前は、さまざまな種類の木が密生していた事が分かりました。 しかし
その後、気温の上昇により、乾燥に強い種に置き換わりました。
現在のワイオミング州にあたる場所には、北米大陸南部の植物が、やって来
ました。 当時は、地球全体で、植物の分布が変わったのです。
氷が消えたPETM時代の北極圏には、シダ類や巨大なアメリカスギやイチョウ
の木が。 南半球では、後に、ヨーロッパ南部となる地域にまで、熱帯雨林が
広がり始めました。 植物の生息域は、1000キロ以上も、移動したのです。
ワイオミング州では、PETM以前に生育していた植物の化石も、見つかって
います。 スズカケノキの葉も、その1つです。 この植物は、気温上昇に耐え
られず、姿を消しました。 代わりに広がったのは、熱帯の植物です。
ここが、葉の付け根で、葉脈が、こちら側へ2本伸びています。 これは、マホ
ガニーですね。 熱帯に生えるマホガニーやヤシの木、マメ科の植物も数多く
発見されています。 彼女は、ある事に気が付きました。
葉には小さな穴が、たくさん開いていたのです。 虫に食われた跡が残って
いました。 他の時代のものより、際立って多いように思えたので、見つけた
葉の全てを、1枚1枚、詳しく観察しました。
どんな風に穴が開き、どれほど被害を受けているか、調べたのです。 そして
他の時代の化石と比較しました。 PETMの頃は、虫食いが際立っています。
原因は何でしょうか? 温暖化で昆虫の数が増えたのか?それとも、植物が
減ったため、残った植物は、より多くの昆虫に、食べられるようになったので
しょうか? 別の仮説も考えられます。 もっと厄介な仮説です。
二酸化炭素の濃度が高まると、植物に含まれる栄養素は減るのです。
特に窒素の量が減ります。 動物にとって窒素は、体内の酵素やタンパク質・
DNAをつくるのに欠かせません。
葉の中の窒素が少なくなれば昆虫は、より多くの葉を食べる必要があります。
二酸化炭素・CO2の増加によって、植物に含まれる栄養素が減少する事は、
現代の温暖化でも起きているはずです。
PETMの時代に、昆虫による植物の食害が増えたという事実は、人口の増加
による食糧難に直面している現代の我々にも、深刻な問題です。
地球の人口は、今世紀の中頃には100億人に達する見込みです。 収穫量の
多い作物の重要性は、ますます高まります。
現在、人類が引き起こしているCO2の増加のペースは、PETMの時代の、
なんと、10倍から100倍にも及ぶのです。
地球は、記録的な速さで温暖化しています。 CO2の排出量を大幅に削減
できなければ、平均気温は、今世紀の末には、3度以上も上昇するという
試算もあります。
そうなれば、大きな影響を受けるのは、農作物に、とどまらないでしょう。
温暖化によって、生態系のバランスが崩されている場所の1つが、森林です。
ドイツ中央部のハルツ山地では、害虫の増加で、森を広範囲に伐採せざるを
得なくなっています。 森を守ろうと闘い続けているのが、森林を管理する
彼です。
キクイムシが木を食い荒らしています。 気候変動の結果、暑さを好む昆虫が
大量発生しているのです。 気温が上がり、雨が少なくなって、森の木々は
弱っています。 その結果、害虫が、はびこります。
森の至る所で、見られる状況です。 特に、このトウヒの木は、害虫と乾燥に
悩まされています。 成長が早いので木材用に盛んに植えられて来ましたが、
根が浅いため、土壌の深い所にある水まで届かないのです。
衛星画像も、森林の急速な衰えを示します。 これは、2018年に撮影された
画像で、青い部分は手付かずの森です。 トウヒやブナの木々が生きている
のが、分かります。
隣は、同じ場所の2021年の状態で、赤や黄色は木が枯れてしまった所です。
森全体の3分の1が枯れています。 彼らは、ただ森がなくなるのを待つので
はなく、森の木の種類を変える事で、気候変動に立ち向かおうとしています。
トウヒよりも暑さに強いカラマツやブナなどの在来種や、もともと暖かい地域に
生えていたアカガシワやベイマツを、植えているのです。 森林は、地球上で
最も重要な生態系の1つです。
南極以外の全ての大陸で生育し、陸地の、およそ3分の1を占めています。
森林は水を供給し、涼しさを保ち、土壌の浸食を防ぎ、気候を左右します。
季節の変化を映し出し、植物や動物を育みます。
地球温暖化によって、森林の乾燥が続けば、生態系に危機が訪れます。
ビッグホーン盆地の化石が、それを物語っています。 5600万年前、地球が
温暖化していた時代の植物です。
私の指についたのは、木炭の化石です。 現代の木炭と同じように、植物が
燃えてできたもので、黒い残留物が出ます。 この木炭は、今から5600万年
前に、できたものです。
その頃には、CO2の増加による温暖化で、多くの火災が起こったと考えられ
ます。 空気が澄んでいれば、背後にそびえるビッグホーン山脈が、美しく
見えるはずです。
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でも最近は、カリフォルニアで山火事が多いせいで、空気が汚れ、視界が、
とても悪くなっています。 私たちが過去から学び、何か行動を起こさなければ
更に悪い状況が、当たり前のものになって行くでしょう。
ニュースより ‘キャンプ場の火災が、爆発的に広がったため、周辺の住民は
避難しています’
2021年に、カリフォルニア州では、およそ9000件の森林火災が起きました。
世界の森林火災は、今世紀末までに、50%増加するとも、いわれています。
2019年には、オーストラリアで、壊滅的な火災が発生しました。
数カ月に及ぶ山火事で、北海道を上回る面積の森が失われ、30億匹もの
動物が被災しました。 ニューサウスウェールズ州のブルーマウンテンズ国立
公園も、広範囲が焼失しました。
このオーストラリアの火災で、放出されたCO2は、およそ7億トンに達します。
ドイツの2020年、1年間の排出量と、ほぼ同じです。 CO2を減らすには、
健全な森林が欠かせません。 木は、成長のためにCO2を吸収するからです。
葉の中で、CO2から糖分をつくり、栄養にします。 同時に、私たちの呼吸に
必要な酸素も、つくり出します。 木は、二酸化炭素を吸収し、そこから炭素を
葉や枝、幹、根に蓄えます。
そして、それは、長い生涯を終える時まで、放出されません。 木は、炭素を
吸収する重要な役割を担っています。 木々が生きている事は、温暖化への
ブレーキとなるのです。
今後、私たちは、これまで以上に、森林の力に頼る事になるでしょう。
そこで、植物生態学者の彼は、CO2濃度の急激な上昇に、この先、森林が、
どう応えるかを研究しています。
そのため、シドニー近郊のユーカリの林に、実験場をつくりました。 9年前から
ユーカリをCO2濃度の高い空気に、さらしています。 予想される2050年頃の
地球よりも、高いレベルです。
こっちの囲いがそうで、あちらの真ん中の2つも、そう。高い濃度のCEOを与え
ています。その他は、比較のために通常の大気に触れさせているだけです。
理論的には大気中のCO2濃度が高いほど木は、それを肥料として早く成長し
より多くのCO2を吸収すると、考えられます。 この装置にユーカリの葉を入れ
ます。 葉が、光合成のために取り込む、CO2の量を測ってみます。
CO2濃度を高めた中で育てたユーカリの葉が、どれほどCO2を取り込んだか
測定すると、明らかに普通の葉より、吸収量は多くなっていました。
濃度を高めた区域では、手を加えていない区域と比べ、植物が光合成を、
およそ19%、活発に行っています。
木が、大気中のCO2を吸収し続けて行くためには、炭素を蓄え、大きく成長
する必要があります。 そのため、この実験によって、木は早く成長すると
考えられていましたが…。 実際には、木が大きく成長は、していません。
上の方は、光合成が活発なので伸びていますが、幹は太くなっていません。
余分なCO2は、成長のために使われず、放出されていました。 飽和状態と
考えられます。 余分なCO2は、根から再び放出されます。
つまり、大気中のCO2が増えても、森林が吸収する量は、それに合わせて、
増えるわけではないのです。 私たちは、CO2が増えれば木も、より成長し、
吸収する量も増えると予想していました。 しかし、そうではありませんでした。
つまり私たちは、長い間、樹木に頼って来ました。 しかし、CO2が増え続ける
これからは、そうは行きません。 ユーカリのCO2を吸収する能力は、いずれ
限界にぶつかってしまうようです。
では、オーストラリアのユーカリだけでなく、アジア・アフリカや南米に広がる
熱帯雨林でも同じなのでしょうか? CO2の吸収において、特に重要な役割を
果たしているのは、アマゾンの熱帯雨林です。
しかし、ここでも、過去30年の間に、CO2の吸収能力が、低下している事が
分かっています。 CO2が増えると、暑さと乾燥のため、木が枯れるのが早く
なります。
そして、枯れた木は腐る時に、それまで蓄積していた、炭素を放出します。
このプロセスが、気候変動で加速されると、アマゾンは、将来的には吸収する
より、多くのCO2を放出してしまう可能性もあるのです。
もしアマゾンの熱帯雨林がCO2を吸収するのではなく、排出するよになったら
地球の気候は劇的に変化します。 アマゾンの熱帯雨林のおかげで、地球の
温暖化は、まだ、現在のレベルに、とどまっています。
私たちの頼みの綱なのです。 将来、その歯止めを失ったら、温暖化は、より
急速に進行するでしょう。木 々が朽ちるのが早くなっている他にもアマゾンは
大きな問題を抱えています。 森林の伐採や、焼き畑です。
切り開かれた地域は、既にCO2の排出量は、森が吸収できる量を、上回って
います。 このまま森林が減少して行けば、アマゾンの熱帯雨林の役割は、
大きく転換する事になります。
木は、1日に数百リットルの水を蒸発させ、それが雨となって他の場所に降り
注ぎます。 生態系の原動力となる水分を、循環させているのです。
この循環を持続するには、森林と、健康な木々が欠かせません。 生態系が
存続の危機にさらされているのは、アマゾンだけではありません。 北極圏も、
極めて深刻な状況にあります。
平均気温が、世界の他の地域の3倍近い速さで、上昇しているのです。
夏、北極海の大部分には、もはや氷がありません。 白い氷には太陽の光を
反射して、宇宙空間に戻す働きがあります。
そのため、氷がなくなると、太陽の光が吸収されて気温が上昇し、氷が、更に
とけるという、悪循環に陥ります。 CO2を1トン、大気中に排出するごとに、
海面に浮かぶ氷は、およそ3平方メートルが、とけます。
そのような状況では私たちが、どんなに温暖化防止策を講じようとも今世紀の
半ばには、少なくとも一時的には北極が氷のない状態になる事は、避けられ
ないでしょう。 北半球では、既に記録的な暑さが発生しています。
2020年7月、ノルウェーのスピッツベルゲン島では、22度弱を記録しました。
平年ならば、5度から8度です。 シベリアのヤクーツクでも、2020年に熱波が
発生しました。
最高気温は、一部で38度に達し、北極圏としては記録的な数字となりました。
その時には、川で水浴びを楽しむ人までいました。 しかし、それでも、地面の
奥深くは、ずっと凍結したままでした。 この地域は、いわゆる永久凍土地帯。
シベリアの他、北ヨーロッパ・カナダ・アラスカなど、もっと南の地域も、含まれ
ます。 アラスカのフェアバンクス近郊にある、永久凍土に掘られたトンネル。
まるで、氷河期にタイムスリップしたように感じられる場所です。
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ここでは私たちの未来を知る鍵となる、重要な痕跡が見られます。 4万年前
から1万年前に形成された、地層です。 極度に気温の低い厳しい環境が、
このような永久凍土をつくり出しました。
永久凍土には、何万年に及ぶ、地球の歴史が保存されています。 中には、
大量の植物が閉じ込められている事が分かります。 それは、永久凍土が、
いわば、時限爆弾である事を意味します。
かつて、植物が大気から取り込んだ炭素も、閉じ込められているからです。
これは、枯れかけた植物が、氷漬けになって、そのまま保存された例です。
凍土がとければ、植物は腐敗します。 そして蓄えられていた炭素が、二酸化
炭素やメタンとして、大気中に放出されます。 永久凍土には、膨大な炭素が
含まれています。 その量は、大気中の炭素の2倍です。
永久凍土の一部がとけてCO2やメタンが放出されれば、気温が上がり、更に
永久凍土が、とけだします。 終わりのない悪循環が繰り返されて、温暖化は
とめどなく進行してしまいます。
永久凍土は気候変動に重大な影響を及ぼす可能性を、はらんでいるのです。
フェアバンクス近郊の森です。 ここでは地面が、既に、とけ始めています。
表面を踏むだけでも、明らかです。
この森の地面は、少なくとも40年ほど前までは、ほぼ平らだったはずです。
しかし、ここ、20年から25年の間で、土壌が緩んでしまいました。 かなりの
スピードで進行しています。 森の土台が、文字通り、とけています。
もはや真っ直ぐ立っている木は、ほとんどありません。 彼が注目しているのは
土壌の温度です。 永久凍土の安定性は、土壌の温度にかかっています。
氷点下5度以下ならば安定していますが摂氏1度以上だと不安定になります。
永久凍土が健全かどうかは、温度を測れば分かるのです。
森の中に、土壌の温度の測定器が設置されました。 数センチから数メートル
の深さにセンサーが埋められ、1年中、データを集めています。 最近では、
地表付近が凍るのは、冬だけになっています。
夏には、完全にとけてしまい、とけ始める時期も、年々、少しずつ早まってい
ます。 表面がとける事で、熱は地下深くまで届くようになり、永久凍土は、
毎年、10から15センチずつ失われています。
彼は、アラスカ・カナダ・ロシアの300以上の測定ポイントで、観察しています。
その結果、アラスカ北部など世界で最も寒い地域で最も温暖化のスピードが
速い事が分かりました。
これらの地域では、地表どころか、深さ20メートルの土壌でさえも、温度が3度
以上、上がっているのです。 永久凍土は、今世紀の末には、ほとんどが、
とけてしまう可能性があるとも、いわれています。
永久凍土地帯と北極圏は、動物たちの生息地が、特に脅かされている地域
でもあります。 温暖化の最初の犠牲となるかも知れないのは、ここにすむ
動物たちです。
私たちが地球温暖化を、このまま進行させれば、北極から寒冷な気候は、
失われます。 それは、そこでしか生きられない動物たちを、絶滅に追い込む
事なのです。
気候変動によって生態系が脅かされ、絶滅の危機に瀕している動物たちは、
世界各地にいます。 オーストラリアで最も標高の高い地域にあるコジオスコ
国立公園。 冬には、雪が降ります。
この場所では、絶滅の危機に瀕した、ある動物を救うための、新しい試みが
始まっていました。 罠の結果にワクワクているのは、生物学者の2人です。
彼らは、目当ての動物を20年研究していますが、まだ、野生の姿を見た事が
ありません。 ブーラミスという有袋類です。 オーストラリア南東部に、2600匹
ほどしか生息していません。
そのほとんどが、道路とスキー場に挟まれた、このコジオスコ国立公園で暮ら
しています。 気候変動により、最近では、この場所でも雪が少なくなってきて
います。 意外な事に、雪が減る方が、寒さは厳しいのです。
雪は断熱材になるので、50センチ以上積もると、雪の下の温度は零度ほどに
とどまります。 逆に雪がないと地表は氷点下20度にもなるので、ブーラミスは
春まで生き延びる事ができません。
雪の少ない冬が2回続くだけでも、ブーラミスは、絶滅してしまうかも知れない
のです。 ブーラミスは、絶滅の危機に瀕しています。
そして、気候変動が急速に進行しているため、こうした動物たちを保護する
計画も、従来のやり方では不十分になっています。 新しい発想と戦略が
必要です。
研究チームは、手がかりを得ようと、ブーラミスの祖先が暮らしていた環境を
調べる事にしました。 そして、その顎の骨の化石から、2000万年以上前の
生息環境を、知る事ができました。
当時、オーストラリアは乾燥した大陸では、ありませんでした。 ほとんどが、
熱帯雨林に覆われていたのです。 ブーラミスの祖先も、今とは異なる暮らしを
していました。
ブーラミスの種の系統を遡ると、祖先は、低地の熱帯雨林にいた動物だったと
分かりました。 そこに、ヒントがあります。 2500万年もの間、快適に暮らして
いた低地の熱帯雨林に戻せば、ブーラミスは生きやすいのかも知れません。
こうして、一風変わったプロジェクトが動き出しました。 ブーラミスを、その
祖先がいた環境に近い、低地の森林地帯に移そうと、いうのです。
絶滅しないうちに、次のステップへと進まなければなりません。 この地域には
まだ2000匹ほど生息しているようなので、その一部を、低地の森林地帯に
つくった施設に移します。 そこで大切に育て、繁殖を目指すのです。
絶滅危惧種を移動させるのは、1つの方法です。 しかし、人類を含む全ての
生き物を救うには何より、まずCO2の排出を大幅に削減する必要があります。
一部の生態系は、既に、限界を迎えようとしています。 時間はありません。
地球の歴史を振り返って分かる事は、温暖化は環境を根本的に変えてしまう
という事です。
温暖化によって、地球全体で、気候区分の移動が起こっています。 地理の
授業で習った、従来の気候区分は変わってしまい、全体として徐々に北極や
南極の方向に移動しているのです。
そして、これまで、最も暑かった赤道付近には、かつてないほど暑い、新しい
気候が生まれつつあります。 現在、地球上に生活する、80億人の人間。
私たちは、過去の温暖化について、学ばなければなりません。
それは、現在の気候変動がもたらす影響を理解し、未来に向けて対処して
行くためには、欠かせない事なのです。
2023年05月22日 (月) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「集中したい時にすることは?」
コロッセオ。 ローマに、そびえる巨大な円形闘技場です。 今から、およそ
2000年前に建てられました。 古代ローマの建築技術のシンボルです。
技術革新を、極限まで推し進めた見本といえます。
建設にあっては、きめ細かい工程管理と、優れた工学技術が欠かせません
でした。 古代ローマの技術の結晶が、今も生き続けているのです。
コロッセオで繰り広げられた剣闘士の戦いや、猛獣との格闘、更には、船の
戦いを再現する模擬海戦を華々しく盛り上げるため、革新的な仕掛けが導入
されました。
血を求めて絶叫する観衆や、喝さいを浴びる皇帝の姿が目に浮かびます。
2000年の時を経て、今なお、その姿をとどめるコロッセオ。 古代ローマの
文明の卓越したきらめきが、語りかけてきます。
イタリアの首都ローマ。 古代ローマ帝国の遺跡が、無数に点在しています。
中でも古代ローマの巨大円形闘技場コロッセオは、例年600万人もの観光客
が訪れる人気スポットです。 コロッセオの広さは、2万3000平方メートル。
深さ12メートルもの基礎の上に建っています。 これは、オリンピックサイズの
プール、50個分にも相当します。 入り口の数は80、観客席は56列、5万人を
収容できました。
深さが6メートルもある迷路のような地下部分には、演出効果を上げるための
装置が、備えられていました。 木製の床には落とし戸があり、扉が開くと、
ライオンやヒョウが、突然、床下から飛び出してくる仕掛けでした。
コロッセオは、一体、なぜ? そして、どうやって造られたのか? その理由を
探るため、建設の少し前の時代まで、さかのぼりましょう!
西暦64年。 当時、ローマを治めていたのは、暴君として知られた皇帝のネロ
でした。 ネロは、即位した当初は人気がありました。 民衆に食べ物が行き
渡るように努め、娯楽も提供したからです。
しかし、統治が長くなるにつれ、ネロは、最も重要な政治機関である元老院を
次第に無視するようになっていました。
この年の7月、そのネロにとって転機となる悲劇が起こりました。 ローマ大火
です。 ローマの街は、丸1週間、燃え続け、壊滅的な状態となりました。
娯楽のための施設も、炎に包まれて失われたのです。
人々は悲しみに暮れながらも、再建を始めました。 そして娯楽の場も、すぐに
復興する事を望みました。しかしネロが、まだ煙が上がる廃墟に建設を決めた
のは、ドムス・アウレアと呼ばれる、巨大な宮殿でした。
ネロは宮殿を建てるために、元老院議員たちの土地を、没収したのです。
奪われた側にとっては一大事です。 50万平方メートルにも及ぶ大宮殿には
大きな人工の湖と、巨大な皇帝の像がありました。
帝国の財源が、ひっ迫した結果、元老院は、ついに反旗を翻します。
元老院は、ネロを暴君と見なして、クーデターを起こします。 西暦68年、追わ
れたネロは、自害しました。
ネロの死後、3人の皇帝が相次いで即位するものの、政情は不安定なまま
でした。そんな時、1人の人物が現れました。フラウィウス・ウェスパシアヌス。
後に、コロッセオを建てる事になる、将軍です。
ウェスパシアヌスは、ローマから遠く離れた属州の1つ、ユダヤの反乱鎮圧を
命じられていた軍人でした。 その軍事手腕が高く評価され、皇帝の有力な
候補となったのです。
ウェスパシアヌスは、エルサレムの包囲を、息子ティトゥスに任せ、西暦70年、
ローマ皇帝として、元老院から承認を受けます。
貴族の出身ではないウェスパシアヌスが、皇帝として認められるためには、
民衆の心をつかむ必要がありました。 自らの力と、正当性を示す手段として
巨大なコロッセオの建設は理想的でした。
64年の大火以降、ローマには、円形闘技場がありませんでした。 娯楽の
復活は、社会のあらゆる階層から支持を得るための最も確実な方法でした。
西暦70年、ウェスパシアヌスと技術者たちは、史上最も壮大な円形闘技場の
設計を始めました。 広さ、およそ2万平方メートル、観客席は5万人分です。
ウェスパシアヌスが望んだのは、ローマの力の象徴です。
それは、自分の時代はもとより、子々孫々残る建造物であるべきでした。
問題は、建設場所でした。 当時のローマは、建物が密集していたため、
人々の家を取り壊さずに造れるような場所は、ほとんどありませんでした。
ある場所を除いて…。 ネロの死後、ドムス・アウレアは、半ば取り壊され、
広大な邸宅の跡地と、庭園だけが残っていました。 大きな建造物を造るには
まさに絶好の土地でした。
ウェスパシアヌスは人工の湖の跡地に円形闘技場を建てる事に決めました。
あの場所にコロッセオを建てるのは、政治的な意味では、反ネロを宣言する
事でした。 場所は理想的でした。 しかし、問題がありました。 地盤です。
問題は地盤が粘土質だった事です。 粘土は乾くと縮み、湿ると膨らみます。
上に建物を建てるには、不安定なのです。 地形も厄介です。 自然の谷が
堆積物で埋まった場所なので、地盤が弱いのです。
基礎の安定性を高め、巨大建造物を支えるためには、人工の基盤を築く
必要がありました。 それも、厚さが12メートルから13メートルにも及ぶ基盤
です。 深さ12メートルもの穴を、機械もなしに、人力で掘れるでしょうか?
常識では、考えられない事です。 ローマの技術者たちは、この難題を、どう
やって克服したのでしょうか? 1つの仮説は、こうです。
まず深さ6メートルの穴を掘り、そこにコンクリートを幅60メートルのリング状に
流し込みます。 次に、掘った際に出た3万トンの土を使い、穴の周りの地面を
盛り上げます。
続いて、最初のリングの上に、同じようなサイズのリングを、流し込みました。
この結果、12メートルの厚さを持つ、外周580メートルのコンクリートの基礎が
出来上がりました。必要なコンクリートの量たるや20万立方メートル以上です。
これほど大規模な土木工事は、ローマの都市建設で、初めての事でした。
古代ローマの技術力は、その並外れたスケールにとどまりません。
人工の基盤を造るために流し込まれたのは、極めて強度の高いローマンコン
クリートでした。
ローマの周辺には火山灰の土壌が多く、中でも、ポッツォラーナと呼ばれる
粘土を含んだ火山灰はコンクリートの強度や耐久性を増す材料になりました。
ローマンコンクリートは、石灰や砂・砂利などに、火山灰のポッツォラーナを
混ぜて作られました。 この混合物は、水を加えると化学反応を起こして硬く
なり、丈夫なコンクリートになります。
その耐久性は半永久的といっても、いいほどでした。 基礎が出来上がったら
次は建物自体の建設です。 ウェスパシアヌスが構想した巨大な円形闘技場
を造るには、膨大な労働力と資金が欠かせません。
その両方をもたらしたのは、息子ティトゥスです。 完璧なタイミングでエルサ
レムでの勝利を達成したのです。 皇帝は、帝国の財源が、底をついている
事を知っていました。 そこで、エルサレムの財宝に、目を付けたのです。
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ローマ軍は、エルサレムで略奪を行いました。 ローマにある、ティトゥスの
凱旋門に、その様子が描かれています。 兵士たちが、エルサレム神殿から
運び出した燭台や宝物は、溶かしてコインにされました。
戦利品は、コロッセオの建設資金となりました。 更にエルサレムを支配下に
取り戻した事で、皇帝の威光は高まりました。 エルサレムでの勝利がもたら
したのは、財宝だけではありません。 ローマ軍は捕虜も連れ帰って来ました。
ティトゥスはエルサレム周辺から、9万7000人ものユダヤ人捕虜を連れて来た
といわれます。 彼らを奴隷として売ったお金も、またコロッセオの建設に投じ
られました。 捕虜を売る事は、帝国にとって、まさに、金のなる木でした。
多くの歴史家は、ユダヤ人奴隷が、建設作業にも、大いに関わったと考えて
います。 コンクリートを流し込んだり、資材を運んだりといった、単純な力仕事
には、捕虜のユダヤ人が使われたと考えられます。
コロッセオの設計は革新的なものでした。観客席は高さ、およそ50メートルの
外壁の内側に、階段状に設けられました。 その重さの課題を解決するために
用いられたのが、空洞の多い構造です。
それまで円形闘技場は、丘の斜面や土手に造られました。 観客席は斜面を
利用して設けていたのです。でも、それでは建設場所が限られてしまいます。
ローマ人は、階段状の観客席を造る事で、問題を解決しました。
5万人を収容する観客席です。 最大の課題は、その重量でした。 そのため
構造に工夫が凝らされたのです。 ローマの建築家たちは、石で出来た巨大
円形闘技場の重さを支えられるよう、画期的な方法を編み出しました。
アーチ構造を、かつてない規模で重ねたのです。 アーチ構造は空間ができ
る分、建物自体の重量を軽くする事ができます。 運び込まれる資材も、それ
だけ少なくなるので、時間とお金の節約にもなります。
アーチ構造は軽いだけでなく、それ自体が、重さを支えられるという利点が
あります。 重さは、まずアーチの頂上の要石が受け止め、それを2本の柱が
支えます。
建設にあたっては、建物を長持ちさせるため、あらゆる事が慎重に検討され
ました。 柱に使われたのは、極めて頑丈な石材、トラバーチンでした。
トラバーチンは石灰質の岩石で、硬さがあり、かつ加工しやすいという利点が
あります。 よく乾燥させると、非常に硬くなり、大きな荷重に耐えられます。
柱に残された穴から、ローマ人がトラバーチンを、どうやって組み立てたかが
分かります。 その工程では、別の材料を大量に使う必要がありました。
鉄です。 石材の上部には、四角く刻んだ穴がありました。 隣り合った石を、
留め具で、つなぐためです。 穴の中には、溶かした熱い鉄を流し込みます。
鉄が冷えて固まると、石材同士をつなぐ、かすがいの役割を果たすのです。
この留め具のために、コロッセオで使われた鉄は、300トンにも上ると推定
されています。 アーチ構造がもたらした、もう1つのメリットは、繰り返しが
簡単という事です。
コロッセオの外壁は、3つの層で出来ていて、その全ての層が、同じアーチを
80並べる事で完結されたのです。 コロッセオは、極めてパターン化された
建物です。
作業工程は単純で1層目のアーチを完成させれば、あとは、ほぼ同じ繰り返し
です。 複数のチームが同時に作業できるため、コストや建設の日数も減らせ
ました。 アーチ造りは、シンプルな作業でした。
まず柱を立て、その上に木製の仮の枠を渡します。 枠に沿って石材を積み、
最後、アーチの頂上に要石を入れます。 要石が両端の力を受け止めるため
崩れる事はありません。
この作業を合計240回、繰り返す事で1周540メートルの巨大な楕円の外周が
造られました。 80のアーチが隙間なく、つながる事で、壁全体の強度が増し
ます。 隣り合うアーチ同士が支え合い、頑丈な外壁を形づくったのです。
とろこで、コロッセオの形が楕円形になったのは、技術的理由だけではありま
せん。 出し物の、何世紀にもわたる歴史も、踏まえていました。
それまで出し物が行われていた公共広場のフォロ・ロマーノは、ほぼ長方形で
死角がありました。 そのため、同じくらいのサイズで、死角のない形が求め
られたのです。
楕円の形なら、どの場所の観客にも、最適な視界を提供する事ができます。
もちろん、視界の確保には円形でもよいのですが、猛獣狩りや、馬に乗った
戦闘などを実施するには、直線の距離が足りませんでした。
楕円は、本来2つの点から導かれる幾何学的な形ですが、大きくなるほど
完全な円に近くなってしまいます。 そのためローマの技術者たちは、複数の
円を用いて計算を行い、現在の姿を導き出しました。
楕円の形には、観客同士も、お互いが、よく見えるという利点がありました。
コロッセオは、皇帝から奴隷まで、あらゆる階級が顔をそろえるローマ社会の
縮図であり、厳格なヒエラルキーに従っていた人々を、1つにまとめる手段と
なりました。
そこは人々が互いの身分や社会的位置づけを確認する場所でもありました。
一方で、皇帝が民衆と共にショーを観戦する事にも、意味がありました。
人々は、皇帝が自分たちと同じように楽しんでいるのを見て、親しみを覚えた
でしょう。 それも、また、コロッセオのねらいの1つでした。
皇帝ウェスパシアヌスは闘技場の大きさだけでなく美しさにもこだわりました。
外観には、古代ギリシャの3つの建築様式が、取り入れられました。
ローマの人々は、ギリシャの人間を見下す一方、ギリシャの芸術を限りなく
崇拝していました。 ローマ人の先祖は、言ってみれば、簡素な暮らしをする
農民でした。
彼らは、周辺を征服する過程で、洗練された文化と出会い、自分たちも洗練
されている事を示そうと、ギリシャの芸術を取り込んだのです。
建物の重さを支える1層目の柱は、ドーリア式と呼ばれる建築様式で造られ
ました。 重厚で、強さと雄々しさを表現しています。 2層目は、やや繊細な
イオニア式で、女性的といわれる様式です。
3層目は、更に軽く優美なコリント式です。 3の様式は全体で家族のイメージ
へと、つながるといわれています。 装飾は、これだけに、とどまりません。
より華やかな装飾が、人々を驚嘆させました。
2層目と3層目の外側のアーチの下には、金箔を施したブロンズの彫像が、
全部で160体も置かれました。 華々しい装飾は、ウェスパシアヌスが自らの
威光を、民衆に知らしめるためのものでした。
ギリシャ神話の神々を、かたどっていたであろう彫像の痕跡は、ほとんど
残っていません。 それは逆に、彫像が、どう使われていたかのヒントになる
かも知れません。
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彫像は恐らく、きちんとした台座には、固定されていなかったのでしょう。
必要に応じて設置したり、取り外したりしていた可能性があります。
アーチの部分に彫像が置かれていた痕跡が見当たらないのは、それが理由
かも知れません。 コロッセオは、その外観だけでも今も訪れる人々に感動を
与えます。 では、内側は、どうなっているのでしょうか?
内側もまた、外側と同じように、反復の方法で造られています。 トラバーチン
の柱が枠組みとなり、壁とアーチ状の天井を支えているのです。 環状の
回廊は、複数の放射状の回廊と交差しています。
交差させた回廊には、観客席の重みを支える目的がありました。 観客席は
見やすいように階段状に設計されました。 1階席は、30度の傾斜になって
います。 その上の部分は、40度です。
剣闘士の戦いのような白熱した接近戦を、観客は、できるだけ前の席で見た
がりました。 しかし、たとえ1番上の席でも、視界は悪くありませんでした。
建物の重量のほとんどを支える1階の壁は、主に、凝灰岩とトラバーチンで
造られています。 どちらも強度が高い反面、極めて重い石材です。 そこで、
上の階には、より軽いレンガが使われました。
建材としてのレンガは、扱いやすく、運びやすい、万能選手です。 コロッセオ
では、主に上層階で用いられ、特に、放射状にのびる壁は全てレンガで出来
ています。 そうする事で石の壁よりも、ずっと軽く仕上げる事ができました。
レンガには、耐久性に優れるという利点もあります。システマチックにパターン
化された建設方法によって、コロッセオは記録的な早さで完成しました。
それでは、建築現場は、どのように運営されていたのでしょうか? 実際の
作業は、下請け業者によって行われたと考えられています。 作業を効率的に
進めるためです。 建築現場は、4つの区画に分けられました。
それぞれが個別に、しかし、絶妙な協調のうえに、作業が進められました。
4つの区画は、4人の現場監督が、それぞれ仕切っていたと考えられます。
なぜ分かるかというと、コロッセオの4等分したエリアごとに、いくつか、若干の
異なる特徴が認められるからです。 4つに分ける利点は、仮に、ある現場で
問題が起きても、ほかの3つの区画では、仕事を続けられるという事です。
更には、いい意味での競争も生まれました。 互いに遅れをとるまいという
意識が、自然と働くからです。
まるで軍隊のように作業員たちを統率したのが、現場監督と測量の責任者
でした。 全てが、1日も早い完成のために、考え抜かれていたのです。
現場での作業工程は細かく管理され、いくつものチームが同時に作業を進め
ていました。 巨大なトラバーチンの柱を建てる作業員たちの脇で、ほかの
者が、地面でできる作業をするといった具合です。
回廊の丸天井も、アリーナから放射状にのびる壁も、どれも巧みに体系化
された方法によって造られました。 実に効率的です。
ローマ帝国屈指の巨大建造物であるコロッセオは、5万人以上の観客を収容
できました。 その流れを、どう管理するかも、重要な検討課題でした。
建設の10年ほど前に、ポンペイの円形闘技場で、暴動が起きたのです。
興奮した観客が、短剣を振りかざす事態になりました。 大混乱が起き、上の
階から転落して、何十人もの死者が出ました。
事件はコロッセオの設計に影響を及ぼしました。解決策は出入り口を増やし、
人の流れを分散させる事でした。
複数の回廊を備えた空間の多い構造は、理想の解決策でした。 1階に設け
られた80カ所のアーチは全てが出入り口の役割を果たし、観客は回廊を通り
抜けて、直接、席まで行く事ができました。
観客の流れを更に安全に保つため、現代の大規模スタジアムでも通用する
仕組みが導入されました。 コロッセオに入る観客は、正しい場所へ、巧みに
誘導されるようになっていました。
1人1人にアーチの番号が刻まれた硬貨が渡されました。78番なら、78と書か
れたアーチから入るのです。 更に硬貨には、座席の列の番号もありました。
1つの階段から行けるのは、400席のみのため、観客は分散され、どこか
1カ所にたまるという事は、ありませんでした。 退場の際も20分ほどで全員が
外に出られたと考えられます。
観客席は、社会階級に基づいて厳格に区分けされ、異なった階級同士が
交ざる事はありませんでした。身分の高い人ほど、下の方の席に座りました。
1番身分の低い人たちは、最上階です。
最前列は元老院議員などのための貴賓席でした。 発掘調査からは大理石が
敷かれていた事が分かっています。 その上は、裕福な市民や騎士の席。
そして、その上に、一般市民が続き、最上階の木製の椅子は、奴隷や女性の
席でした。 女性は、アリーナから1番遠い席に座るよう、法律で定められて
いました。
初代皇帝のアウグストゥスが、女性が前列に座る事を禁じる法律を発したの
です。 理由は、女性たちが剣闘士に夢中になりすぎるのを防ぐため、という
ものでした。 剣闘士は、トップアスリートです。
しかも、半分裸のような格好をしています。 その肉体美と比べられたら、
男性たちは、たまったものじゃなかったのでしょう。
西暦79年。 皇帝ウェスパシアヌスは、コロッセオの完成を見る事なく亡くなり
ました。 人々が帝国に平穏をもたらした皇帝の死を悼む中、ウェスパシアヌス
の息子ティトゥスが、あとを継いで皇帝の座に就きました。
実の息子が継ぐのは、帝政になって初めてでした。 父親から絶大な権力を
受け継いだものの、ティトゥスは、まだ民衆の信頼を勝ち得てはいませんで
した。 また、はやり病やベズビオ山の噴火など、悪い出来事が立て続けに
起こりました。
コロッセオは、この時点で、1階から3階までは出来上がっていましたが、
最上層は未完成でした。 それでもティトゥスは、落成式を急ぎました。
コロッセオがもたらす政治的な利益に、期待していたからです。
ローマ市民は、巨大なコロッセオが完成する日を、心待ちにしていました。
そこでティトゥスは、自らの統治を早く安定させるためにも、落成式を派手に
演出しようと考えました。
落成式は、100日間にもわたり、コロッセオの中だけでなく、外でもお祝いの
出し物が催されました。 剣闘士による決闘は、毎日、行われました。 1日に
20人から30人が登場し、100日間で、3000人近くが戦ったのです。
西暦80年、コロッセオは、ついに落成を迎え、民衆は、とどまる事を知らない
興奮に包まれました。 ティトゥスは、人々の期待に応えるため、更に壮大で
驚きの見世物を用意させました。 模擬海戦です。
闘技場に水を張り、本物の船を浮かべて戦わせたのです。 歴史上の有名な
海戦を再現する事もありました。実際に船に人を乗せ、互いに殺し合いをさせ
ました。武器を手に戦うのは奴隷たちです。非常に大がかりな見世物でした。
100日間にもわたる祭典は人々を魅了し続けティトゥスの人気は高まります。
しかし、1日中、石のベンチに座り、さんさんと照りつける強い日ざしにさらされ
続けるのは、居心地の良いものではありません。
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そこで建設者たちは驚くほど現代的、かつ、革新的な技術を考え出しました。
居心地を良くするための工夫の1つが日陰を作る事です。 そのために、あの
広い闘技場の上に、日除けを張ったのです。
素材としては、恐らく麻などを使ったのだと思います。 観客席の上部をリング
状に、ぐるりと覆う可動式の天幕を作ったのです。 この巨大な日除けベラリ
ウムは、長年、研究者たちの興味を引き付けて来ました。
コロッセオの外壁の上部にあいた穴から、その仕組みが推測されます。
技術的には快挙です。重さ68トンのロープと、12トンもの天幕を宙に浮かべた
のですから。
中心の輪から放射状にロープを張り、コロッセオ外壁の最上部に取り付けた
木製のポールにつなぎます。 外壁から垂らしたロープの端は、コロッセオの
外側に設置した杭に固定されました。
まず、杭に固定された巻き上げ機を用いて中央の輪を、つり上げます。続いて
放射状に伸びたロープに沿って、麻布が広げられました。 操作していたのは
海軍の船員たちで、500人以上の人手が必要だったと考えられています。
波打つ布に日の光がさして、見事な色彩を生み出した事でしょう。それ自体が
ショーの一部だったのかも知れません。 猛暑対策は天幕にとどまりません。
古代ローマ人は、ほかにも、さまざまな技術を駆使しました。
暑さ対策となる水まきには、ぜいたくな工夫が凝らされました。大型のポンプを
使って、よい香りをつけた水を、ミストにして、まいたのです。 そうする事で、
観客の汗のニオイを防ぎました。
古代の空調設備のようなものですよね。 水の噴霧器は、アリーナでは別の
使われ方もしました。
例えば、水にサフランを混ぜると、輝くオレンジ色になります。 それをミストの
ように吹き出せば、出し物に素晴らしい演出効果を加えたでしょう。
ローマ人は2つのピストンを交互に動かして、中央のタンクに水を集めました。
そうする事で、爽やかなミストを、切れ目なく噴射したのです。
豪華絢爛な落成式が行われた翌年の西暦81年、皇帝のティトゥスは41歳の
若さで病死しました。次に皇帝の座に就いたのは、弟のドミティアヌスでした。
そしてコロッセオは、更なる進化を遂げます。
皇帝ドミティアヌスにとっても、また、コロッセオは、民衆の支持を得るために
重要な政治的な装置でした。ドミティアヌスは、剣闘士の試合の熱烈なファン
でした。 ですからコロッセオには、特別な思い入れがありました。
ドミティアヌスの就任時、コロッセオには、まだ、手を入れるべき場所がありま
した。 模擬海戦では水を満たした事もある地下です。 それは観衆の目から
隠された舞台裏。
そこに迷路のように通路を張り巡らし、さまざまな装置や仕掛けを組み込む事
にしました。当時は、まだ舞台装置を置いておく場所も、剣闘士たちが戦いの
支度をする場所も、武器や動物たちを用意しておく場所も、ありませんでした。
本番前には特に問題でした。 地下の施設は、未完成のままだったのです。
初めの頃、地下には壁すらありませんでした。 アリーナの木製の床を支える
ために、木の柱が立っているだけでした。
その地下を整え、コロッセオを完成させたのは、ドミティアヌスでした。
アリーナの下には、15本の通路が設けられました。6本は、アリーナの外周の
線に沿い、9本は、アリーナを横切るように造られました。
この通路を、裏方のほか、猛獣や剣闘士などが行き来しました。 いずれも、
自らの命を懸けて、アリーナに登場していたものたちです。
観客は戦いそのものが生み出す興奮だけでは物足りず、出し物にドラマ性や
壮大な舞台装置を望みました。 舞台演出の仕掛けも必要でした。 例えば、
剣闘士や猛獣を舞台に、せり上げたり、舞台から消したりする装置です。
本物の木で森を造り、野生動物を歩かせて、自然を再現するような演出も
行われました。 動物たちを、地下6メートルからアリーナまで持ち上げるため
には、工学技術を駆使した、大がかりな仕掛けが用意されました。
リフトです。 重い檻を持ち上げるため、8人の作業員が2つの階に分かれて、
巻き上げ機を回し、リフトを動かしました。 そして、檻とアリーナの床の間に、
更なる仕掛けが…。
猛獣は、檻に入ったまま、アリーナのすぐ下まで持ち上げられました。 出番が
来るとアリーナの床の一部が斜めに下がり、傾斜路で檻と、つながれました。
猛獣は、そこから飛び出し、人々の目の前に現れたわけです。
調査から、このようなリフトが、28基も設置されていた事が分かっています。
地下は、耐え難い環境だったでしょうね。
汗のニオイや血のニオイ、動物のふん尿のニオイ。そして頭上から響く歓声と
騒音、全てが熱気とまざり合い、さながら地獄の様だったに違いありません。
当時の詩人たちが、猛獣狩りの様子を描写しています。
100頭ものライオンを一斉に放ったり、アンテロープなど、ほかの動物を登場
させたりしました。 帝国各地から連れて来られた珍しい動物たちは、主に、
午前中に登場し、狩人や動物同士での戦いを繰り広げました。
動物のショーには帝国の強大さを見せつけるという重要な意味がありました。
動物たちの戦いが終わると午後から、いよいよ剣闘士の戦いが始まりました。
剣闘士は奴隷から皇帝まで全ての観客を引き付けるアリーナの花形でした。
観客席がある地上の通路では、いわゆる、グッズ販売も行われていました。
その日、登場する人気の剣闘士の像や、オイルランプが売られたのです。
死ぬまで戦ったと思われがちな剣闘士ですが実際は多くの場合、命を落とす
前に、試合が止められました。 剣闘士たちは、ラニスタと呼ばれる興行師に
抱えられ、食事や寝る場所の世話を受けながら、技を磨いていました。
剣闘士の育成は、ラニスタにとって大きな投資です。 ですからラニスタは、
剣闘士を、みすみす死なせたりは、しませんでした。
それでも、実際に死者が出る事はありました。 演技ではなく、本物の戦い
だからです。 ただ、観客が見たいのは死ではなく、戦いの技であり、勝敗が
決まる瞬間でした。
5万人の観衆、とりわけ庶民は、その瞬間に、自らの存在意義を味わっていた
のかも知れません。 敗者を生かすも殺すも、彼ら次第だったからです。
敗者の命を助ける場合は、白いハンカチを振り、死を望む場合は、手を下に
振りました。 その時、皇帝は立ち上がり、こう言います。 私は、ただの審判員
である。 決定を下すのはローマ市民だ、 と。
それは、代理民主主義とでも、いうべきものでした。 こうしてコロッセオは、
ローマ帝国において、皇帝が市民と絆を結ぶ、政治的に極めて重要な場所と
なったのです。
言ってみれば、コロッセオこそ、まさにローマの政治の革新というべき場所
だったのです。 古代ローマの技術が結晶したコロッセオは、建設から
2000年を経た今も、私たちの文明への想像力を、かきたて続けます。
コロッセオ。 ローマに、そびえる巨大な円形闘技場です。 今から、およそ
2000年前に建てられました。 古代ローマの建築技術のシンボルです。
技術革新を、極限まで推し進めた見本といえます。
建設にあっては、きめ細かい工程管理と、優れた工学技術が欠かせません
でした。 古代ローマの技術の結晶が、今も生き続けているのです。
コロッセオで繰り広げられた剣闘士の戦いや、猛獣との格闘、更には、船の
戦いを再現する模擬海戦を華々しく盛り上げるため、革新的な仕掛けが導入
されました。
血を求めて絶叫する観衆や、喝さいを浴びる皇帝の姿が目に浮かびます。
2000年の時を経て、今なお、その姿をとどめるコロッセオ。 古代ローマの
文明の卓越したきらめきが、語りかけてきます。
イタリアの首都ローマ。 古代ローマ帝国の遺跡が、無数に点在しています。
中でも古代ローマの巨大円形闘技場コロッセオは、例年600万人もの観光客
が訪れる人気スポットです。 コロッセオの広さは、2万3000平方メートル。
深さ12メートルもの基礎の上に建っています。 これは、オリンピックサイズの
プール、50個分にも相当します。 入り口の数は80、観客席は56列、5万人を
収容できました。
深さが6メートルもある迷路のような地下部分には、演出効果を上げるための
装置が、備えられていました。 木製の床には落とし戸があり、扉が開くと、
ライオンやヒョウが、突然、床下から飛び出してくる仕掛けでした。
コロッセオは、一体、なぜ? そして、どうやって造られたのか? その理由を
探るため、建設の少し前の時代まで、さかのぼりましょう!
西暦64年。 当時、ローマを治めていたのは、暴君として知られた皇帝のネロ
でした。 ネロは、即位した当初は人気がありました。 民衆に食べ物が行き
渡るように努め、娯楽も提供したからです。
しかし、統治が長くなるにつれ、ネロは、最も重要な政治機関である元老院を
次第に無視するようになっていました。
この年の7月、そのネロにとって転機となる悲劇が起こりました。 ローマ大火
です。 ローマの街は、丸1週間、燃え続け、壊滅的な状態となりました。
娯楽のための施設も、炎に包まれて失われたのです。
人々は悲しみに暮れながらも、再建を始めました。 そして娯楽の場も、すぐに
復興する事を望みました。しかしネロが、まだ煙が上がる廃墟に建設を決めた
のは、ドムス・アウレアと呼ばれる、巨大な宮殿でした。
ネロは宮殿を建てるために、元老院議員たちの土地を、没収したのです。
奪われた側にとっては一大事です。 50万平方メートルにも及ぶ大宮殿には
大きな人工の湖と、巨大な皇帝の像がありました。
帝国の財源が、ひっ迫した結果、元老院は、ついに反旗を翻します。
元老院は、ネロを暴君と見なして、クーデターを起こします。 西暦68年、追わ
れたネロは、自害しました。
ネロの死後、3人の皇帝が相次いで即位するものの、政情は不安定なまま
でした。そんな時、1人の人物が現れました。フラウィウス・ウェスパシアヌス。
後に、コロッセオを建てる事になる、将軍です。
ウェスパシアヌスは、ローマから遠く離れた属州の1つ、ユダヤの反乱鎮圧を
命じられていた軍人でした。 その軍事手腕が高く評価され、皇帝の有力な
候補となったのです。
ウェスパシアヌスは、エルサレムの包囲を、息子ティトゥスに任せ、西暦70年、
ローマ皇帝として、元老院から承認を受けます。
貴族の出身ではないウェスパシアヌスが、皇帝として認められるためには、
民衆の心をつかむ必要がありました。 自らの力と、正当性を示す手段として
巨大なコロッセオの建設は理想的でした。
64年の大火以降、ローマには、円形闘技場がありませんでした。 娯楽の
復活は、社会のあらゆる階層から支持を得るための最も確実な方法でした。
西暦70年、ウェスパシアヌスと技術者たちは、史上最も壮大な円形闘技場の
設計を始めました。 広さ、およそ2万平方メートル、観客席は5万人分です。
ウェスパシアヌスが望んだのは、ローマの力の象徴です。
それは、自分の時代はもとより、子々孫々残る建造物であるべきでした。
問題は、建設場所でした。 当時のローマは、建物が密集していたため、
人々の家を取り壊さずに造れるような場所は、ほとんどありませんでした。
ある場所を除いて…。 ネロの死後、ドムス・アウレアは、半ば取り壊され、
広大な邸宅の跡地と、庭園だけが残っていました。 大きな建造物を造るには
まさに絶好の土地でした。
ウェスパシアヌスは人工の湖の跡地に円形闘技場を建てる事に決めました。
あの場所にコロッセオを建てるのは、政治的な意味では、反ネロを宣言する
事でした。 場所は理想的でした。 しかし、問題がありました。 地盤です。
問題は地盤が粘土質だった事です。 粘土は乾くと縮み、湿ると膨らみます。
上に建物を建てるには、不安定なのです。 地形も厄介です。 自然の谷が
堆積物で埋まった場所なので、地盤が弱いのです。
基礎の安定性を高め、巨大建造物を支えるためには、人工の基盤を築く
必要がありました。 それも、厚さが12メートルから13メートルにも及ぶ基盤
です。 深さ12メートルもの穴を、機械もなしに、人力で掘れるでしょうか?
常識では、考えられない事です。 ローマの技術者たちは、この難題を、どう
やって克服したのでしょうか? 1つの仮説は、こうです。
まず深さ6メートルの穴を掘り、そこにコンクリートを幅60メートルのリング状に
流し込みます。 次に、掘った際に出た3万トンの土を使い、穴の周りの地面を
盛り上げます。
続いて、最初のリングの上に、同じようなサイズのリングを、流し込みました。
この結果、12メートルの厚さを持つ、外周580メートルのコンクリートの基礎が
出来上がりました。必要なコンクリートの量たるや20万立方メートル以上です。
これほど大規模な土木工事は、ローマの都市建設で、初めての事でした。
古代ローマの技術力は、その並外れたスケールにとどまりません。
人工の基盤を造るために流し込まれたのは、極めて強度の高いローマンコン
クリートでした。
ローマの周辺には火山灰の土壌が多く、中でも、ポッツォラーナと呼ばれる
粘土を含んだ火山灰はコンクリートの強度や耐久性を増す材料になりました。
ローマンコンクリートは、石灰や砂・砂利などに、火山灰のポッツォラーナを
混ぜて作られました。 この混合物は、水を加えると化学反応を起こして硬く
なり、丈夫なコンクリートになります。
その耐久性は半永久的といっても、いいほどでした。 基礎が出来上がったら
次は建物自体の建設です。 ウェスパシアヌスが構想した巨大な円形闘技場
を造るには、膨大な労働力と資金が欠かせません。
その両方をもたらしたのは、息子ティトゥスです。 完璧なタイミングでエルサ
レムでの勝利を達成したのです。 皇帝は、帝国の財源が、底をついている
事を知っていました。 そこで、エルサレムの財宝に、目を付けたのです。
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ローマ軍は、エルサレムで略奪を行いました。 ローマにある、ティトゥスの
凱旋門に、その様子が描かれています。 兵士たちが、エルサレム神殿から
運び出した燭台や宝物は、溶かしてコインにされました。
戦利品は、コロッセオの建設資金となりました。 更にエルサレムを支配下に
取り戻した事で、皇帝の威光は高まりました。 エルサレムでの勝利がもたら
したのは、財宝だけではありません。 ローマ軍は捕虜も連れ帰って来ました。
ティトゥスはエルサレム周辺から、9万7000人ものユダヤ人捕虜を連れて来た
といわれます。 彼らを奴隷として売ったお金も、またコロッセオの建設に投じ
られました。 捕虜を売る事は、帝国にとって、まさに、金のなる木でした。
多くの歴史家は、ユダヤ人奴隷が、建設作業にも、大いに関わったと考えて
います。 コンクリートを流し込んだり、資材を運んだりといった、単純な力仕事
には、捕虜のユダヤ人が使われたと考えられます。
コロッセオの設計は革新的なものでした。観客席は高さ、およそ50メートルの
外壁の内側に、階段状に設けられました。 その重さの課題を解決するために
用いられたのが、空洞の多い構造です。
それまで円形闘技場は、丘の斜面や土手に造られました。 観客席は斜面を
利用して設けていたのです。でも、それでは建設場所が限られてしまいます。
ローマ人は、階段状の観客席を造る事で、問題を解決しました。
5万人を収容する観客席です。 最大の課題は、その重量でした。 そのため
構造に工夫が凝らされたのです。 ローマの建築家たちは、石で出来た巨大
円形闘技場の重さを支えられるよう、画期的な方法を編み出しました。
アーチ構造を、かつてない規模で重ねたのです。 アーチ構造は空間ができ
る分、建物自体の重量を軽くする事ができます。 運び込まれる資材も、それ
だけ少なくなるので、時間とお金の節約にもなります。
アーチ構造は軽いだけでなく、それ自体が、重さを支えられるという利点が
あります。 重さは、まずアーチの頂上の要石が受け止め、それを2本の柱が
支えます。
建設にあたっては、建物を長持ちさせるため、あらゆる事が慎重に検討され
ました。 柱に使われたのは、極めて頑丈な石材、トラバーチンでした。
トラバーチンは石灰質の岩石で、硬さがあり、かつ加工しやすいという利点が
あります。 よく乾燥させると、非常に硬くなり、大きな荷重に耐えられます。
柱に残された穴から、ローマ人がトラバーチンを、どうやって組み立てたかが
分かります。 その工程では、別の材料を大量に使う必要がありました。
鉄です。 石材の上部には、四角く刻んだ穴がありました。 隣り合った石を、
留め具で、つなぐためです。 穴の中には、溶かした熱い鉄を流し込みます。
鉄が冷えて固まると、石材同士をつなぐ、かすがいの役割を果たすのです。
この留め具のために、コロッセオで使われた鉄は、300トンにも上ると推定
されています。 アーチ構造がもたらした、もう1つのメリットは、繰り返しが
簡単という事です。
コロッセオの外壁は、3つの層で出来ていて、その全ての層が、同じアーチを
80並べる事で完結されたのです。 コロッセオは、極めてパターン化された
建物です。
作業工程は単純で1層目のアーチを完成させれば、あとは、ほぼ同じ繰り返し
です。 複数のチームが同時に作業できるため、コストや建設の日数も減らせ
ました。 アーチ造りは、シンプルな作業でした。
まず柱を立て、その上に木製の仮の枠を渡します。 枠に沿って石材を積み、
最後、アーチの頂上に要石を入れます。 要石が両端の力を受け止めるため
崩れる事はありません。
この作業を合計240回、繰り返す事で1周540メートルの巨大な楕円の外周が
造られました。 80のアーチが隙間なく、つながる事で、壁全体の強度が増し
ます。 隣り合うアーチ同士が支え合い、頑丈な外壁を形づくったのです。
とろこで、コロッセオの形が楕円形になったのは、技術的理由だけではありま
せん。 出し物の、何世紀にもわたる歴史も、踏まえていました。
それまで出し物が行われていた公共広場のフォロ・ロマーノは、ほぼ長方形で
死角がありました。 そのため、同じくらいのサイズで、死角のない形が求め
られたのです。
楕円の形なら、どの場所の観客にも、最適な視界を提供する事ができます。
もちろん、視界の確保には円形でもよいのですが、猛獣狩りや、馬に乗った
戦闘などを実施するには、直線の距離が足りませんでした。
楕円は、本来2つの点から導かれる幾何学的な形ですが、大きくなるほど
完全な円に近くなってしまいます。 そのためローマの技術者たちは、複数の
円を用いて計算を行い、現在の姿を導き出しました。
楕円の形には、観客同士も、お互いが、よく見えるという利点がありました。
コロッセオは、皇帝から奴隷まで、あらゆる階級が顔をそろえるローマ社会の
縮図であり、厳格なヒエラルキーに従っていた人々を、1つにまとめる手段と
なりました。
そこは人々が互いの身分や社会的位置づけを確認する場所でもありました。
一方で、皇帝が民衆と共にショーを観戦する事にも、意味がありました。
人々は、皇帝が自分たちと同じように楽しんでいるのを見て、親しみを覚えた
でしょう。 それも、また、コロッセオのねらいの1つでした。
皇帝ウェスパシアヌスは闘技場の大きさだけでなく美しさにもこだわりました。
外観には、古代ギリシャの3つの建築様式が、取り入れられました。
ローマの人々は、ギリシャの人間を見下す一方、ギリシャの芸術を限りなく
崇拝していました。 ローマ人の先祖は、言ってみれば、簡素な暮らしをする
農民でした。
彼らは、周辺を征服する過程で、洗練された文化と出会い、自分たちも洗練
されている事を示そうと、ギリシャの芸術を取り込んだのです。
建物の重さを支える1層目の柱は、ドーリア式と呼ばれる建築様式で造られ
ました。 重厚で、強さと雄々しさを表現しています。 2層目は、やや繊細な
イオニア式で、女性的といわれる様式です。
3層目は、更に軽く優美なコリント式です。 3の様式は全体で家族のイメージ
へと、つながるといわれています。 装飾は、これだけに、とどまりません。
より華やかな装飾が、人々を驚嘆させました。
2層目と3層目の外側のアーチの下には、金箔を施したブロンズの彫像が、
全部で160体も置かれました。 華々しい装飾は、ウェスパシアヌスが自らの
威光を、民衆に知らしめるためのものでした。
ギリシャ神話の神々を、かたどっていたであろう彫像の痕跡は、ほとんど
残っていません。 それは逆に、彫像が、どう使われていたかのヒントになる
かも知れません。
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彫像は恐らく、きちんとした台座には、固定されていなかったのでしょう。
必要に応じて設置したり、取り外したりしていた可能性があります。
アーチの部分に彫像が置かれていた痕跡が見当たらないのは、それが理由
かも知れません。 コロッセオは、その外観だけでも今も訪れる人々に感動を
与えます。 では、内側は、どうなっているのでしょうか?
内側もまた、外側と同じように、反復の方法で造られています。 トラバーチン
の柱が枠組みとなり、壁とアーチ状の天井を支えているのです。 環状の
回廊は、複数の放射状の回廊と交差しています。
交差させた回廊には、観客席の重みを支える目的がありました。 観客席は
見やすいように階段状に設計されました。 1階席は、30度の傾斜になって
います。 その上の部分は、40度です。
剣闘士の戦いのような白熱した接近戦を、観客は、できるだけ前の席で見た
がりました。 しかし、たとえ1番上の席でも、視界は悪くありませんでした。
建物の重量のほとんどを支える1階の壁は、主に、凝灰岩とトラバーチンで
造られています。 どちらも強度が高い反面、極めて重い石材です。 そこで、
上の階には、より軽いレンガが使われました。
建材としてのレンガは、扱いやすく、運びやすい、万能選手です。 コロッセオ
では、主に上層階で用いられ、特に、放射状にのびる壁は全てレンガで出来
ています。 そうする事で石の壁よりも、ずっと軽く仕上げる事ができました。
レンガには、耐久性に優れるという利点もあります。システマチックにパターン
化された建設方法によって、コロッセオは記録的な早さで完成しました。
それでは、建築現場は、どのように運営されていたのでしょうか? 実際の
作業は、下請け業者によって行われたと考えられています。 作業を効率的に
進めるためです。 建築現場は、4つの区画に分けられました。
それぞれが個別に、しかし、絶妙な協調のうえに、作業が進められました。
4つの区画は、4人の現場監督が、それぞれ仕切っていたと考えられます。
なぜ分かるかというと、コロッセオの4等分したエリアごとに、いくつか、若干の
異なる特徴が認められるからです。 4つに分ける利点は、仮に、ある現場で
問題が起きても、ほかの3つの区画では、仕事を続けられるという事です。
更には、いい意味での競争も生まれました。 互いに遅れをとるまいという
意識が、自然と働くからです。
まるで軍隊のように作業員たちを統率したのが、現場監督と測量の責任者
でした。 全てが、1日も早い完成のために、考え抜かれていたのです。
現場での作業工程は細かく管理され、いくつものチームが同時に作業を進め
ていました。 巨大なトラバーチンの柱を建てる作業員たちの脇で、ほかの
者が、地面でできる作業をするといった具合です。
回廊の丸天井も、アリーナから放射状にのびる壁も、どれも巧みに体系化
された方法によって造られました。 実に効率的です。
ローマ帝国屈指の巨大建造物であるコロッセオは、5万人以上の観客を収容
できました。 その流れを、どう管理するかも、重要な検討課題でした。
建設の10年ほど前に、ポンペイの円形闘技場で、暴動が起きたのです。
興奮した観客が、短剣を振りかざす事態になりました。 大混乱が起き、上の
階から転落して、何十人もの死者が出ました。
事件はコロッセオの設計に影響を及ぼしました。解決策は出入り口を増やし、
人の流れを分散させる事でした。
複数の回廊を備えた空間の多い構造は、理想の解決策でした。 1階に設け
られた80カ所のアーチは全てが出入り口の役割を果たし、観客は回廊を通り
抜けて、直接、席まで行く事ができました。
観客の流れを更に安全に保つため、現代の大規模スタジアムでも通用する
仕組みが導入されました。 コロッセオに入る観客は、正しい場所へ、巧みに
誘導されるようになっていました。
1人1人にアーチの番号が刻まれた硬貨が渡されました。78番なら、78と書か
れたアーチから入るのです。 更に硬貨には、座席の列の番号もありました。
1つの階段から行けるのは、400席のみのため、観客は分散され、どこか
1カ所にたまるという事は、ありませんでした。 退場の際も20分ほどで全員が
外に出られたと考えられます。
観客席は、社会階級に基づいて厳格に区分けされ、異なった階級同士が
交ざる事はありませんでした。身分の高い人ほど、下の方の席に座りました。
1番身分の低い人たちは、最上階です。
最前列は元老院議員などのための貴賓席でした。 発掘調査からは大理石が
敷かれていた事が分かっています。 その上は、裕福な市民や騎士の席。
そして、その上に、一般市民が続き、最上階の木製の椅子は、奴隷や女性の
席でした。 女性は、アリーナから1番遠い席に座るよう、法律で定められて
いました。
初代皇帝のアウグストゥスが、女性が前列に座る事を禁じる法律を発したの
です。 理由は、女性たちが剣闘士に夢中になりすぎるのを防ぐため、という
ものでした。 剣闘士は、トップアスリートです。
しかも、半分裸のような格好をしています。 その肉体美と比べられたら、
男性たちは、たまったものじゃなかったのでしょう。
西暦79年。 皇帝ウェスパシアヌスは、コロッセオの完成を見る事なく亡くなり
ました。 人々が帝国に平穏をもたらした皇帝の死を悼む中、ウェスパシアヌス
の息子ティトゥスが、あとを継いで皇帝の座に就きました。
実の息子が継ぐのは、帝政になって初めてでした。 父親から絶大な権力を
受け継いだものの、ティトゥスは、まだ民衆の信頼を勝ち得てはいませんで
した。 また、はやり病やベズビオ山の噴火など、悪い出来事が立て続けに
起こりました。
コロッセオは、この時点で、1階から3階までは出来上がっていましたが、
最上層は未完成でした。 それでもティトゥスは、落成式を急ぎました。
コロッセオがもたらす政治的な利益に、期待していたからです。
ローマ市民は、巨大なコロッセオが完成する日を、心待ちにしていました。
そこでティトゥスは、自らの統治を早く安定させるためにも、落成式を派手に
演出しようと考えました。
落成式は、100日間にもわたり、コロッセオの中だけでなく、外でもお祝いの
出し物が催されました。 剣闘士による決闘は、毎日、行われました。 1日に
20人から30人が登場し、100日間で、3000人近くが戦ったのです。
西暦80年、コロッセオは、ついに落成を迎え、民衆は、とどまる事を知らない
興奮に包まれました。 ティトゥスは、人々の期待に応えるため、更に壮大で
驚きの見世物を用意させました。 模擬海戦です。
闘技場に水を張り、本物の船を浮かべて戦わせたのです。 歴史上の有名な
海戦を再現する事もありました。実際に船に人を乗せ、互いに殺し合いをさせ
ました。武器を手に戦うのは奴隷たちです。非常に大がかりな見世物でした。
100日間にもわたる祭典は人々を魅了し続けティトゥスの人気は高まります。
しかし、1日中、石のベンチに座り、さんさんと照りつける強い日ざしにさらされ
続けるのは、居心地の良いものではありません。
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そこで建設者たちは驚くほど現代的、かつ、革新的な技術を考え出しました。
居心地を良くするための工夫の1つが日陰を作る事です。 そのために、あの
広い闘技場の上に、日除けを張ったのです。
素材としては、恐らく麻などを使ったのだと思います。 観客席の上部をリング
状に、ぐるりと覆う可動式の天幕を作ったのです。 この巨大な日除けベラリ
ウムは、長年、研究者たちの興味を引き付けて来ました。
コロッセオの外壁の上部にあいた穴から、その仕組みが推測されます。
技術的には快挙です。重さ68トンのロープと、12トンもの天幕を宙に浮かべた
のですから。
中心の輪から放射状にロープを張り、コロッセオ外壁の最上部に取り付けた
木製のポールにつなぎます。 外壁から垂らしたロープの端は、コロッセオの
外側に設置した杭に固定されました。
まず、杭に固定された巻き上げ機を用いて中央の輪を、つり上げます。続いて
放射状に伸びたロープに沿って、麻布が広げられました。 操作していたのは
海軍の船員たちで、500人以上の人手が必要だったと考えられています。
波打つ布に日の光がさして、見事な色彩を生み出した事でしょう。それ自体が
ショーの一部だったのかも知れません。 猛暑対策は天幕にとどまりません。
古代ローマ人は、ほかにも、さまざまな技術を駆使しました。
暑さ対策となる水まきには、ぜいたくな工夫が凝らされました。大型のポンプを
使って、よい香りをつけた水を、ミストにして、まいたのです。 そうする事で、
観客の汗のニオイを防ぎました。
古代の空調設備のようなものですよね。 水の噴霧器は、アリーナでは別の
使われ方もしました。
例えば、水にサフランを混ぜると、輝くオレンジ色になります。 それをミストの
ように吹き出せば、出し物に素晴らしい演出効果を加えたでしょう。
ローマ人は2つのピストンを交互に動かして、中央のタンクに水を集めました。
そうする事で、爽やかなミストを、切れ目なく噴射したのです。
豪華絢爛な落成式が行われた翌年の西暦81年、皇帝のティトゥスは41歳の
若さで病死しました。次に皇帝の座に就いたのは、弟のドミティアヌスでした。
そしてコロッセオは、更なる進化を遂げます。
皇帝ドミティアヌスにとっても、また、コロッセオは、民衆の支持を得るために
重要な政治的な装置でした。ドミティアヌスは、剣闘士の試合の熱烈なファン
でした。 ですからコロッセオには、特別な思い入れがありました。
ドミティアヌスの就任時、コロッセオには、まだ、手を入れるべき場所がありま
した。 模擬海戦では水を満たした事もある地下です。 それは観衆の目から
隠された舞台裏。
そこに迷路のように通路を張り巡らし、さまざまな装置や仕掛けを組み込む事
にしました。当時は、まだ舞台装置を置いておく場所も、剣闘士たちが戦いの
支度をする場所も、武器や動物たちを用意しておく場所も、ありませんでした。
本番前には特に問題でした。 地下の施設は、未完成のままだったのです。
初めの頃、地下には壁すらありませんでした。 アリーナの木製の床を支える
ために、木の柱が立っているだけでした。
その地下を整え、コロッセオを完成させたのは、ドミティアヌスでした。
アリーナの下には、15本の通路が設けられました。6本は、アリーナの外周の
線に沿い、9本は、アリーナを横切るように造られました。
この通路を、裏方のほか、猛獣や剣闘士などが行き来しました。 いずれも、
自らの命を懸けて、アリーナに登場していたものたちです。
観客は戦いそのものが生み出す興奮だけでは物足りず、出し物にドラマ性や
壮大な舞台装置を望みました。 舞台演出の仕掛けも必要でした。 例えば、
剣闘士や猛獣を舞台に、せり上げたり、舞台から消したりする装置です。
本物の木で森を造り、野生動物を歩かせて、自然を再現するような演出も
行われました。 動物たちを、地下6メートルからアリーナまで持ち上げるため
には、工学技術を駆使した、大がかりな仕掛けが用意されました。
リフトです。 重い檻を持ち上げるため、8人の作業員が2つの階に分かれて、
巻き上げ機を回し、リフトを動かしました。 そして、檻とアリーナの床の間に、
更なる仕掛けが…。
猛獣は、檻に入ったまま、アリーナのすぐ下まで持ち上げられました。 出番が
来るとアリーナの床の一部が斜めに下がり、傾斜路で檻と、つながれました。
猛獣は、そこから飛び出し、人々の目の前に現れたわけです。
調査から、このようなリフトが、28基も設置されていた事が分かっています。
地下は、耐え難い環境だったでしょうね。
汗のニオイや血のニオイ、動物のふん尿のニオイ。そして頭上から響く歓声と
騒音、全てが熱気とまざり合い、さながら地獄の様だったに違いありません。
当時の詩人たちが、猛獣狩りの様子を描写しています。
100頭ものライオンを一斉に放ったり、アンテロープなど、ほかの動物を登場
させたりしました。 帝国各地から連れて来られた珍しい動物たちは、主に、
午前中に登場し、狩人や動物同士での戦いを繰り広げました。
動物のショーには帝国の強大さを見せつけるという重要な意味がありました。
動物たちの戦いが終わると午後から、いよいよ剣闘士の戦いが始まりました。
剣闘士は奴隷から皇帝まで全ての観客を引き付けるアリーナの花形でした。
観客席がある地上の通路では、いわゆる、グッズ販売も行われていました。
その日、登場する人気の剣闘士の像や、オイルランプが売られたのです。
死ぬまで戦ったと思われがちな剣闘士ですが実際は多くの場合、命を落とす
前に、試合が止められました。 剣闘士たちは、ラニスタと呼ばれる興行師に
抱えられ、食事や寝る場所の世話を受けながら、技を磨いていました。
剣闘士の育成は、ラニスタにとって大きな投資です。 ですからラニスタは、
剣闘士を、みすみす死なせたりは、しませんでした。
それでも、実際に死者が出る事はありました。 演技ではなく、本物の戦い
だからです。 ただ、観客が見たいのは死ではなく、戦いの技であり、勝敗が
決まる瞬間でした。
5万人の観衆、とりわけ庶民は、その瞬間に、自らの存在意義を味わっていた
のかも知れません。 敗者を生かすも殺すも、彼ら次第だったからです。
敗者の命を助ける場合は、白いハンカチを振り、死を望む場合は、手を下に
振りました。 その時、皇帝は立ち上がり、こう言います。 私は、ただの審判員
である。 決定を下すのはローマ市民だ、 と。
それは、代理民主主義とでも、いうべきものでした。 こうしてコロッセオは、
ローマ帝国において、皇帝が市民と絆を結ぶ、政治的に極めて重要な場所と
なったのです。
言ってみれば、コロッセオこそ、まさにローマの政治の革新というべき場所
だったのです。 古代ローマの技術が結晶したコロッセオは、建設から
2000年を経た今も、私たちの文明への想像力を、かきたて続けます。
2023年05月15日 (月) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「行ったことないけど、行ってみたい場所は?」
イタリアの古代都市ポンペイ。 西暦79年、火山の大噴火で大量の火山灰に
埋もれました。 一夜にして壊滅する以前、ポンペイは、どんな歴史を紡いで
いたのでしょうか? その起源は、古代ローマよりも、はるか昔に遡ります。
いにしえのポンペイとは? なぜ、火山のそばに、つくられたのでしょうか?
この土地には、人々を引き付ける魅力があるのです。 優れた立地に加え、
豊かな土壌と、美しい風景があります。
噴火が起こる前、ポンペイには人々が積み重ねた、800年にも及ぶ華やかで
複雑な歴史がありました。 ポンペイでは都市計画が行われ、街は道路に
よって規則的に分割されました。
今日、知られている街の姿を、つくり上げたのは、サムニウム人と呼ばれる
人々です。 繁栄と衰退、そして… ローマによるポンペイの征服は、人々の
心に深い傷痕を残しました。
大量の火山灰に埋もれた都市の下には、さらに古いポンペイの痕跡が横た
わっています。 栄華を極め、憧れの的となり、やがて戦いに敗れた歴史の
記憶です。 世界で最も有名な古代都市のひとつポンペイ。 その知られざる
原点に迫ります。
ポンペイから、およそ10キロの位置にそびえる、ヴェスヴィオ山。 今もなお、
活動を続ける、この火山は、ポンペイの歴史と切り離す事ができません。
19世紀半ばには、世界初の火山観測所が建てられました。
今いるのは、ヴェスヴィオ山の西側斜面です。 この火山は、はるか昔から
断続的に活動を続けて来ました。
40万年前、イタリア南部のカンパニア地方に、火山が出現しました。 大量の
マグマが、もろい地層を通り抜け、地表に噴出したのです。 ヴェスヴィオ山は
ナポリ湾を囲むように広がる、火山帯の一部です。
ポンペイに程近いフレグレイ平野、沖合のイスキア島、更に、いくつかの海底
火山が含まれます。 一帯には火山が点在し、どの山が、いつ噴火するか?
予測は困難です。
この地域に住んでいた古代の人々も長い間、噴火していない火山の危険性を
ほとんど意識していませんでした。 古代には、火山活動が何千年も止まって
いた時期もありました。
ヴェスヴィオ山も、長い沈黙の期間を挟みながら、噴火を繰り返して来ました。
そして西暦79年、ポンペイの街を壊滅させた、大噴火が起こります。 その、
すさまじい力は、たった1日で、2000人以上の命を奪ったのです。
古文書によれば、ポンペイの人々はヴェスヴィオ山が火山である事は知って
いたようです。 しかし、噴火すれば大参事を招く事になるとは、考えていませ
んでした。
何万年にも及ぶヴェスヴィオ山の火山活動は、カンパニア地方に、実り豊かな
大地を生み出しました。 サルノ川の河口に近いポンペイも、ヴェスヴィオ山の
麓に広がる田園地帯の一角を占めています。
4000年前、ヴェスヴィオ山は現在より500メートル以上高く、標高1800メートル
もありました。 その後の度重なる噴火により、山は姿を変え、周囲の平野を
肥沃にしました。
この地域には、はるか昔から人々が定住していた跡がいくつも残っています。
今世紀初め、ヴェスヴィオ山の北側に位置するノーラで、発掘調査が行われ
ました。
6メートル下まで掘り進めると、複数の小屋の跡と、10匹以上の羊の骨が
見つかりました。 それは、紀元前1700年頃の遺跡でした。
当時、この地に集落を築いた人々の住居跡です。 更に住居以外にも重要な
発見がありました。 集落の中に、網の目状に広がる水路の跡です。
水路の土手は、木の杭で補強されていました。 発掘された住居は、住民の
生活様式についても、貴重な情報をもたらしました。 建物は、馬のひづめの
ような形をしていた事が分かっています。
最大で高さ、およそ5メートル。 長さ17メートル。 幅9メートル。 10人ほどが
寝泊まりできる大きさでした。
そしてポンペイが噴火によって壊滅する、更に2000年も前… このノーラにも
ヴェスヴィオ山の噴火で火山灰や軽石が、大量に積もったのです。
噴火によって、14時間以上も、火山灰が降り続いたと考えられています。
更に、大雨による土石流が発生し、集落は完全に埋もれました。 その結果、
住居の一部は腐る事なく、地中に保存される事になりました。
ポンペイと同じように、ノーラの人々も、逃げる時間がなかったのでしょう。
噴火は大規模で、火砕流は、火口から15キロ離れた地点にまで達しました。
それは、まさに、破滅的な状況だったに違いありません。
しかし、生き残った人々もいました。 彼らは、サルノ川に沿って海岸近くに
移動し、新しい集落を築きます。 そこは、土壌が豊かでした。 更に、海が
近いため、生活するだけでなく、交易を行うにも理想的な場所だったのです。
やがて彼らは、海の向こうから来た、高い技能を持つ集団と遭遇します。
それは、ギリシャ人でした。 紀元前8世紀以降、ギリシャ人は、地中海沿岸に
大規模に移住する、植民を開始しました。
南イタリアやシチリア島に、ギリシャ文化が伝わり始めます。 イタリア半島に
おける、最初の植民市は、紀元前770年頃、カンパニア地方の小島に築かれ
ました。 現在のイスキア島です。
イスキア島の植民市の人々は、次第に対岸の海辺に暮らす、他のギリシャ人
たちとの交流を深めて行きます。 30年後、新たにやって来た入植者たちには
イスキア島は狭すぎました。
そこで、新しい植民市クマイが、フレグレイ平野につくられたのです。 新たな
入植者は海岸に近く都市を築くのに適した岩山があるクマイに定住しました。
周りには、火山がもたらした肥沃な土壌が広がっていました。
農業に最適で水も豊富にありました。 クマイなどの植民市は、ギリシャ人が
穀物や金属の交易を支配する、拠点となりました。 こうして、沿岸部を
ギリシャ人が支配する一方、内陸部には別の人々が、やって来ました。
紀元前7世紀、イタリア半島中部を支配していた、エトルリア人です。 彼らは
ヴェスヴィオ山の北側に進出し、新たな都市を築きました。 そして、すでに
1世紀近く定住していたギリシャ人と交わります。
エトルリア人は、ギリシャの植民市に鉱物を輸出し、ギリシャ人は、それを加工
する事で利益を上げました。 次第に両者の関係は、強固なものとなって行き
ました。
このギリシャ人とエトルリア人の結び付きこそ、商業都市ポンペイを生んだ
最大の要因です。 ポンペイがつくられたのは、標高33メートルの高台でした。
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そこは交易のため、湾内の各都市を行き交う船を監視するのに、最も適した
場所でした。 更に、この地に街が築かれた理由が、もう1つありました。
建物をつくる際、必要な資材を現地で調達する事が、できたのです。
ポンペイは周辺の火山岩を活用した街づくりの、最も優れた例のひとつです。
この岩は、軽くて潰れにくく、非常に扱いやすいのです。 しかも切断しやすい
ため、街がつくられ始めた当初から、盛んに切り出されました。
ポンペイの都市建設が、いつ始まったのか? 詳しくは分かっていませんが、
この地が選ばれた理由は、明らかでした。 あらゆる点で優れた土地だから
です。 この辺りは、非常に魅力的な場所です。
立地に恵まれ、風景が美しく、何より肥沃な土壌がありました。 ポンペイは、
異なる文化が合流していた場所だったといえます。 土着の文化に加え、
外部から入って来た、2つの文化が存在していたのです。
1つは、北からやって来たエトルリア人の文化。 もう1つは、非常に早い時期
からイタリア南部に入植していた、南のギリシャ人の文化です。 2つの文化の
痕跡は、ハッキリと残っています。
今日、目にする遺跡の下には、過去からの歴史が積み重なっています。
その始まりは紀元前6世紀に、さかのぼります。 最新の研究ではポンペイの
都市計画は、紀元前6世紀に始まったと考えられています。
まず、南北方向に、街を貫く通りがつくられました。 1本は、フォロ通りとメル
クーリオ通りです。 そしてもう1本は、ヴェスヴィオ門とスタビア門の間を結ん
でいる、ヴェスヴィオ通りとスタビアーナ通りです。
ポンペイを調査した初期の考古学者たちは、遺跡の位置を把握しやすいよう
街を9つの区画に分けました。 やがて、街の軸となる直交する大きな通りを
突き止めます。
東西の軸は、西のマリーナ門から始まり、東のサルノ門に向かって続いてい
ました。 直交する南北の軸は、南のスクオーレ通りから始まり、公共広場、
フォルムに沿って北へ延び、フォロ通りとメルクーリオ通りに続いています。
ポンペイをつくり上げた人々の痕跡が、見つかったのです。 ポンペイの街は
2つの大きな神殿を核にして、つくられています。 それは、アポロ神殿と、
ドリス式神殿です。
街の面積は、およそ0.7平方キロメートル。3分の2が住宅地で、残りは庭園や
畑でした。 街は、中心から徐々に広がったわけではありません。 初めから
現在のような規模になるよう、計画的に建設されて行きました。
ポンペイは、多様な人々が行き交う文化のるつぼでした。 初期につくられた
神殿の建築様式にはエトルリアやギリシャの文化の影響が色濃く見られます。
アポロ神殿とドリス式神殿は、建築様式を比べると、大きく異なっています。
アポロ神殿で最初につくられたのは、神域、つまり、境内を囲む壁です。
その内側には、祭壇が置かれました。
こうしたスタイルは、エトルリアの神殿に見られる特徴です。 神域の中に
入ると、神殿の正面が目に入ります。 粘土を焼いたテラコッタで装飾されて
いるところにも、エトルリアの影響が見られます。
一方、ドリス式神殿は、近くを流れるサルノ川や、少し離れた海を見下ろせる
場所に立っています。 ギリシャの神殿のように、四方から見る事ができます。
ポンペイは、たくさんの船乗りが行き交う港町でした。 ですから、公共建築を
装飾する職人たちの中には恐らく、よその土地からやって来た人々もいたで
しょう。 紀元前6世紀につくられた神殿の装飾にはテラコッタが使われました。
それは、ギリシャ人の都市だったクマイの職人たちが、つくったものでした。
ポンペイの人々は、当時、最高の技術を持っていた職人を招いたのです。
そして、ギリシャの様式を生かして、神殿の屋根を装飾しました。
ポンペイは、カンパニア地方でも特に豊かな地域で、複数の交易路が交わる
位置にありました。 付近の塩田からとれる塩で乳製品や肉を加工し、輸出も
盛んに行いました。
当時のポンペイでは、さまざまな人々が、協力しながら生活していました。
ポンペイに暮らし始めたギリシャ人たちは、内陸の地方と交易を始めようとしま
した。 内陸部には、肉の生産者がいたからです。
その肉を保存するため、塩田をつくり、塩をとるようになりました。 さまざまな
民族が、ひとつの土地で共存していました。 しかし優位に立とうとする集団が
現れれば、当然、争いが起こります。
多くの利点に恵まれたポンペイは、戦略的に狙われやすいため、都市の
建設者たちは街を防御する必要を感じました。 ポンペイでは紀元前6世紀の
初めには、城壁が、つくられていました。
つまり、都市としての形が、すでに存在したわけです。 街を囲む城壁は、
都市の構造で重要な要素です。 ポンペイの城壁は、建設当初から、現在と
同じ場所にあった事が分かっています。
ギリシャ式の都市計画は、非常に緻密で、城壁や神殿にも、高度な技術が
うかがえます。 ポンペイは、建設当初から、周囲3キロにわたり、火山岩の
城壁で囲まれていました。 ただ、その形は不思議なものでした。
北東の角が、不自然に曲がっていたのです。 それは、現在、遺跡の南側を
流れるサルノ川が、当時は、北側を流れていた事を示唆しています。 城壁は
川の流れに沿っていたのです。
ポンペイは、内陸部に住んでいた人々と、沿岸部に住んでいた人々の協力に
よって誕生しました。 しかし、文化もルーツも異なる集団の良好な関係は、
長くは続きませんでした。
間もなく、北から来たエトルリア人は、沿岸部の都市クマイにいたギリシャ人を
追い出そうと考えました。 カンパニア地方は、異なる2つの文明の最前線
だったといえます。
南のギリシャ文明と、北のエトルリア文明が、この地で、ぶつかったのです。
紀元前524年、ポンペイの建設から間もない頃、エトルリア人とギリシャ人は、
クマイで衝突します。
エトルリア人は、ギリシャ人から戦闘技術を学んでいましたが、この戦いは、
ギリシャ人が勝利しました。 しかし両者の対決は、1度だけでは終わりません
でした。 紀元前474年、エトルリア人は、再び、ギリシャ人に戦いを挑みます。
ギリシャ軍の艦隊には、強力な指導者がいました。 ヒエロン1世です。
エトルリア軍は追い詰められ、文字通り全滅しました。 このクマイでの海戦は
両者の関係に、決定的な結果をもたらしました。
交易におけるエトルリア人の覇権が、終わりを告げたのです。 争いの原因と
なったのは、カンパニア地方の豊かな土地でした。 カンパニアは、肥沃な
土壌と、穏やかな気候に恵まれた、資源の宝庫です。
更に地中海東部からヨーロッパ北部へ向かう船の中継地点としても、重要な
役割を担っていました。 多くの人や物が行き交う事で、この商業都市には、
莫大な富が、もたらされたのです。
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クマイの戦いで敗北したエトルリア人は、衰退への道を歩む事になります。
戦いに敗れたエトルリア人の勢力は衰え、ポンペイでの力を失いました。
その後、およそ半世紀、ギリシャ人がポンペイを支配しました。
この時期、街の範囲は、かなり縮小したとみられています。 都市の中心部を
囲むように、前よりも規模の小さな城壁が、新たにつくられました。
当時のポンペイについては、まだ、分からない部分が、多く残っています。
次に、ポンペイの支配者となったのは、イタリア半島中部の山岳地帯から
やって来た、サムニウム人でした。
紀元前5世紀後半、山岳民族のサムニウム人は、カンパニア地方の土地を
切望していました。 そこで、ヴェスヴィオ山麓の平原への進出を試みます。
目的をかなえるため、ポンペイを含む、いくつもの都市を攻撃し、手に入れま
した。 ポンペイを手に入れたサムニウム人は、街を飛躍的に発展させる事に
成功しました。
新たな地区が整備され、公共の場と、私的な場が分けられて行きました。
神殿などの宗教の場や、工房や店舗といった、製造・小売業の場も区別され
ました。
現在知られているポンペイの街の基礎は、サムニウム人によってつくられた
ものなのです。 建築技術の面でも、サムニウム人は、大きな変化をもたらし
ました。
それ以前のポンペイでは、壁をつくる際に、さまざまな材料が使われました。
中でも、よく用いられていたのは溶岩です。 しかしサムニウム人の支配後は
別の素材が選ばれるようになります。
特に使われたのは、近くの渓谷で採れる石灰岩でした。 それは、街の城壁
だけでなく、個人住宅にも用いられました。
サムニウム人による征服後は、城壁は強化され、神殿は修復されました。
建物も増え、ポンペイの中心部は再び拡大しました。
紀元前5世紀末、ポンペイの影響力は広がり、サムニウム人が、内陸部や
沿岸部に建設したライバル都市と、張り合うまでになりました。 しかし、その
北から、新たな勢力が登場します。 ローマ人です。
ローマは、イタリア半島中部を中心に、強力な国となりつつありました。
そして、紀元前4世紀から3世紀初め、半島全域の征服へと乗り出します。
まず、北部にいたエトルリア人勢力を破り、支配下に、おさめました。
そして、ついに、半島の中央部で、サムニウム人と、にらみ合います。
ローマの目的は、海岸沿いを南下すること。 その道筋には、サムニウム人が
支配するポンペイがありました。
何としても、ポンペイを奪い取らなくてはなりませんでした。 サムニウム人を
倒せば、ローマは更に南へと進出し、半島南部を手に入れる事ができます。
北は、ほぽ征服し、もっと南にはギリシャ人がいました。
その手前に立ちはだかっていたのが、サムニウム人だったのです。
紀元前4世紀後半、数十年続く戦乱の間も、ポンペイは発展を続けました。
やがてサムニウム人は、南のギリシャだけでなく、北のローマの建築様式も
取り入れ、ポンペイの街を進化させて行きました。
ポンペイは、自らをローマ化し始めました。 なぜならローマは、当時の地中海
世界で、最も魅力的な都市だったからです。 ローマ様式の神殿建設や、
公共広場の再整備が進められました。
ポンペイは、東に向かって街を拡張させて行きます。 南北の軸となる新たな
大通りも東側につくられました。 紀元前3世紀から2世紀にかけて、ユピテル
神殿・大劇場・公共浴場など、多くの施設が登場しました。
街は、ギリシャのヘレニズム様式に沿って再設計されます。 中心部の通りに
面した建物の壁は、各地から取り寄せた石灰岩などで、つくり直されました。
同じ頃、城壁も補強されます。 8つの門が、新たに設計されました。
港へつながるマリーナ門、海辺の町に通じるエルコラーノ門、そして、1番高い
ところにあるヴェスヴィオ門などが、街を守る事になりました。 現在でも7つの
門が残っています。
そのひとつ、ノーラ門のアーチから発見された碑文には建設を命じた責任者の
名前が刻まれています。 ポンペイの街は、城壁を越えて拡大して行きました。
郊外には、数多くの別荘が建設されました。
サムニウム人が手を加えたポンペイは、巧みに組織され、設計された巨大
都市となったのです。 ポンペイの大劇場は、ギリシャの劇場建築に触発され
紀元前2世紀に、つくられました。自然の傾斜を利用して建設されたものです。
大劇場は、5000人が座れる規模を誇りました。 スタンドの上には、何枚もの
テントが掛けられ夏の暑い日には観客たちに日陰を提供する事ができました。
内部にも、ギリシャの劇場の影響が見られます。
その構造は、合唱隊用のスペース・舞台、そして階段状の観客席から成って
いました。 観客席は、舞台に近い方から上流階級用、次に市民用、更に、
身分の低い者たちの席に分かれていました。
隣には、付属の施設もありました。 74本の円柱で囲まれたスペースで、
人々は、観劇の前後に散策を楽しみました。 体育施設がつくられたのも、
ギリシャの影響です。
紀元前3世紀から2世紀にかけ、ポンペイが次々に新たな建物をつくれたのは
都市が豊かだったからにほかなりません。 一方で、住民たちは、火山の
危険性を、ほとんど意識していませんでした。
当時、火山が噴火するのは、神々に逆らおうとして敗れた怪物たちが暴れて
いるからだと、考えられていたのです。
隆盛を誇るポンペイには、農業や畜産に加え、流通の拠点として栄えた港も
ありました。 肥沃な土地から恵みを得るだけでなく、港を介した交易からも、
莫大な利益を得ていたのです。
平和の中でポンペイは、繁栄を謳歌していました。 しかし、この豊かな都市を
巡る、サムニウム人とローマ人の対立は、激化する一方でした。 ポンペイの
歴史は、次第に血生臭さを増して行きます。
ローマによるポンペイの征服は、非常に暴力的でした。 人々の心には、深い
傷痕が残ったでしょう。 紀元前3世紀に入る頃、それまで幾度も苦杯をなめて
きたローマ人は、ついに、サムニウム人を内陸部へと追い詰めます。
しかし、サムニウム人は、ひるみませんでした。 紀元前295年、ローマの南を
本拠地とするサムニウム人は、なんとローマの北東200キロまで回り込みます。
そこで同盟軍と合流し、最後の決戦に挑みました。
序盤はローマ軍が劣勢でしたが、徐々に巻き返します。 戦死者は、ローマ兵
およそ9000人に対し、サムニウム兵は、2万5000人にも及びました。
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敗れたサムニウム人は、厳しい和平の条件を押しつけられます。 ポンペイは
ローマの軍事同盟に参加する事を、強いられました。
紀元前290年に結ばれた協定により、ローマは南方への進出を果たしました。
そしてポンペイには、平和が戻ったのです。
ポンペイの建築物には、ローマの影響が色濃く見られます。 スタビア浴場は
最も古く、紀元前3世紀に、つくられました。
当初は、井戸から水を引き、浴室は熱を失わないよう、窓の数や大きさを
最小限に抑えたため、薄暗い空間となっていました。 スタビア浴場が非常に
興味深いのは、それが、ローマ式浴場の原型ともいえる点です。
古代ローマで普及する温熱式浴場は、紀元前2世紀後半に登場しました。
床は、高さ60センチほどのレンガの柱の上に厚い石を敷いてつくられました。
熱は、建物の外に置かれた、風呂釜から送られます。
煙は、風呂場の反対側のダクトから排出されました。 ポンペイの暮らしは、
更に快適さを増して行きました。 しかし、ローマへの不満を抱くポンペイは、
紀元前91年、軍事同盟を拒否し、より多くの自由を求めました。
ローマは即座に反応し、1人の人物を送り込みます。 スッラ将軍です。
そして戦争が起きました。 戦いは紆余曲折を経ながら、3年ほど続きました。
そして最後の決戦が、ポンペイで起こります。
ポンペイの人々は、ローマ軍の猛攻撃に立ち向かうため、城壁の内側に立て
こもりました。 激しい包囲戦が繰り広げられ、多くの血が流れました。
スッラはポンペイを包囲します。 スッラはポンペイの北側に陣地を置きました。
大きな石を放って街を攻撃するため、最も有利な位置を確保したのです。
スッラの軍隊が放った弾の痕は、現在でもハッキリと確認する事ができます。
ヴェスヴィオ門と、エルコラーノ門の間にある、壁に残っているのです。
ポンペイを救おうと、周辺の地域からも、続々と援軍がやって来ました。
遺跡の壁には、援軍によって、新たな部隊が置かれた事を知らせる文字が、
20個以上も残っています。
壁に書かれた言葉は、兵士、または、部隊という意味を持っていたようです。
正確には分かりませんが、恐らく、戦いの指示を出すために使われたもので
しょう。 しかし、戦いはローマの圧勝に終わり、ポンペイは独立を失います。
ローマ人は敗者であるサムニウム人の記録や痕跡を消し去る事に務めました。
ポンペイには、ローマの退役軍人が入植しました。 その数は、5000人とも
いわれ、社会は大きな変化にさらされます。
経済的にもローマとの結び付きが強まり、ポンペイは完全にローマの一都市
となったのです。 ローマによる支配が始まった紀元前1世紀以降、小劇場や
新たな公共浴場などが、つくられました。
浴場の温水を供給する設備は、男女共有でした。 浴室は、男女別になって
いました。 男性用の浴室の反対側に、女性用の浴室がつくられ、入り口は
別々でした。
どちらにも、更衣室や温度調節された湯船が、備え付けられていました。
男性用には、運動場も設けられました。
都市全域に及ぶ水の供給ネットワークも、導入されました。 水は、街の最も
高い所にあるヴェスヴィオ門に近い分水施設で3分割され、いくつもの給水塔
を経て、公共施設や噴水、個人宅へと送られました。
カンパニア地方に水を供給する水道橋は、ローマ皇帝アウグストゥスの命に
より、建設されました。 全長は、95キロにも達します。 ポンペイ・スタビア・
ノーラなど、8都市に水を供給し、海に面した港町まで続きました。
水道システムには、当時の技術力の高さが余すところなく発揮されています。
ポンペイは、北から南へ、海に向かって傾斜しています。 もし、水を自然の
流れに任せると低い位置にある建物には強い水圧がかかってしまうのです。
そこで、一定の間隔を空けて、街の中に、いくつもの給水塔を設けました。
水は水道管を経て、斜面の途中の給水塔に、一旦、ためられます。 そうする
事で、圧力を調整していたのです。
低い場所の公共施設などには、複数の給水塔を経由して、水が供給されて
いました。 水の流れを制御する技術が、確立されていたわけです。
もう1つ、ポンペイにつくられた、典型的なローマの大規模建築があります。
円形闘技場です。 劇場建築はギリシャ人の発明で、ローマ人は、それを
自分たち向けにアレンジしたにすぎません。
しかし円形闘技場は、まさに、ローマ人による創造物です。 ポンペイの円形
闘技場は長さ、およそ140メートル、幅105メートル、中央部も、67メートル、
35メートルあります。
驚異的な技術により、建物本体は、地面を数メートル掘って、つくられました。
ローマ帝国内で見つかった闘技場の遺構としては、最古のものです。
収容人数は、1万2000人。 最大で2万人が詰めかけたという、資料も残って
います。 当時のポンペイは人口およそ1万人ですが、円形闘技場は2万人を
収容したといわれます。 これは驚くべき数字です。
大劇場と比べても、桁違いの規模だったといえるでしょう。 闘技場最大の
見世物である剣闘士のショーには、周辺地域から、膨大な数の人々が集まり
ました。 剣闘士のショーは、当時の都市生活において、重要な娯楽でした。
ポンペイには、剣闘士の学校まであったほどです。 この絵は、歴史の断片を
伝えています。西暦59年、剣闘士の試合が行われ、ポンペイと近隣の都市が
競いました。
ポンペイは敗れ、結果に不満を持つ人々が大乱闘を起こし、死者まで出る
騒ぎとなりました。 騒動を重く見たローマ政府は、以後10年間、ポンペイでの
剣闘士の試合を禁じました。
誕生から、およそ600年経った紀元前1世紀、ポンペイは完全に古代ローマの
一部となっていました。 最新の設備に、壮大な神殿、数々の劇場や広場は、
豊かさの象徴でした。
ポンペイは、神々の祝福を受けた都市として、青く輝く地中海を背に、栄華を
極めました。 イタリア半島は、もちろん、北アフリカやヨーロッパ各地からも、
人々が訪れる国際都市でした。
しかし西暦79年、ヴェスヴィオ山が、ついに噴火します。 かつて、ノーラの
集落を葬って以来の大噴火でした。 ガスとチリの雲は、火口から高度3万
メートルまで上昇し、18時間もの間、灰が降り続きました。
街は、厚さ5メートルもの火山灰に埋まり、瞬く間に、2000人以上が命を落とし
ました。 いくつもの文化が交わり、繁栄と羨望、そして争いの場となって来た
ポンペイ。 800年に及ぶ歴史は、地中へと封じ込められ、人々の記憶から
消えて行ったのです。
イタリアの古代都市ポンペイ。 西暦79年、火山の大噴火で大量の火山灰に
埋もれました。 一夜にして壊滅する以前、ポンペイは、どんな歴史を紡いで
いたのでしょうか? その起源は、古代ローマよりも、はるか昔に遡ります。
いにしえのポンペイとは? なぜ、火山のそばに、つくられたのでしょうか?
この土地には、人々を引き付ける魅力があるのです。 優れた立地に加え、
豊かな土壌と、美しい風景があります。
噴火が起こる前、ポンペイには人々が積み重ねた、800年にも及ぶ華やかで
複雑な歴史がありました。 ポンペイでは都市計画が行われ、街は道路に
よって規則的に分割されました。
今日、知られている街の姿を、つくり上げたのは、サムニウム人と呼ばれる
人々です。 繁栄と衰退、そして… ローマによるポンペイの征服は、人々の
心に深い傷痕を残しました。
大量の火山灰に埋もれた都市の下には、さらに古いポンペイの痕跡が横た
わっています。 栄華を極め、憧れの的となり、やがて戦いに敗れた歴史の
記憶です。 世界で最も有名な古代都市のひとつポンペイ。 その知られざる
原点に迫ります。
ポンペイから、およそ10キロの位置にそびえる、ヴェスヴィオ山。 今もなお、
活動を続ける、この火山は、ポンペイの歴史と切り離す事ができません。
19世紀半ばには、世界初の火山観測所が建てられました。
今いるのは、ヴェスヴィオ山の西側斜面です。 この火山は、はるか昔から
断続的に活動を続けて来ました。
40万年前、イタリア南部のカンパニア地方に、火山が出現しました。 大量の
マグマが、もろい地層を通り抜け、地表に噴出したのです。 ヴェスヴィオ山は
ナポリ湾を囲むように広がる、火山帯の一部です。
ポンペイに程近いフレグレイ平野、沖合のイスキア島、更に、いくつかの海底
火山が含まれます。 一帯には火山が点在し、どの山が、いつ噴火するか?
予測は困難です。
この地域に住んでいた古代の人々も長い間、噴火していない火山の危険性を
ほとんど意識していませんでした。 古代には、火山活動が何千年も止まって
いた時期もありました。
ヴェスヴィオ山も、長い沈黙の期間を挟みながら、噴火を繰り返して来ました。
そして西暦79年、ポンペイの街を壊滅させた、大噴火が起こります。 その、
すさまじい力は、たった1日で、2000人以上の命を奪ったのです。
古文書によれば、ポンペイの人々はヴェスヴィオ山が火山である事は知って
いたようです。 しかし、噴火すれば大参事を招く事になるとは、考えていませ
んでした。
何万年にも及ぶヴェスヴィオ山の火山活動は、カンパニア地方に、実り豊かな
大地を生み出しました。 サルノ川の河口に近いポンペイも、ヴェスヴィオ山の
麓に広がる田園地帯の一角を占めています。
4000年前、ヴェスヴィオ山は現在より500メートル以上高く、標高1800メートル
もありました。 その後の度重なる噴火により、山は姿を変え、周囲の平野を
肥沃にしました。
この地域には、はるか昔から人々が定住していた跡がいくつも残っています。
今世紀初め、ヴェスヴィオ山の北側に位置するノーラで、発掘調査が行われ
ました。
6メートル下まで掘り進めると、複数の小屋の跡と、10匹以上の羊の骨が
見つかりました。 それは、紀元前1700年頃の遺跡でした。
当時、この地に集落を築いた人々の住居跡です。 更に住居以外にも重要な
発見がありました。 集落の中に、網の目状に広がる水路の跡です。
水路の土手は、木の杭で補強されていました。 発掘された住居は、住民の
生活様式についても、貴重な情報をもたらしました。 建物は、馬のひづめの
ような形をしていた事が分かっています。
最大で高さ、およそ5メートル。 長さ17メートル。 幅9メートル。 10人ほどが
寝泊まりできる大きさでした。
そしてポンペイが噴火によって壊滅する、更に2000年も前… このノーラにも
ヴェスヴィオ山の噴火で火山灰や軽石が、大量に積もったのです。
噴火によって、14時間以上も、火山灰が降り続いたと考えられています。
更に、大雨による土石流が発生し、集落は完全に埋もれました。 その結果、
住居の一部は腐る事なく、地中に保存される事になりました。
ポンペイと同じように、ノーラの人々も、逃げる時間がなかったのでしょう。
噴火は大規模で、火砕流は、火口から15キロ離れた地点にまで達しました。
それは、まさに、破滅的な状況だったに違いありません。
しかし、生き残った人々もいました。 彼らは、サルノ川に沿って海岸近くに
移動し、新しい集落を築きます。 そこは、土壌が豊かでした。 更に、海が
近いため、生活するだけでなく、交易を行うにも理想的な場所だったのです。
やがて彼らは、海の向こうから来た、高い技能を持つ集団と遭遇します。
それは、ギリシャ人でした。 紀元前8世紀以降、ギリシャ人は、地中海沿岸に
大規模に移住する、植民を開始しました。
南イタリアやシチリア島に、ギリシャ文化が伝わり始めます。 イタリア半島に
おける、最初の植民市は、紀元前770年頃、カンパニア地方の小島に築かれ
ました。 現在のイスキア島です。
イスキア島の植民市の人々は、次第に対岸の海辺に暮らす、他のギリシャ人
たちとの交流を深めて行きます。 30年後、新たにやって来た入植者たちには
イスキア島は狭すぎました。
そこで、新しい植民市クマイが、フレグレイ平野につくられたのです。 新たな
入植者は海岸に近く都市を築くのに適した岩山があるクマイに定住しました。
周りには、火山がもたらした肥沃な土壌が広がっていました。
農業に最適で水も豊富にありました。 クマイなどの植民市は、ギリシャ人が
穀物や金属の交易を支配する、拠点となりました。 こうして、沿岸部を
ギリシャ人が支配する一方、内陸部には別の人々が、やって来ました。
紀元前7世紀、イタリア半島中部を支配していた、エトルリア人です。 彼らは
ヴェスヴィオ山の北側に進出し、新たな都市を築きました。 そして、すでに
1世紀近く定住していたギリシャ人と交わります。
エトルリア人は、ギリシャの植民市に鉱物を輸出し、ギリシャ人は、それを加工
する事で利益を上げました。 次第に両者の関係は、強固なものとなって行き
ました。
このギリシャ人とエトルリア人の結び付きこそ、商業都市ポンペイを生んだ
最大の要因です。 ポンペイがつくられたのは、標高33メートルの高台でした。
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そこは交易のため、湾内の各都市を行き交う船を監視するのに、最も適した
場所でした。 更に、この地に街が築かれた理由が、もう1つありました。
建物をつくる際、必要な資材を現地で調達する事が、できたのです。
ポンペイは周辺の火山岩を活用した街づくりの、最も優れた例のひとつです。
この岩は、軽くて潰れにくく、非常に扱いやすいのです。 しかも切断しやすい
ため、街がつくられ始めた当初から、盛んに切り出されました。
ポンペイの都市建設が、いつ始まったのか? 詳しくは分かっていませんが、
この地が選ばれた理由は、明らかでした。 あらゆる点で優れた土地だから
です。 この辺りは、非常に魅力的な場所です。
立地に恵まれ、風景が美しく、何より肥沃な土壌がありました。 ポンペイは、
異なる文化が合流していた場所だったといえます。 土着の文化に加え、
外部から入って来た、2つの文化が存在していたのです。
1つは、北からやって来たエトルリア人の文化。 もう1つは、非常に早い時期
からイタリア南部に入植していた、南のギリシャ人の文化です。 2つの文化の
痕跡は、ハッキリと残っています。
今日、目にする遺跡の下には、過去からの歴史が積み重なっています。
その始まりは紀元前6世紀に、さかのぼります。 最新の研究ではポンペイの
都市計画は、紀元前6世紀に始まったと考えられています。
まず、南北方向に、街を貫く通りがつくられました。 1本は、フォロ通りとメル
クーリオ通りです。 そしてもう1本は、ヴェスヴィオ門とスタビア門の間を結ん
でいる、ヴェスヴィオ通りとスタビアーナ通りです。
ポンペイを調査した初期の考古学者たちは、遺跡の位置を把握しやすいよう
街を9つの区画に分けました。 やがて、街の軸となる直交する大きな通りを
突き止めます。
東西の軸は、西のマリーナ門から始まり、東のサルノ門に向かって続いてい
ました。 直交する南北の軸は、南のスクオーレ通りから始まり、公共広場、
フォルムに沿って北へ延び、フォロ通りとメルクーリオ通りに続いています。
ポンペイをつくり上げた人々の痕跡が、見つかったのです。 ポンペイの街は
2つの大きな神殿を核にして、つくられています。 それは、アポロ神殿と、
ドリス式神殿です。
街の面積は、およそ0.7平方キロメートル。3分の2が住宅地で、残りは庭園や
畑でした。 街は、中心から徐々に広がったわけではありません。 初めから
現在のような規模になるよう、計画的に建設されて行きました。
ポンペイは、多様な人々が行き交う文化のるつぼでした。 初期につくられた
神殿の建築様式にはエトルリアやギリシャの文化の影響が色濃く見られます。
アポロ神殿とドリス式神殿は、建築様式を比べると、大きく異なっています。
アポロ神殿で最初につくられたのは、神域、つまり、境内を囲む壁です。
その内側には、祭壇が置かれました。
こうしたスタイルは、エトルリアの神殿に見られる特徴です。 神域の中に
入ると、神殿の正面が目に入ります。 粘土を焼いたテラコッタで装飾されて
いるところにも、エトルリアの影響が見られます。
一方、ドリス式神殿は、近くを流れるサルノ川や、少し離れた海を見下ろせる
場所に立っています。 ギリシャの神殿のように、四方から見る事ができます。
ポンペイは、たくさんの船乗りが行き交う港町でした。 ですから、公共建築を
装飾する職人たちの中には恐らく、よその土地からやって来た人々もいたで
しょう。 紀元前6世紀につくられた神殿の装飾にはテラコッタが使われました。
それは、ギリシャ人の都市だったクマイの職人たちが、つくったものでした。
ポンペイの人々は、当時、最高の技術を持っていた職人を招いたのです。
そして、ギリシャの様式を生かして、神殿の屋根を装飾しました。
ポンペイは、カンパニア地方でも特に豊かな地域で、複数の交易路が交わる
位置にありました。 付近の塩田からとれる塩で乳製品や肉を加工し、輸出も
盛んに行いました。
当時のポンペイでは、さまざまな人々が、協力しながら生活していました。
ポンペイに暮らし始めたギリシャ人たちは、内陸の地方と交易を始めようとしま
した。 内陸部には、肉の生産者がいたからです。
その肉を保存するため、塩田をつくり、塩をとるようになりました。 さまざまな
民族が、ひとつの土地で共存していました。 しかし優位に立とうとする集団が
現れれば、当然、争いが起こります。
多くの利点に恵まれたポンペイは、戦略的に狙われやすいため、都市の
建設者たちは街を防御する必要を感じました。 ポンペイでは紀元前6世紀の
初めには、城壁が、つくられていました。
つまり、都市としての形が、すでに存在したわけです。 街を囲む城壁は、
都市の構造で重要な要素です。 ポンペイの城壁は、建設当初から、現在と
同じ場所にあった事が分かっています。
ギリシャ式の都市計画は、非常に緻密で、城壁や神殿にも、高度な技術が
うかがえます。 ポンペイは、建設当初から、周囲3キロにわたり、火山岩の
城壁で囲まれていました。 ただ、その形は不思議なものでした。
北東の角が、不自然に曲がっていたのです。 それは、現在、遺跡の南側を
流れるサルノ川が、当時は、北側を流れていた事を示唆しています。 城壁は
川の流れに沿っていたのです。
ポンペイは、内陸部に住んでいた人々と、沿岸部に住んでいた人々の協力に
よって誕生しました。 しかし、文化もルーツも異なる集団の良好な関係は、
長くは続きませんでした。
間もなく、北から来たエトルリア人は、沿岸部の都市クマイにいたギリシャ人を
追い出そうと考えました。 カンパニア地方は、異なる2つの文明の最前線
だったといえます。
南のギリシャ文明と、北のエトルリア文明が、この地で、ぶつかったのです。
紀元前524年、ポンペイの建設から間もない頃、エトルリア人とギリシャ人は、
クマイで衝突します。
エトルリア人は、ギリシャ人から戦闘技術を学んでいましたが、この戦いは、
ギリシャ人が勝利しました。 しかし両者の対決は、1度だけでは終わりません
でした。 紀元前474年、エトルリア人は、再び、ギリシャ人に戦いを挑みます。
ギリシャ軍の艦隊には、強力な指導者がいました。 ヒエロン1世です。
エトルリア軍は追い詰められ、文字通り全滅しました。 このクマイでの海戦は
両者の関係に、決定的な結果をもたらしました。
交易におけるエトルリア人の覇権が、終わりを告げたのです。 争いの原因と
なったのは、カンパニア地方の豊かな土地でした。 カンパニアは、肥沃な
土壌と、穏やかな気候に恵まれた、資源の宝庫です。
更に地中海東部からヨーロッパ北部へ向かう船の中継地点としても、重要な
役割を担っていました。 多くの人や物が行き交う事で、この商業都市には、
莫大な富が、もたらされたのです。
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クマイの戦いで敗北したエトルリア人は、衰退への道を歩む事になります。
戦いに敗れたエトルリア人の勢力は衰え、ポンペイでの力を失いました。
その後、およそ半世紀、ギリシャ人がポンペイを支配しました。
この時期、街の範囲は、かなり縮小したとみられています。 都市の中心部を
囲むように、前よりも規模の小さな城壁が、新たにつくられました。
当時のポンペイについては、まだ、分からない部分が、多く残っています。
次に、ポンペイの支配者となったのは、イタリア半島中部の山岳地帯から
やって来た、サムニウム人でした。
紀元前5世紀後半、山岳民族のサムニウム人は、カンパニア地方の土地を
切望していました。 そこで、ヴェスヴィオ山麓の平原への進出を試みます。
目的をかなえるため、ポンペイを含む、いくつもの都市を攻撃し、手に入れま
した。 ポンペイを手に入れたサムニウム人は、街を飛躍的に発展させる事に
成功しました。
新たな地区が整備され、公共の場と、私的な場が分けられて行きました。
神殿などの宗教の場や、工房や店舗といった、製造・小売業の場も区別され
ました。
現在知られているポンペイの街の基礎は、サムニウム人によってつくられた
ものなのです。 建築技術の面でも、サムニウム人は、大きな変化をもたらし
ました。
それ以前のポンペイでは、壁をつくる際に、さまざまな材料が使われました。
中でも、よく用いられていたのは溶岩です。 しかしサムニウム人の支配後は
別の素材が選ばれるようになります。
特に使われたのは、近くの渓谷で採れる石灰岩でした。 それは、街の城壁
だけでなく、個人住宅にも用いられました。
サムニウム人による征服後は、城壁は強化され、神殿は修復されました。
建物も増え、ポンペイの中心部は再び拡大しました。
紀元前5世紀末、ポンペイの影響力は広がり、サムニウム人が、内陸部や
沿岸部に建設したライバル都市と、張り合うまでになりました。 しかし、その
北から、新たな勢力が登場します。 ローマ人です。
ローマは、イタリア半島中部を中心に、強力な国となりつつありました。
そして、紀元前4世紀から3世紀初め、半島全域の征服へと乗り出します。
まず、北部にいたエトルリア人勢力を破り、支配下に、おさめました。
そして、ついに、半島の中央部で、サムニウム人と、にらみ合います。
ローマの目的は、海岸沿いを南下すること。 その道筋には、サムニウム人が
支配するポンペイがありました。
何としても、ポンペイを奪い取らなくてはなりませんでした。 サムニウム人を
倒せば、ローマは更に南へと進出し、半島南部を手に入れる事ができます。
北は、ほぽ征服し、もっと南にはギリシャ人がいました。
その手前に立ちはだかっていたのが、サムニウム人だったのです。
紀元前4世紀後半、数十年続く戦乱の間も、ポンペイは発展を続けました。
やがてサムニウム人は、南のギリシャだけでなく、北のローマの建築様式も
取り入れ、ポンペイの街を進化させて行きました。
ポンペイは、自らをローマ化し始めました。 なぜならローマは、当時の地中海
世界で、最も魅力的な都市だったからです。 ローマ様式の神殿建設や、
公共広場の再整備が進められました。
ポンペイは、東に向かって街を拡張させて行きます。 南北の軸となる新たな
大通りも東側につくられました。 紀元前3世紀から2世紀にかけて、ユピテル
神殿・大劇場・公共浴場など、多くの施設が登場しました。
街は、ギリシャのヘレニズム様式に沿って再設計されます。 中心部の通りに
面した建物の壁は、各地から取り寄せた石灰岩などで、つくり直されました。
同じ頃、城壁も補強されます。 8つの門が、新たに設計されました。
港へつながるマリーナ門、海辺の町に通じるエルコラーノ門、そして、1番高い
ところにあるヴェスヴィオ門などが、街を守る事になりました。 現在でも7つの
門が残っています。
そのひとつ、ノーラ門のアーチから発見された碑文には建設を命じた責任者の
名前が刻まれています。 ポンペイの街は、城壁を越えて拡大して行きました。
郊外には、数多くの別荘が建設されました。
サムニウム人が手を加えたポンペイは、巧みに組織され、設計された巨大
都市となったのです。 ポンペイの大劇場は、ギリシャの劇場建築に触発され
紀元前2世紀に、つくられました。自然の傾斜を利用して建設されたものです。
大劇場は、5000人が座れる規模を誇りました。 スタンドの上には、何枚もの
テントが掛けられ夏の暑い日には観客たちに日陰を提供する事ができました。
内部にも、ギリシャの劇場の影響が見られます。
その構造は、合唱隊用のスペース・舞台、そして階段状の観客席から成って
いました。 観客席は、舞台に近い方から上流階級用、次に市民用、更に、
身分の低い者たちの席に分かれていました。
隣には、付属の施設もありました。 74本の円柱で囲まれたスペースで、
人々は、観劇の前後に散策を楽しみました。 体育施設がつくられたのも、
ギリシャの影響です。
紀元前3世紀から2世紀にかけ、ポンペイが次々に新たな建物をつくれたのは
都市が豊かだったからにほかなりません。 一方で、住民たちは、火山の
危険性を、ほとんど意識していませんでした。
当時、火山が噴火するのは、神々に逆らおうとして敗れた怪物たちが暴れて
いるからだと、考えられていたのです。
隆盛を誇るポンペイには、農業や畜産に加え、流通の拠点として栄えた港も
ありました。 肥沃な土地から恵みを得るだけでなく、港を介した交易からも、
莫大な利益を得ていたのです。
平和の中でポンペイは、繁栄を謳歌していました。 しかし、この豊かな都市を
巡る、サムニウム人とローマ人の対立は、激化する一方でした。 ポンペイの
歴史は、次第に血生臭さを増して行きます。
ローマによるポンペイの征服は、非常に暴力的でした。 人々の心には、深い
傷痕が残ったでしょう。 紀元前3世紀に入る頃、それまで幾度も苦杯をなめて
きたローマ人は、ついに、サムニウム人を内陸部へと追い詰めます。
しかし、サムニウム人は、ひるみませんでした。 紀元前295年、ローマの南を
本拠地とするサムニウム人は、なんとローマの北東200キロまで回り込みます。
そこで同盟軍と合流し、最後の決戦に挑みました。
序盤はローマ軍が劣勢でしたが、徐々に巻き返します。 戦死者は、ローマ兵
およそ9000人に対し、サムニウム兵は、2万5000人にも及びました。
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敗れたサムニウム人は、厳しい和平の条件を押しつけられます。 ポンペイは
ローマの軍事同盟に参加する事を、強いられました。
紀元前290年に結ばれた協定により、ローマは南方への進出を果たしました。
そしてポンペイには、平和が戻ったのです。
ポンペイの建築物には、ローマの影響が色濃く見られます。 スタビア浴場は
最も古く、紀元前3世紀に、つくられました。
当初は、井戸から水を引き、浴室は熱を失わないよう、窓の数や大きさを
最小限に抑えたため、薄暗い空間となっていました。 スタビア浴場が非常に
興味深いのは、それが、ローマ式浴場の原型ともいえる点です。
古代ローマで普及する温熱式浴場は、紀元前2世紀後半に登場しました。
床は、高さ60センチほどのレンガの柱の上に厚い石を敷いてつくられました。
熱は、建物の外に置かれた、風呂釜から送られます。
煙は、風呂場の反対側のダクトから排出されました。 ポンペイの暮らしは、
更に快適さを増して行きました。 しかし、ローマへの不満を抱くポンペイは、
紀元前91年、軍事同盟を拒否し、より多くの自由を求めました。
ローマは即座に反応し、1人の人物を送り込みます。 スッラ将軍です。
そして戦争が起きました。 戦いは紆余曲折を経ながら、3年ほど続きました。
そして最後の決戦が、ポンペイで起こります。
ポンペイの人々は、ローマ軍の猛攻撃に立ち向かうため、城壁の内側に立て
こもりました。 激しい包囲戦が繰り広げられ、多くの血が流れました。
スッラはポンペイを包囲します。 スッラはポンペイの北側に陣地を置きました。
大きな石を放って街を攻撃するため、最も有利な位置を確保したのです。
スッラの軍隊が放った弾の痕は、現在でもハッキリと確認する事ができます。
ヴェスヴィオ門と、エルコラーノ門の間にある、壁に残っているのです。
ポンペイを救おうと、周辺の地域からも、続々と援軍がやって来ました。
遺跡の壁には、援軍によって、新たな部隊が置かれた事を知らせる文字が、
20個以上も残っています。
壁に書かれた言葉は、兵士、または、部隊という意味を持っていたようです。
正確には分かりませんが、恐らく、戦いの指示を出すために使われたもので
しょう。 しかし、戦いはローマの圧勝に終わり、ポンペイは独立を失います。
ローマ人は敗者であるサムニウム人の記録や痕跡を消し去る事に務めました。
ポンペイには、ローマの退役軍人が入植しました。 その数は、5000人とも
いわれ、社会は大きな変化にさらされます。
経済的にもローマとの結び付きが強まり、ポンペイは完全にローマの一都市
となったのです。 ローマによる支配が始まった紀元前1世紀以降、小劇場や
新たな公共浴場などが、つくられました。
浴場の温水を供給する設備は、男女共有でした。 浴室は、男女別になって
いました。 男性用の浴室の反対側に、女性用の浴室がつくられ、入り口は
別々でした。
どちらにも、更衣室や温度調節された湯船が、備え付けられていました。
男性用には、運動場も設けられました。
都市全域に及ぶ水の供給ネットワークも、導入されました。 水は、街の最も
高い所にあるヴェスヴィオ門に近い分水施設で3分割され、いくつもの給水塔
を経て、公共施設や噴水、個人宅へと送られました。
カンパニア地方に水を供給する水道橋は、ローマ皇帝アウグストゥスの命に
より、建設されました。 全長は、95キロにも達します。 ポンペイ・スタビア・
ノーラなど、8都市に水を供給し、海に面した港町まで続きました。
水道システムには、当時の技術力の高さが余すところなく発揮されています。
ポンペイは、北から南へ、海に向かって傾斜しています。 もし、水を自然の
流れに任せると低い位置にある建物には強い水圧がかかってしまうのです。
そこで、一定の間隔を空けて、街の中に、いくつもの給水塔を設けました。
水は水道管を経て、斜面の途中の給水塔に、一旦、ためられます。 そうする
事で、圧力を調整していたのです。
低い場所の公共施設などには、複数の給水塔を経由して、水が供給されて
いました。 水の流れを制御する技術が、確立されていたわけです。
もう1つ、ポンペイにつくられた、典型的なローマの大規模建築があります。
円形闘技場です。 劇場建築はギリシャ人の発明で、ローマ人は、それを
自分たち向けにアレンジしたにすぎません。
しかし円形闘技場は、まさに、ローマ人による創造物です。 ポンペイの円形
闘技場は長さ、およそ140メートル、幅105メートル、中央部も、67メートル、
35メートルあります。
驚異的な技術により、建物本体は、地面を数メートル掘って、つくられました。
ローマ帝国内で見つかった闘技場の遺構としては、最古のものです。
収容人数は、1万2000人。 最大で2万人が詰めかけたという、資料も残って
います。 当時のポンペイは人口およそ1万人ですが、円形闘技場は2万人を
収容したといわれます。 これは驚くべき数字です。
大劇場と比べても、桁違いの規模だったといえるでしょう。 闘技場最大の
見世物である剣闘士のショーには、周辺地域から、膨大な数の人々が集まり
ました。 剣闘士のショーは、当時の都市生活において、重要な娯楽でした。
ポンペイには、剣闘士の学校まであったほどです。 この絵は、歴史の断片を
伝えています。西暦59年、剣闘士の試合が行われ、ポンペイと近隣の都市が
競いました。
ポンペイは敗れ、結果に不満を持つ人々が大乱闘を起こし、死者まで出る
騒ぎとなりました。 騒動を重く見たローマ政府は、以後10年間、ポンペイでの
剣闘士の試合を禁じました。
誕生から、およそ600年経った紀元前1世紀、ポンペイは完全に古代ローマの
一部となっていました。 最新の設備に、壮大な神殿、数々の劇場や広場は、
豊かさの象徴でした。
ポンペイは、神々の祝福を受けた都市として、青く輝く地中海を背に、栄華を
極めました。 イタリア半島は、もちろん、北アフリカやヨーロッパ各地からも、
人々が訪れる国際都市でした。
しかし西暦79年、ヴェスヴィオ山が、ついに噴火します。 かつて、ノーラの
集落を葬って以来の大噴火でした。 ガスとチリの雲は、火口から高度3万
メートルまで上昇し、18時間もの間、灰が降り続きました。
街は、厚さ5メートルもの火山灰に埋まり、瞬く間に、2000人以上が命を落とし
ました。 いくつもの文化が交わり、繁栄と羨望、そして争いの場となって来た
ポンペイ。 800年に及ぶ歴史は、地中へと封じ込められ、人々の記憶から
消えて行ったのです。
2023年05月08日 (月) | 編集 |
FC2 トラックバックテーマ:「推し活してる?」
クリスマスを彩る華やかなデコレーション。 アイデアと工夫に満ちたイギリスの
飾りつけは世界的に有名です。 ロンドンの歴史ある博物館から田園地帯の
豪華な宮殿まで。 年々、そのスケールは拡大し、より洗練されて行きます。
今回は、クリスマスを盛り上げる飾りつけのプロたちに密着します。 主人公は
ニックとサラの夫婦と、400人の腕利きのプロたち。 どんな要求も、見事に
かなえます。 “メリー・クリスマス!”
ニックとサラは、22年前からクリスマスのデコレーションを手掛けています。
最初はサラのアイデアで始めたのです。彼女はデザインが得意で私は商売が
得意。 2人の才能を合わせてビジネスにしたら、どんどん大きくなりました。
雪だるまみたいに。
会社の顧客には、人気歌手や俳優など有名人がズラリ。 マライア・キャリーに
カート・ラッセル、ゴールディ・ホーン、それに、ケビン・コスナー。 まだまだ
いますよ。
この日、ニックとサラは、スタッフを率いてロンドンにやって来ました。 入って
行くのは、ランズダウンハウスという、格調高い建物です。
ここは、18世紀に建てられた貴族の館。 第1次世界大戦後、アメリカ出身の
パーティー好きの実業家が、住んだ事もあります。 今は名門のクラブとなって
いて、多くの著名人を含む、会員たちの社交の場となっています。
このクラブが初めてクリスマスの装飾を外部に依頼する事になり、ニックたちが
やって来たのです。 飾りつけは、ロビーにそびえる高さ3メートルのツリーを
はじめ、レストラン・ピアノバーなど、建物全体に及びます。
社交クラブのマネージャーたちも、作業を見守ります。 まずは、貴重な調度品
などを移動させます。 18世紀末、ここで、アメリカの独立戦争を終わらせる
条約の草案が練られたそうです。 その時の文章を大切に保管しています。
大変、貴重な物ですから、飾りつけの際も、特に気を付けてもらわなくては
なりません。 楽しみですね。 プロの皆さんが、この空間を、どう飾るのか?
早く見てみたいです。 期待して下さい!
ニックたちは独創性とスピード、そして、きめ細やかな心遣いをモットーにして
います。 感動を届けるんだ。 この建物のどこにいてもクリスマスの雰囲気を
味わえるようにしたい。
レストランは、朝食が11時に終わり、ランチは12時に始まる。 1時間しかない
から全員で協力して一斉に取りかかろう。ピアノに飾る花はビビの担当だね。
任せたよ。 魔法を見せよう。
スタッフたちは、レストランの朝食時間が終わるまでの間に、他の部屋の飾り
つけを仕上げます。 飾りつけは、いつも正確に、整然と進めて行きます。
現場で、あれこれ迷ったりしません。 全て計算しておくのです。
今回は大がかりですね。 訪れる会員たちを、あっと驚かせるため、サラが
デザインした全長8メートルの花飾りを掛けて行きます。 そこから見ると、どう
です? バランスよく、綺麗に掛かってますよ。 よし!
アレンジメント用のスポンジを使います。 経験豊富なフラワーデザイナーの
ビビ。 今回の飾りつけでは、ピアノバーを担当します。 このアールデコ調の
小型グランドピアノは、かつて豪華客船クイーンメリー号で使われていました。
大切なピアノを鮮やかに彩り、アンティーク調の内装にもマッチするよう、花を
アレンジします。 サラは、全部の部屋の装飾に気を配ります。
ここの感じが、こっちにもあると、華やかさが増すかも。 とても素敵だけど、
あと少しだけ… 金色? そう、キラキラっとね ☆ ツリーが待ってる。
間もなく11時。レストランの飾りつけができるのは朝食とランチの間の僅かな
時間しかありません。 時間との闘いです。 ランチが始まるまでに完成させな
ければいけません。 今から…1時間。
イギリス・リバプールにあるニックたちの会社。 クリスマスが近づき、忙しさが
増すなか、何か問題が起きているようです。
はい、入荷リスト。 コンテナが着かないのです。 みんな遅れています。
今年、使う予定のクリスマス飾りが、5つの国から、全部で125トン届く予定
ですが…。
飾り物が届かない事には仕事が始まらないので、無事に入荷するかどうか、
とにかく、それが第一です。 もう30分、遅れている。
この頃、新型コロナウイルスの影響で止まっていた物流が、ようやく回復し、
世界各地でコンテナが不足。 輸送の遅れが生じていました。
あ~、もしもし。 うちのコンテナ便ですけど… 予定通り確かに今日の到着で
間違いないのですよね?
この日、到着予定の1500箱のクリスマス飾りは、届かない事が分かりました。
今日は来ない。 ウソでしょ? 現場を指揮するジェドに連絡です。 コンテナが
列車に間に合わなかったので、今日は届かない。 1番早くて金曜の9時だ。
まったく、まいったな…。 ああ…。 分かった。 じゃあ、また後で。 ああ。
ロンドンの社交クラブでは、飾りつけを終わらせる時間まで、10分を切ろうと
しています。 ここの4本は隙間が目立つな。 物足りない。 もっと飾りを増や
そう。 赤よりもワイン色で。 もう来ている人がいます。 焦りますね。
何とかして、あと20分くらいでは仕上げないと。
ようやくツリーの飾りつけが終わり、最後に大きなリースが掛けられます。
幅1.5メートルのリースが、部屋の中央に掛けられました。 これで飾りつけは
全て完了です。 ツリーにライトが灯り、クリスマスの準備が整いました。
社交クラブ初の試みは、成功したのでしょうか? いかがです? 大満足!
よかった…。 どうぞ、ご覧ください。 ため息が出ます。 エレガントで繊細。
上に行きましょう。 ここは、シックなフランス調です。 なるほど、うっとりする。
こちらも。 おしゃれ。 ピアノで1曲? もう、歌いたい気分。 ありがとう!
本当に、こちらこそ。 お気に召して、よかった。
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訪れたクラブの会員たちも、大満足のようです。 豪華ですね。 これぞ、
クリスマスだ。 素晴らしいわ。 ロビーが特に。 いいですね。 見ていると、
何だか踊りたくなって来ます。
満足してもらえました。 成功ね。 嬉しいですね。 歴史ある社交クラブに、
新たな冬の装いが加わりました。
イギリス南部の田園地帯にたたずむ世界遺産ブレナム宮殿。バロック様式の
傑作として名高い、この宮殿でも、クリスマスを祝う準備が進んでいます。
毎年、宮殿を華やかに彩るデコレーションを見ようと世界中から人々が集まり
ます。 クリスマスは、私たちもウキウキする時期です。 家族みんなで来て、
飛び切りの時間を楽しんでほしいですね。
今回のテーマは、クリスマスにお馴染みのバレエ、くるみ割り人形。 宮殿の
8つの部屋にバレエの各場面にちなんだ装飾を施し、くるみ割り人形の世界に
いざないます。 準備するクリスマスツリーは、全部で20本です。
毎年25万人が訪れる大イベントが、あと5日で始まります。 時間と闘いながら
クリスマスツリーで、くるみ割り人形の世界を創り出すのです。 焦りますね。
でも、みんな自分の役割を、ちゃんと果たしています。
いよいよ本番ですね。 嬉しいです。 長い時間をかけて計画して、ようやく、
ここまで来ました。 準備は、ほぼ万端。 いつでも作業に取りかかれますよ。
宮殿内は、貴重な品々が至る所に並んでいます。 床は、18世紀の大理石。
傷をつけないよう、細心の注意が必要です。 気を付けて。 このまま!
手を離さない。 こんなに、いっぺんに飾りつけた事ない。
作業が一斉に始まりました。 ツリーを飾るボールは5000個。 朝までに全部
つるします。 ここのは、そのツリーにつけて。 まんべんなくね。 これだと、
やり過ぎ? それぞれの部屋のテーマによって、ツリーの飾りも変わります。
大広間は、雪の国。 アイスホワイトという色が基調です。 書斎は、紫と
ピンクのツリーで、お菓子の国に。
間隔は均等にね。 その方が綺麗だから。 順調だと思います。 まだ怒鳴り
声が聞こえないし…。 今のところ、うまく進んでいます。
しかし油断は禁物です。 朝になったら、玄関ホールを飾る1番大きなツリーを
一気に飾りつけなくてはなりません。
まったく…最悪です。 またトラブルだ。 リバプールでは新たな問題が発生。
雪の結晶の飾りが、注文したサイズと違っていました。
全部で1700個。 注文より大きいのです。 20%以上も。 今さら返品する
時間はなく、自分たちで何とかするしかありません。 急きょ、臨時のチームを
立ち上げました。 いくらやっても、まだ、こんなに…。 僕は、クリスマスが
大好きなので、楽しんでやってますよ。
ブレナム宮殿では、玄関ホールの飾りつけが始まりました。 ここに、高さ
9メートルのツリーを立て、来場者を驚かせます。 しかし宮殿には、大きな
機械を持ち込めないので、作業は大変です。
大きいツリーは、しばしば作ります。 でも、大抵、ツリーの上の方の作業は、
高所作業用のクレーンに乗って、やるのです。 今回は足場を組み、登って
作業しなければなりません。 私が知っている限り、初めての事です。
まずは、ツリーを囲む形で、大きな足場を組み立てます。 あとは、ツリーの
てっぺんをつければ完了です。 よし、これ! 出来た! ご苦労さん!
ここからだと小さく見えるな。 続いて4000個のライトをツリーに巻きつけます。
ちょっと待った! これは厄介です。 足場のせいで、お互いが見えない。
多分そこだ。 そう! そのまま、こっちに!
くるみ割り人形の世界を再現するために、巨大なツリーに太鼓やキューピット
などの飾りをつけて行きます。 あと少し。 きっと盛り上がるはずです。
いろいろ苦労もありましたが、仕上がったものを、お客さんが喜んでくれると
嬉しいですね。 完成写真を見たら、自分たちが作ったのだと誇らしく思うで
しょう。 スタッフたちの仕事は終わりました。 テーマごとに飾られたツリーが、
くるみ割り人形の世界を華やかに表現します。
一方、こちらはリバプール。 入荷の遅れが、さらに深刻になっていました。
ニック! ニックは、いる? お呼びかな? あぁ、この船… うちのコンテナが
2つ載っているのだけれど、まだスエズ運河にも到達していない。
見てくれ。 まるで高速道路の渋滞みたいだ。 確かに…。 頭の痛い状況が
続いているようです。 前より遅れていないか? どうやら、ひどい嵐が来て
いるらしいんだ。 まずいな… 何か手は? 無い。 もうお手上げだな!
雪の結晶の飾りを小さくする作業は、どうでしょうか? そろそろ限界かも…。
雪の結晶が夢に出でくる。 正直、順調とは言えないですね。 いろいろ変更が
出て、こんな面倒な事になるとは思いませんでした。
とがってると危ないから、切断面に綺麗にヤスリをかけろって。 かなり時間を
食います。 でも、やるしかない。
ブレナム宮殿のクリスマスイベントが始まりました。 ツリーを手がけたスタッフ
たちも、初日に駆けつけます。 すご~い! うわぁー、見応えあるわね!
こんなに大きかった? これが1番ね。 まだ全部見てないけど。 気が早い?
宮殿の中に現れた、くるみ割り人形の世界。 8つの部屋に飾られた豪華な
ツリーが、クリスマスにふさわしい夢の物語を彩ります。
うわー! 見て! これが最初に作ったツリーじゃない? そうね、かなりいい
感じ。 開始早々、来場者は1時間に600人を超えました。 好調な出だしです。
私たちが作ったものを、皆さんが、こんなに喜んで下さるなんて本当に嬉しい
ですね。 “大好きな飾りの写真を撮ったの! カワイイでしょ!”
“初めてブレナム宮殿に来ました。 感動しています”
“とても素敵なので、子供たちに動画を送ります。 次は、孫と来たい!”
“ツリーは、星の飾りが大好き! すごく大きくて、綺麗だから!”
“子供が笑顔になりますね。もう、うっとり!クリスマスの全てが詰まってます”
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こちらは、ロンドン自然史博物館。 大人気の観光スポットです。 ここでは、
毎年、冬、スケートリンクが開設され、真ん中にそびえるクリスマスツリーが
評判となって来ました。
世界的な名所ですし、イギリスでも最大級のツリーになるでしょう。 それを
手がけるわけですから、責任重大です。
ショブナはベテランですが、この規模の仕事は初めてです。 スケートリンクの
中央に、高さ9メートルのツリーを立て、てっぺんに2メートルの星を飾ります。
20万人の来場者が見込まれる大イベント。
しかも飾りつけのスケジュールは、かなりタイトです。 作業日は、1日だけ。
1日で、全部仕上げるのです。 まるでエベレストにでも登るような気分です。
本番の日が近づくにつれて、緊張が高まります。
ツリーを飾りつける日まで、あと4日。 ショブナは、準備に余念がありません。
当日、全てが完璧に進むよう準備します。 今回は、まず金属のフレームで、
高さ9メートルのツリーを組み立てます。
そこに800本の枝をつけ、2万4000個のライトと、1000個のボールで飾ります。
そして、てっぺんには、2メートルの大きさの星です。
スイッチを入れて、ライトが、ちゃんとつくかどうか、いつも心配です。 ライトは
OK。 そう、じゃあ、星を取って来る。 倉庫には色んな飾りが置いてあって、
星も、この中にしまってあります。
忘れない様にラベルも貼っていますが、どこに置いたかは覚えておかないと。
ショブナは以前、宝石関係のビジネスをしていましたが、世界的な金融危機の
影響で、転職しました。
何をしようか悩んでいた時に、クリスマスに家を飾りつける仕事があると知り
ました。 最初は、年に1カ月働けば済む、綺麗なお宅でツリーを飾るだけ
だろうと、甘く考えていたのです。
それが、いつの間にか、すっかり規模が大きくなって、まさか有名な博物館に
9メートルのツリーを飾る事になるとは思ってもいませんでした。 本当に驚い
ています。 時々、眠れない日もありますが、それも、この仕事の一部ですね。
うまく行ってほしい! えっと… これ、どういう事?
ケーブルが壊れています。 これでは星が光りません。 1番大事な星が光ら
ないなんて、これは想定外。 ツリー作りの本番まで、あと僅か。 今からでは
部品の取り替えも間に合いません。
いつも何かしら起こるな…。 トラブルがあるなら、ツリー本体だと思ってた。
ツリーのてっぺんの星は、クリスマスのスケートリンクには欠かせません。
ショブナは果たして、解決策を見つけられるのでしょうか?
リバプールにある、アルダーヘイ小児病院。 地域の小児医療の拠点として、
年間33万人以上のケアを行っています。 病院では、入院中の子供たちが、
クリスマスを楽しめるよう、催しを開きます。
ニックとサラの会社が、これに賛同して、協力する事になりました。 楽しい
クリスマスを過ごしてもらおうと、知恵を絞っています。
クリスマスの時期に入院している子供たちに、飛び切りの時間を体験をして
もらいたいのです。 私たちのツリーを、ご覧ください。
この日、病院のスタッフが、ツリーのデザインを選びに来ました。
あぁ、これ、いいな。 ステキ! ホント! これはキャンディーの杖ね。
あれも、子供たちが喜びそう。 ええ。
子供たちの入院生活をサポートする専門家チームと、綿密な打ち合わせを
行います。 入り口のアーチね。 見て、すごくいい。 きっと喜ぶわ!
クリスマスを病院で過ごすのは、子供たちにとってツライものです。
ですから、その時間が少しでも明るく、そして楽しいものになるよう、できる限
りの事をしたいと思っています。 子供たちに喜んでほしいのです。 1人でも
多くの子が笑顔になれば、私たちもやり甲斐があるし、嬉しくなります。
飾るのは、ツリーだけではありません。 このテディベアも、帽子とマフラーで
飾ります。 最高! 高さ3メートルのテディベアが、入り口で子供たちと家族を
お出迎え。 そして巨大な光のアーチや高さ7メートルのクリスマスツリー等で
たっぷり楽しんでもらうというのが、ジェドたちのアイデアです。これはスゴイ!
希望通りです。 さすがですね。 お任せ下さい!
一方、待ちかねていたクリスマス飾りの到着に、進展があったようです。
プレゼントを届けに来た、サンタの気分だね。 遅れに遅れていたコンテナ。
1つ目が、ようやく届きました。 やっとですね! ジャーン! 全部ライトだ。
クリスマスのライトです。 1500箱くらいありますが、1つずつ人の手で降ろす
必要があります。 一刻も早く荷下ろしして、飾りつけをするスタッフの元に
届けなくてはなりません。
さぁ、みんなでやるぞ! 色ごとに区別して置いて行こう! いや~よかった。
12個のコンテナのうち、ひとまず1個来ました。 でも11個は、まだなので、
ピンチを脱したとは言えません。
小児病院では、クリスマスの飾りつけが始まろうとしています。 超大型の
テディベアも、間もなく空気を吹き込まれます。
その子の居場所は? そこ? ああ、いいね! 色んなものが運び込まれて
病院の中が、どう変身するのか楽しみです。 ちょうど、クリスマスプレゼントを
待つ気分ね!
飾りつけは、一晩で一気に完成させ、子供たちを喜ばせる計画です。いよいよ
テディベアを膨らませます。 数人がかりの作業です。 いつもテディベアを
膨らます時は、どこか引っ掛けて、穴が開いたりしていないか気になります。
ちゃんと空気が入るか、ちょっと不安です。 いつもは、5~6分だけど…
時間がかかるな。 大丈夫か? はまらない? あぁ、ダメだ。 入り口に設置
する光のアーチでも、何か問題が起きているようです。
よく見ると、こっち側が少し高くなっているみたいだ。 だから…。 金属製の
フレームが、うまく、はまりません。 頼む、はまってくれ! そっちを、もう少し
持ち上げると、いいかも。 テディベアは、どうでしょうか?
※ クリスマスの事を、もっと知りたいなら → 楽天市場
!
どうやら治療の必要は、なさそうです。 壁に、つけよう。 お尻をクッションに
載せて…完璧! いいですね。 素晴らしい! よかった。 こんなに大きくて
素敵なぬいぐるみは初めてです。 テディベアは、無事、完成です。
入り口のアーチは? (ライトを点灯して)イエ~イ! 病院の中は、一夜にして
クリスマスのワンダーランドへと変身しました。 あと1つ、大切な飾りつけが
残っています。 もう1回! 出来た! これで、よし!
いよいよ、お披露目です。 さぁ、カウントダウンしよう! 3・2・1…(拍手と歓声)
“息子は早産で生まれて、ずっと、この病院にいます。 7回、手術をして今は
だいぶ元気になりました。 最高のクリスマスです”
“クリスマスの飾りを見ていると、だんだん、いつもいる病院じゃないみたいな
気持ちになって来る。 お家にいるみたい…”
“すごくキレイなツリー。 うちのより大きい。 ここのスタッフは皆さん、いい方
ばかりなんです。すぐ近くに、こんな素晴らしい病院があってありがたいです”
“クリスマスだな、嬉しいなって思います。 テディベア、フワフワして気持ち
よさそう” もう、大満足です。 期待を、はるかに超えています。
自宅でクリスマスを過ごせない子供達に、こんな素敵な時間を与えて下さって
心から感謝します。 この地域の人は、ほとんど、この小児病院にお世話に
なっています。 うちの子は、全員です。 ありがたいですよ。 病院スタッフの
皆さんも、子供たちと、その家族を第一に考えて下さいます。
こちらは、ロンドン自然史博物館。 ツリーを立てる日、1番乗りしたのは、
ショブナでした。 博物館の関係者が、いると思っていました。 事前に、色々
教えてほしかったのです。
ツリーは、どの位置に立てるのか? 電気は、どうやって引くのか? 8時まで
待つしかないですね。 担当者が来たらすぐに確認します。 不安を隠せない
中、8時になり、ようやく担当者が姿を見せました。
ツリーは、どこに立てるのですか? 地面に直接? 土が軟らかすぎると傾く
のですけど。 直接で大丈夫です。 リンクの中央が、ここになるので、これを
目印に。 ツリーは、今日中に仕上げてもらいますよ。
明日から周りにスケートリンクを作りますので。作業は、たくさんあるのですが
まずは、ツリー待ちです。 40箱分の枝を、巨大なツリーのフレームに取り
付けなくてはなりません。 ショブナは、一番面倒な作業から取りかかります。
手袋を。 マニキュアが、はげないように。 まず枝を広げて。 こんな風に。
1つ1つ、丁寧にやる事。 しっかり広げておかないと、フレームが見えてしまう
から。 じゃ、みんな始めて。
こんな大きいのは初めてです。 家庭用のツリーとは全く違いますね。
ルーク、星が光るかテストしない? これが新しいケーブル。 つくといいけど。
交換したケーブルは問題なく、星は無事点灯! のはずが…。
そっちが、つかない? 全部、つくはずなのに、どうして? 別のケーブルが
破損して、つかない場所がある事が分かりました。 誰か落としたのね…。
また星。 イヤになっちゃう! とにかく、何とかして! もう、急がないと!
ルークが懸命に修理に当たった結果… ついた! 見事、全部の星が輝き、
巨大ツリーを飾る準備ができました。 ルークのお手柄ね!
トラブルは、もう勘弁してほしいです。やる事が、まだ、いっぱいありますから。
これ以上は、何も起こらない事を祈ります。
ちょっと、ゆっくりペースだな。 ジェドがリバプールから、やって来ました。
大事な仕事が無事に完了するよう、確認するためです。 今、午後1時。
7時から作業を始めて… 6時間ですね。
来てくれたのですね! 調子は? 上々です。 枝をつけ終えて、あとは
飾りと星。 てっぺんの星が最後の仕上げ? ええ。 しっかりね!
完成した重さ1トンのツリーのてっぺんに、いよいよ大きな星を取り付けます。
その大役を担うのは、若手のスタッフです。 てっぺんに星をつけるのは、
これが初めて。 光栄です。 私は、高所恐怖症なので無理です。
頼めて、よかった。 向きを間違えないでね! もう少し、こっち! 完璧!
見事ツリーのてっぺんに大きな星がつけられました。 あとはスケートリンクが
開くのを待つだけです。 箱は、あるし、梱包材も全部、揃ってる。
リバプールでは、スタッフが総出で作業中です。 やっと出荷だな。
雪の結晶のヤスリがけが、ようやく終わり、発送する準備が整いました。
イギリス中の作業現場に、できる限り早く届けなくてはなりません。
手を止めない。 止めてる暇なんかないね。 私は経理が専門だけど箱詰めも
プロ並みだろ! 皆、長年の経験のたまもので、梱包作業は完璧です。
必殺技よ。 手が足りない時は、胸も使うの。 ラスト! あ~、終わった!
1700個の雪の結晶が、無事に送り出されました。 みんな、お疲れ!
あの飾りは、2度と注文しない。 うんざりでしょ? ハハハ…。
ロンドン自然史博物館のスケートリンクが、オープンしました。 ショブナが
手がけたツリーの周りを、皆、思い思いに滑っています。
個人的には、今回のツリーが、これまでで一番いいと思います。 とても、
クリスマスらしい。 ショブナの家族も、早速、駆けつけました。 感想は、どう
でしょうか? よく見て。 どう? ステキでしょ? 星が輝く姿を見て、安心
しました。 胸に、グッとくるものがありますね。
“クリスマスが来たんだなって、ワクワクしてます。 本当に綺麗ですね”
“遠くからツリーが見えて、ここに着く前からテンションが上がりました”
“ツリーがあるおかげで、この辺り全体がクリスマス気分で盛り上がるし、
イルミネーションが、みんなの気持ちを、1つにしてくれるような気がします”
“ツリーとスケートの組み合わせって、いいですよね!”
また来年のクリスマスに向け、ニックとサラ、そしてスタッフたちは、新たな
デコレーションの準備に取りかかるのです。
クリスマスを彩る華やかなデコレーション。 アイデアと工夫に満ちたイギリスの
飾りつけは世界的に有名です。 ロンドンの歴史ある博物館から田園地帯の
豪華な宮殿まで。 年々、そのスケールは拡大し、より洗練されて行きます。
今回は、クリスマスを盛り上げる飾りつけのプロたちに密着します。 主人公は
ニックとサラの夫婦と、400人の腕利きのプロたち。 どんな要求も、見事に
かなえます。 “メリー・クリスマス!”
ニックとサラは、22年前からクリスマスのデコレーションを手掛けています。
最初はサラのアイデアで始めたのです。彼女はデザインが得意で私は商売が
得意。 2人の才能を合わせてビジネスにしたら、どんどん大きくなりました。
雪だるまみたいに。
会社の顧客には、人気歌手や俳優など有名人がズラリ。 マライア・キャリーに
カート・ラッセル、ゴールディ・ホーン、それに、ケビン・コスナー。 まだまだ
いますよ。
この日、ニックとサラは、スタッフを率いてロンドンにやって来ました。 入って
行くのは、ランズダウンハウスという、格調高い建物です。
ここは、18世紀に建てられた貴族の館。 第1次世界大戦後、アメリカ出身の
パーティー好きの実業家が、住んだ事もあります。 今は名門のクラブとなって
いて、多くの著名人を含む、会員たちの社交の場となっています。
このクラブが初めてクリスマスの装飾を外部に依頼する事になり、ニックたちが
やって来たのです。 飾りつけは、ロビーにそびえる高さ3メートルのツリーを
はじめ、レストラン・ピアノバーなど、建物全体に及びます。
社交クラブのマネージャーたちも、作業を見守ります。 まずは、貴重な調度品
などを移動させます。 18世紀末、ここで、アメリカの独立戦争を終わらせる
条約の草案が練られたそうです。 その時の文章を大切に保管しています。
大変、貴重な物ですから、飾りつけの際も、特に気を付けてもらわなくては
なりません。 楽しみですね。 プロの皆さんが、この空間を、どう飾るのか?
早く見てみたいです。 期待して下さい!
ニックたちは独創性とスピード、そして、きめ細やかな心遣いをモットーにして
います。 感動を届けるんだ。 この建物のどこにいてもクリスマスの雰囲気を
味わえるようにしたい。
レストランは、朝食が11時に終わり、ランチは12時に始まる。 1時間しかない
から全員で協力して一斉に取りかかろう。ピアノに飾る花はビビの担当だね。
任せたよ。 魔法を見せよう。
スタッフたちは、レストランの朝食時間が終わるまでの間に、他の部屋の飾り
つけを仕上げます。 飾りつけは、いつも正確に、整然と進めて行きます。
現場で、あれこれ迷ったりしません。 全て計算しておくのです。
今回は大がかりですね。 訪れる会員たちを、あっと驚かせるため、サラが
デザインした全長8メートルの花飾りを掛けて行きます。 そこから見ると、どう
です? バランスよく、綺麗に掛かってますよ。 よし!
アレンジメント用のスポンジを使います。 経験豊富なフラワーデザイナーの
ビビ。 今回の飾りつけでは、ピアノバーを担当します。 このアールデコ調の
小型グランドピアノは、かつて豪華客船クイーンメリー号で使われていました。
大切なピアノを鮮やかに彩り、アンティーク調の内装にもマッチするよう、花を
アレンジします。 サラは、全部の部屋の装飾に気を配ります。
ここの感じが、こっちにもあると、華やかさが増すかも。 とても素敵だけど、
あと少しだけ… 金色? そう、キラキラっとね ☆ ツリーが待ってる。
間もなく11時。レストランの飾りつけができるのは朝食とランチの間の僅かな
時間しかありません。 時間との闘いです。 ランチが始まるまでに完成させな
ければいけません。 今から…1時間。
イギリス・リバプールにあるニックたちの会社。 クリスマスが近づき、忙しさが
増すなか、何か問題が起きているようです。
はい、入荷リスト。 コンテナが着かないのです。 みんな遅れています。
今年、使う予定のクリスマス飾りが、5つの国から、全部で125トン届く予定
ですが…。
飾り物が届かない事には仕事が始まらないので、無事に入荷するかどうか、
とにかく、それが第一です。 もう30分、遅れている。
この頃、新型コロナウイルスの影響で止まっていた物流が、ようやく回復し、
世界各地でコンテナが不足。 輸送の遅れが生じていました。
あ~、もしもし。 うちのコンテナ便ですけど… 予定通り確かに今日の到着で
間違いないのですよね?
この日、到着予定の1500箱のクリスマス飾りは、届かない事が分かりました。
今日は来ない。 ウソでしょ? 現場を指揮するジェドに連絡です。 コンテナが
列車に間に合わなかったので、今日は届かない。 1番早くて金曜の9時だ。
まったく、まいったな…。 ああ…。 分かった。 じゃあ、また後で。 ああ。
ロンドンの社交クラブでは、飾りつけを終わらせる時間まで、10分を切ろうと
しています。 ここの4本は隙間が目立つな。 物足りない。 もっと飾りを増や
そう。 赤よりもワイン色で。 もう来ている人がいます。 焦りますね。
何とかして、あと20分くらいでは仕上げないと。
ようやくツリーの飾りつけが終わり、最後に大きなリースが掛けられます。
幅1.5メートルのリースが、部屋の中央に掛けられました。 これで飾りつけは
全て完了です。 ツリーにライトが灯り、クリスマスの準備が整いました。
社交クラブ初の試みは、成功したのでしょうか? いかがです? 大満足!
よかった…。 どうぞ、ご覧ください。 ため息が出ます。 エレガントで繊細。
上に行きましょう。 ここは、シックなフランス調です。 なるほど、うっとりする。
こちらも。 おしゃれ。 ピアノで1曲? もう、歌いたい気分。 ありがとう!
本当に、こちらこそ。 お気に召して、よかった。
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訪れたクラブの会員たちも、大満足のようです。 豪華ですね。 これぞ、
クリスマスだ。 素晴らしいわ。 ロビーが特に。 いいですね。 見ていると、
何だか踊りたくなって来ます。
満足してもらえました。 成功ね。 嬉しいですね。 歴史ある社交クラブに、
新たな冬の装いが加わりました。
イギリス南部の田園地帯にたたずむ世界遺産ブレナム宮殿。バロック様式の
傑作として名高い、この宮殿でも、クリスマスを祝う準備が進んでいます。
毎年、宮殿を華やかに彩るデコレーションを見ようと世界中から人々が集まり
ます。 クリスマスは、私たちもウキウキする時期です。 家族みんなで来て、
飛び切りの時間を楽しんでほしいですね。
今回のテーマは、クリスマスにお馴染みのバレエ、くるみ割り人形。 宮殿の
8つの部屋にバレエの各場面にちなんだ装飾を施し、くるみ割り人形の世界に
いざないます。 準備するクリスマスツリーは、全部で20本です。
毎年25万人が訪れる大イベントが、あと5日で始まります。 時間と闘いながら
クリスマスツリーで、くるみ割り人形の世界を創り出すのです。 焦りますね。
でも、みんな自分の役割を、ちゃんと果たしています。
いよいよ本番ですね。 嬉しいです。 長い時間をかけて計画して、ようやく、
ここまで来ました。 準備は、ほぼ万端。 いつでも作業に取りかかれますよ。
宮殿内は、貴重な品々が至る所に並んでいます。 床は、18世紀の大理石。
傷をつけないよう、細心の注意が必要です。 気を付けて。 このまま!
手を離さない。 こんなに、いっぺんに飾りつけた事ない。
作業が一斉に始まりました。 ツリーを飾るボールは5000個。 朝までに全部
つるします。 ここのは、そのツリーにつけて。 まんべんなくね。 これだと、
やり過ぎ? それぞれの部屋のテーマによって、ツリーの飾りも変わります。
大広間は、雪の国。 アイスホワイトという色が基調です。 書斎は、紫と
ピンクのツリーで、お菓子の国に。
間隔は均等にね。 その方が綺麗だから。 順調だと思います。 まだ怒鳴り
声が聞こえないし…。 今のところ、うまく進んでいます。
しかし油断は禁物です。 朝になったら、玄関ホールを飾る1番大きなツリーを
一気に飾りつけなくてはなりません。
まったく…最悪です。 またトラブルだ。 リバプールでは新たな問題が発生。
雪の結晶の飾りが、注文したサイズと違っていました。
全部で1700個。 注文より大きいのです。 20%以上も。 今さら返品する
時間はなく、自分たちで何とかするしかありません。 急きょ、臨時のチームを
立ち上げました。 いくらやっても、まだ、こんなに…。 僕は、クリスマスが
大好きなので、楽しんでやってますよ。
ブレナム宮殿では、玄関ホールの飾りつけが始まりました。 ここに、高さ
9メートルのツリーを立て、来場者を驚かせます。 しかし宮殿には、大きな
機械を持ち込めないので、作業は大変です。
大きいツリーは、しばしば作ります。 でも、大抵、ツリーの上の方の作業は、
高所作業用のクレーンに乗って、やるのです。 今回は足場を組み、登って
作業しなければなりません。 私が知っている限り、初めての事です。
まずは、ツリーを囲む形で、大きな足場を組み立てます。 あとは、ツリーの
てっぺんをつければ完了です。 よし、これ! 出来た! ご苦労さん!
ここからだと小さく見えるな。 続いて4000個のライトをツリーに巻きつけます。
ちょっと待った! これは厄介です。 足場のせいで、お互いが見えない。
多分そこだ。 そう! そのまま、こっちに!
くるみ割り人形の世界を再現するために、巨大なツリーに太鼓やキューピット
などの飾りをつけて行きます。 あと少し。 きっと盛り上がるはずです。
いろいろ苦労もありましたが、仕上がったものを、お客さんが喜んでくれると
嬉しいですね。 完成写真を見たら、自分たちが作ったのだと誇らしく思うで
しょう。 スタッフたちの仕事は終わりました。 テーマごとに飾られたツリーが、
くるみ割り人形の世界を華やかに表現します。
一方、こちらはリバプール。 入荷の遅れが、さらに深刻になっていました。
ニック! ニックは、いる? お呼びかな? あぁ、この船… うちのコンテナが
2つ載っているのだけれど、まだスエズ運河にも到達していない。
見てくれ。 まるで高速道路の渋滞みたいだ。 確かに…。 頭の痛い状況が
続いているようです。 前より遅れていないか? どうやら、ひどい嵐が来て
いるらしいんだ。 まずいな… 何か手は? 無い。 もうお手上げだな!
雪の結晶の飾りを小さくする作業は、どうでしょうか? そろそろ限界かも…。
雪の結晶が夢に出でくる。 正直、順調とは言えないですね。 いろいろ変更が
出て、こんな面倒な事になるとは思いませんでした。
とがってると危ないから、切断面に綺麗にヤスリをかけろって。 かなり時間を
食います。 でも、やるしかない。
ブレナム宮殿のクリスマスイベントが始まりました。 ツリーを手がけたスタッフ
たちも、初日に駆けつけます。 すご~い! うわぁー、見応えあるわね!
こんなに大きかった? これが1番ね。 まだ全部見てないけど。 気が早い?
宮殿の中に現れた、くるみ割り人形の世界。 8つの部屋に飾られた豪華な
ツリーが、クリスマスにふさわしい夢の物語を彩ります。
うわー! 見て! これが最初に作ったツリーじゃない? そうね、かなりいい
感じ。 開始早々、来場者は1時間に600人を超えました。 好調な出だしです。
私たちが作ったものを、皆さんが、こんなに喜んで下さるなんて本当に嬉しい
ですね。 “大好きな飾りの写真を撮ったの! カワイイでしょ!”
“初めてブレナム宮殿に来ました。 感動しています”
“とても素敵なので、子供たちに動画を送ります。 次は、孫と来たい!”
“ツリーは、星の飾りが大好き! すごく大きくて、綺麗だから!”
“子供が笑顔になりますね。もう、うっとり!クリスマスの全てが詰まってます”
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こちらは、ロンドン自然史博物館。 大人気の観光スポットです。 ここでは、
毎年、冬、スケートリンクが開設され、真ん中にそびえるクリスマスツリーが
評判となって来ました。
世界的な名所ですし、イギリスでも最大級のツリーになるでしょう。 それを
手がけるわけですから、責任重大です。
ショブナはベテランですが、この規模の仕事は初めてです。 スケートリンクの
中央に、高さ9メートルのツリーを立て、てっぺんに2メートルの星を飾ります。
20万人の来場者が見込まれる大イベント。
しかも飾りつけのスケジュールは、かなりタイトです。 作業日は、1日だけ。
1日で、全部仕上げるのです。 まるでエベレストにでも登るような気分です。
本番の日が近づくにつれて、緊張が高まります。
ツリーを飾りつける日まで、あと4日。 ショブナは、準備に余念がありません。
当日、全てが完璧に進むよう準備します。 今回は、まず金属のフレームで、
高さ9メートルのツリーを組み立てます。
そこに800本の枝をつけ、2万4000個のライトと、1000個のボールで飾ります。
そして、てっぺんには、2メートルの大きさの星です。
スイッチを入れて、ライトが、ちゃんとつくかどうか、いつも心配です。 ライトは
OK。 そう、じゃあ、星を取って来る。 倉庫には色んな飾りが置いてあって、
星も、この中にしまってあります。
忘れない様にラベルも貼っていますが、どこに置いたかは覚えておかないと。
ショブナは以前、宝石関係のビジネスをしていましたが、世界的な金融危機の
影響で、転職しました。
何をしようか悩んでいた時に、クリスマスに家を飾りつける仕事があると知り
ました。 最初は、年に1カ月働けば済む、綺麗なお宅でツリーを飾るだけ
だろうと、甘く考えていたのです。
それが、いつの間にか、すっかり規模が大きくなって、まさか有名な博物館に
9メートルのツリーを飾る事になるとは思ってもいませんでした。 本当に驚い
ています。 時々、眠れない日もありますが、それも、この仕事の一部ですね。
うまく行ってほしい! えっと… これ、どういう事?
ケーブルが壊れています。 これでは星が光りません。 1番大事な星が光ら
ないなんて、これは想定外。 ツリー作りの本番まで、あと僅か。 今からでは
部品の取り替えも間に合いません。
いつも何かしら起こるな…。 トラブルがあるなら、ツリー本体だと思ってた。
ツリーのてっぺんの星は、クリスマスのスケートリンクには欠かせません。
ショブナは果たして、解決策を見つけられるのでしょうか?
リバプールにある、アルダーヘイ小児病院。 地域の小児医療の拠点として、
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飾るのは、ツリーだけではありません。 このテディベアも、帽子とマフラーで
飾ります。 最高! 高さ3メートルのテディベアが、入り口で子供たちと家族を
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クリスマスのライトです。 1500箱くらいありますが、1つずつ人の手で降ろす
必要があります。 一刻も早く荷下ろしして、飾りつけをするスタッフの元に
届けなくてはなりません。
さぁ、みんなでやるぞ! 色ごとに区別して置いて行こう! いや~よかった。
12個のコンテナのうち、ひとまず1個来ました。 でも11個は、まだなので、
ピンチを脱したとは言えません。
小児病院では、クリスマスの飾りつけが始まろうとしています。 超大型の
テディベアも、間もなく空気を吹き込まれます。
その子の居場所は? そこ? ああ、いいね! 色んなものが運び込まれて
病院の中が、どう変身するのか楽しみです。 ちょうど、クリスマスプレゼントを
待つ気分ね!
飾りつけは、一晩で一気に完成させ、子供たちを喜ばせる計画です。いよいよ
テディベアを膨らませます。 数人がかりの作業です。 いつもテディベアを
膨らます時は、どこか引っ掛けて、穴が開いたりしていないか気になります。
ちゃんと空気が入るか、ちょっと不安です。 いつもは、5~6分だけど…
時間がかかるな。 大丈夫か? はまらない? あぁ、ダメだ。 入り口に設置
する光のアーチでも、何か問題が起きているようです。
よく見ると、こっち側が少し高くなっているみたいだ。 だから…。 金属製の
フレームが、うまく、はまりません。 頼む、はまってくれ! そっちを、もう少し
持ち上げると、いいかも。 テディベアは、どうでしょうか?
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残っています。 もう1回! 出来た! これで、よし!
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“息子は早産で生まれて、ずっと、この病院にいます。 7回、手術をして今は
だいぶ元気になりました。 最高のクリスマスです”
“クリスマスの飾りを見ていると、だんだん、いつもいる病院じゃないみたいな
気持ちになって来る。 お家にいるみたい…”
“すごくキレイなツリー。 うちのより大きい。 ここのスタッフは皆さん、いい方
ばかりなんです。すぐ近くに、こんな素晴らしい病院があってありがたいです”
“クリスマスだな、嬉しいなって思います。 テディベア、フワフワして気持ち
よさそう” もう、大満足です。 期待を、はるかに超えています。
自宅でクリスマスを過ごせない子供達に、こんな素敵な時間を与えて下さって
心から感謝します。 この地域の人は、ほとんど、この小児病院にお世話に
なっています。 うちの子は、全員です。 ありがたいですよ。 病院スタッフの
皆さんも、子供たちと、その家族を第一に考えて下さいます。
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ショブナでした。 博物館の関係者が、いると思っていました。 事前に、色々
教えてほしかったのです。
ツリーは、どの位置に立てるのか? 電気は、どうやって引くのか? 8時まで
待つしかないですね。 担当者が来たらすぐに確認します。 不安を隠せない
中、8時になり、ようやく担当者が姿を見せました。
ツリーは、どこに立てるのですか? 地面に直接? 土が軟らかすぎると傾く
のですけど。 直接で大丈夫です。 リンクの中央が、ここになるので、これを
目印に。 ツリーは、今日中に仕上げてもらいますよ。
明日から周りにスケートリンクを作りますので。作業は、たくさんあるのですが
まずは、ツリー待ちです。 40箱分の枝を、巨大なツリーのフレームに取り
付けなくてはなりません。 ショブナは、一番面倒な作業から取りかかります。
手袋を。 マニキュアが、はげないように。 まず枝を広げて。 こんな風に。
1つ1つ、丁寧にやる事。 しっかり広げておかないと、フレームが見えてしまう
から。 じゃ、みんな始めて。
こんな大きいのは初めてです。 家庭用のツリーとは全く違いますね。
ルーク、星が光るかテストしない? これが新しいケーブル。 つくといいけど。
交換したケーブルは問題なく、星は無事点灯! のはずが…。
そっちが、つかない? 全部、つくはずなのに、どうして? 別のケーブルが
破損して、つかない場所がある事が分かりました。 誰か落としたのね…。
また星。 イヤになっちゃう! とにかく、何とかして! もう、急がないと!
ルークが懸命に修理に当たった結果… ついた! 見事、全部の星が輝き、
巨大ツリーを飾る準備ができました。 ルークのお手柄ね!
トラブルは、もう勘弁してほしいです。やる事が、まだ、いっぱいありますから。
これ以上は、何も起こらない事を祈ります。
ちょっと、ゆっくりペースだな。 ジェドがリバプールから、やって来ました。
大事な仕事が無事に完了するよう、確認するためです。 今、午後1時。
7時から作業を始めて… 6時間ですね。
来てくれたのですね! 調子は? 上々です。 枝をつけ終えて、あとは
飾りと星。 てっぺんの星が最後の仕上げ? ええ。 しっかりね!
完成した重さ1トンのツリーのてっぺんに、いよいよ大きな星を取り付けます。
その大役を担うのは、若手のスタッフです。 てっぺんに星をつけるのは、
これが初めて。 光栄です。 私は、高所恐怖症なので無理です。
頼めて、よかった。 向きを間違えないでね! もう少し、こっち! 完璧!
見事ツリーのてっぺんに大きな星がつけられました。 あとはスケートリンクが
開くのを待つだけです。 箱は、あるし、梱包材も全部、揃ってる。
リバプールでは、スタッフが総出で作業中です。 やっと出荷だな。
雪の結晶のヤスリがけが、ようやく終わり、発送する準備が整いました。
イギリス中の作業現場に、できる限り早く届けなくてはなりません。
手を止めない。 止めてる暇なんかないね。 私は経理が専門だけど箱詰めも
プロ並みだろ! 皆、長年の経験のたまもので、梱包作業は完璧です。
必殺技よ。 手が足りない時は、胸も使うの。 ラスト! あ~、終わった!
1700個の雪の結晶が、無事に送り出されました。 みんな、お疲れ!
あの飾りは、2度と注文しない。 うんざりでしょ? ハハハ…。
ロンドン自然史博物館のスケートリンクが、オープンしました。 ショブナが
手がけたツリーの周りを、皆、思い思いに滑っています。
個人的には、今回のツリーが、これまでで一番いいと思います。 とても、
クリスマスらしい。 ショブナの家族も、早速、駆けつけました。 感想は、どう
でしょうか? よく見て。 どう? ステキでしょ? 星が輝く姿を見て、安心
しました。 胸に、グッとくるものがありますね。
“クリスマスが来たんだなって、ワクワクしてます。 本当に綺麗ですね”
“遠くからツリーが見えて、ここに着く前からテンションが上がりました”
“ツリーがあるおかげで、この辺り全体がクリスマス気分で盛り上がるし、
イルミネーションが、みんなの気持ちを、1つにしてくれるような気がします”
“ツリーとスケートの組み合わせって、いいですよね!”
また来年のクリスマスに向け、ニックとサラ、そしてスタッフたちは、新たな
デコレーションの準備に取りかかるのです。